2025年6月22日 知られざる神 小田哲郎伝道師
(要約)日本基督教団の創立記念日を覚えて、戦時中の教団成立の経緯と戦争協力について振り返り、教団が1967年に発表した戦争責任告白をこの争いの絶えない、そして憂慮すべき時代に心に留めたいと思います。
(説教)使徒言行録17章22-34節
最近は健康維持のために早朝にこの近所を散歩しているのですが、三鷹にも新しい住