2025年6月15日 父・子・聖霊なる神
(要約)三位一体主日です。父なる神は私たちを神を礼拝するために創造しました。そしてイエス・キリストによって隠されていた救いの計画は明らかにされました。洗礼を受けた時に受けた聖霊によって、神のものとされ、神の国の相続者となったことを覚えます。
(説教本文)エフェソの信徒への手紙3章1-14節
今朝も早朝から国際ニュースに釘付けになっていました。イスラエルとイランの報復合戦がエスカレートしてきています。核についてのイランとアメリカの交渉を前にしてイスラエルがイランの核施設を攻撃し研究者を殺害し、その報復としてイランからも弾道ミサイルが多数イスラエルの商業都市のテルアビブや昨夜は北部のハイファに向けて発射されました。第5次中東戦争の勃発、核戦争へ進まないことを心から神に祈り願います。今年は世界で最初に核爆弾が広島と長崎で使用されて80年です。80年前の1945年7月に世界初・人類初の核実験が行われたとき、アメリカはこれを「トリニティ実験」と呼びました。オッペンハイマーが名付けたと言います。トリニティというのは三位一体という意味の英語です。
先週はペンテコステの礼拝でした。イエス様が天に昇られてから10日後に聖霊が弟子たちに降り、そして力を受けてイエス・キリストの復活を証ししました。神さまがイスラエルに約束していた救い主こそイエス・キリストであると伝え始めたのです。ですからペンテコステは教会の誕生日とも言われるのです。聖霊と教会は強い結びつきがあります。ペンテコステの翌週の主日を三位一体主日としています。13世紀から始まった祝祭です。三位一体という言葉は聞いたことがあっても三位一体の意味するところはよくわからないという方もあるでしょう。政治の世界でまで「三位一体の改革」などと言い出すのでなおさら本当は何なのかがわからなくなります。
教父とよばれる古代の神学者がいろいろと聖書に書かれている、創造主なる神と、救い主キリストと聖霊のことを説明したのが三位一体の教理ということです。唯一の神と言いつつ、父なる神がいて、子なるイエス・キリストも神で、さらに聖霊というのも神だと聖書の様々なところで言っているわけなのです。今日は三位一体の教理を学ぼうという日ではありません。
三位一体の神を信じるために、教会は歴史の中で様々なイメージや賛美歌を生み出してきました。先ほどの賛美歌で「三つにいましてひとりなる神をほめ歌う」「父・子・聖霊のひとりの神」と歌いましたね。ロシア正教ではイコンを用いてイメージを描きます。これが「聖三聖者」というアンドレイ・ルブリョフという15世紀の画家の描いた三位一体の神を表すイコンですが、これを見るとひとりじゃなくて3人ですよね。実はこれは創世記18章にあるアブラハムのところを訪れた旅人の姿をした天使を父、子、聖霊なる神として描いているのです。中央が子なるキリスト、皆さんから見て左が父で右が聖霊だそうです。三人の間に大きさの違いはありませんね。
本日の聖書箇所、エフェソの信徒への手紙はパウロが書いたか、あるいはパウロよりも後のパウロの弟子が書いた手紙かは定かではありませんが、エフェソの教会だけに書いた手紙ではなくこの地域一帯の教会に回覧された手紙と考えられています。その手紙の最初で神への賛美をささげ、祈りを献げるのが、今日の箇所になります。三位一体主日にこの箇所が読まれるのには理由があります。この中に、父なる神、子なるキリスト、聖霊が含まれているのです。
まず、3節には父と子と聖霊があり3回祝福という言葉が繰り返されます。「父である神は、ほめ讃えられますように」ほめたたえる、賛美するという言葉も「祝福する」と同じ言葉です。方向が違うだけです。私たちから神に向かえば賛美ですが、神から私たちには祝福となります。「私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」というところは直訳では「キリストにおいて天上の霊的な祝福、つまり聖霊による祝福で、私たちを祝福してくださった」というふうになるので3つの祝福があるのです。先ほどの三聖者の話ではアブラハムへの祝福が語られていたことともつながるかとおお思いますが、礼拝の最後の祝祷においてもキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり、という三つにして一つなる神からの祝福が宣言されます。
神からの祝福を受け、神を賛美するという愛の交わりということが「三位一体」のテーマでもあります。父子聖霊がご自分の中で愛し合う、その愛があふれ出て私たちに注がれるのです。その愛の交わりに関して重要なのが聖霊の働きです。しかし、なかなか聖霊についてはよくわからないという方も多いですし、神さま、イエスさまと呼んでも「聖霊さま」という人格的な呼びかけに違和感を感じるかもしれません。私がそうでしたが、このみつが同じであるなら聖霊さまと呼びかけるべきですね。
また三位一体の神を信じるということは「救い」に関わることです。
4節から14節は日本語ではいくつかの文章に句読点で分けられていますが、元々の文は長い一つの文になっています。しかし、大きく3つの部分に分けることができます。まず、4節~6節では「キリストにおいて選んだ」、「イエス・キリストによって前もって定めた」、と私たち信じる者、教会に連なる者が「選ばれた」者であることを伝えるのですが、それは神を讃えるためだと述べられます。
7節から10節においてイエス・キリストの十字架による贖いが語られます。
そして、11節から14節において「約束されたものの相続者」「約束された聖霊で証印を押された」という印象的な言葉があります。
4節に「神は天地創造の前に、キリストにおいて私たちを選んだ。」とあります。それは神の私たちへの愛ゆえであり、聖なる者、傷のない者にしようというのは、5節にあるように、つまり神さまのもの、神の子、神の養子とするために遙か昔、世界の創造はじめから神さまの自由な意思によって決めていたというのです。なぜでしょう、それは私たちが神を賛美するためなのです。神が愛する御子イエス・キリストを通して与えてくださった恵み、イエス・キリストと結ばれることによって神の養子となる恵み、後で出てきますが相続人とされるという恵みによって、父なる神と御子キリストをたたえるためです。
私たちは、自分の努力や功績によって神の養子であるクリスチャンになったのではなく、クリスチャンホームに生まれたとか、どんな国や地域に生まれたとは関係なく、洗礼を受けてクリスチャンになったのは神さまの愛と自由な意思による贈り物だというのです。選ばれた、と聞いて喜ぶかどうかはあなた次第ですが、ここで言われていることは、神さまはあなたを神さまを賛美し礼拝するために造ったのだと言うのです。あなたの人生の目的、その第一は神さまを喜ばせることなのだと言っているのです。
今一つの学びの会で使っているテキストはアメリカのリック・ウォレン牧師(オバマ前大統領の大統領就任式の祈祷をした牧師)の『人生を導く5つの目的』ですが、その第一の目的が「あなたは神の喜びのために造られた」というものでした。神の喜ばれる行為は礼拝と呼ばれ、神を賛美し、神に感謝するときに神は微笑まれると書いてあります。私たちは自分の人生を「自分のもの」と考えがちです。そして神を礼拝し、祈るとき、自分の目標を達成できるように祈り、そのために何か恵みがもらえると期待しているのではないでしょうか?私もそうでした。ですから、最初にこの本を読んだ時にショッキングでした。自分の人生は自分のもので、自分で人生計画を立て夢に向けて努力するものだと思っていましたから。アンパンマンのマーチにもありますね。「何のために生まれて、何のために生きるのか?こたえられないなんて そんなの いやだ」聖書にはその答えがあります。
キリストに繋がり、神のものとなった私たちは、神が何のために私たちを生まれさせ、どうして私たちを選んだのかを聖書を通して教えられなければわからないのです。
アブラハムは信仰の父となるように、ユダヤ人だけでなく全ての人の祝福の源となるように神に選ばれました。選びとは他の人に祝福を分かち合うために先に神に出会ったということでもあります。
7節から10節には救いの計画について書かれています。それは9節にあるように秘められた計画だというのです。秘められた計画というのは奥義とか秘義という言葉ミステリオンという英語のミステリーにもつながる言葉で言い表されていますが、本来私たちが知ることのできない不思議な神の計画を神が与えてくださった知恵と思慮深さによって知らせてくださったのです。私たちが知恵や思慮深さを修行を積んで自分で獲得したのではなく、神様ご自身が与えてくださり、神様ご自身が御子キリストを通して表してくださり、そして知恵である聖霊を通して気付かせていただくのです。
イエス様が十字架に架けられて、その血、その死によって罪の奴隷状態から解放されたことも、秘義であり、神様からの恵みによるものです。そのイエス様の十字架と復活についても前もって決められていた神様の計画の中にあるのです。その隠された奥義である救いの計画を知ることの背後には、いつも出エジプトの物語があります。エジプトの奴隷状態からモーセによって導き出されてたという神が歴史に介入されたイスラエルの経験が、イエス・キリストの十字架の死の理解には不可欠であり、さらにさかのぼってアブラハムに約束されたアブラハムの子孫からはじまり諸国民、すべての人々への祝福は、イエスをキリストと信じる新しいアブラハムの子孫によって全ての人へと広がるのです。そのために、私たちは天地創造の以前から神によって選ばれているのです。
歴史の始まる前からの選び、そして歴史においておこった出エジプトとイエス・キリストの十字架、そしてキリストにつながり神の養子とされた私たちの現在までの神の救いの業、さらには「時が満ち」と書き表される救いの完成の時、天と地のものが一つになると聖書に記される、やがて来る将来の終わりの時までの救いの計画が私たちに明かされています。将来のことになれば、さらに理解することが難しい秘義であると言えますが、エジプトを脱出してから荒れ野を旅する時に昼は雲の柱、夜は火の柱が神の民を「乳と蜜が流れる地」(今は戦場となっているパレスチナですが)に導いたように、聖霊がわたしたちをガイドして新しい天と地の未来、神の国の完成・救いの完成へと導くのです。
三位一体ということも、これから先におこる救いの完成が天と地にあるもの全てがキリストを頭として一つになる、すべてのものが神を礼拝するときが来るということも神秘です。私たちの頭で考えてもよくわからない。ただ確かなことは、イエス・キリストが中心であるということ。これだけ「イエスによって、イエスにおいて、イエスを通して」とパウロが言うように、神の不思議さであるそれらすべてのことの中心にイエスがキリスト=メシア救い主であると信じることがあるのです。
もう一つ「確かさ」について言えば、救いの確かさは聖霊によって与えられているとパウロは言います。それは「聖霊で証印を押されている」という言葉と「受け継ぐための保証」という言葉で表します。証印というのは、昔王様や貴族が手紙を封する際に赤いロウを垂らして名を刻んだ指輪で押してシールしたイメージか、牛や奴隷に焼きごてで所有者を表す印をつけたというイメージです。キリストの福音、真理の言葉を聞いて信じて洗礼を受けた時に、消えることのない聖霊を受けて永遠に消えない神様のスタンプを押されて神のもの、神の子(養子)とされたということです。どんなに自分で信仰が弱くなったと感じても、すでに神のものとされていることには変わりません。洗礼を受けた後に、一時期教会を離れることがあっても、教会に集って共に礼拝をささげることができなくても、スタンプは消えることはないのです。もっと言えば、やっぱりクリスチャンやめたと本人が思っても、神様の側からしてみれば、何を言っているのかすでにあなたは私のものになっている、だから手放さないと思っているのです。
そして御国を受け継ぐための保証というのは、キリストにつながって神の養子になって子であるキリストと同様に相続する権利を与えられている。そしてその保証金、前払い金はすでに払われているという言い方をするのです。御国、神の国の完成の時、それはキリストが再び来て私たちも復活する時ですが、完全な平和で何も欠けのないシャロームの世界を相続することができる。そして、今もすでに前払いとして聖霊を受けているのです。その完成の時に神の栄光を賛美することになりますが、すでに前払い、生前相続を受けている私たちはこうして神を礼拝するのです。これが神を愛するために造られ、神を礼拝するために私たちは造られたということなのです。
聖霊は私たちひとりひとりのうちに与えられるものではありますが、礼拝をするとき、聖霊は共同体としての私たちの間にあり、愛にある交わりを造り出すのです。聖霊は教会の命です。この戦争が絶えない世界、隣人を愛することの少ない社会、選挙によって人々から一定期間の委託を受けているだけの政治リーダーが王のように振る舞う世の中にあって、神が王である愛によって支配するシャロームな神の国がすでに始まっているのだと教会は示し続けなければいけません。私たちはこの教会が、聖霊によって神の民だと印をつけられている私たちが、さらに父、子、聖霊なる神からの祝福をこの社会へと広げていくために、聖霊に導かれて互いに愛し合い愛の業を示していきましょう。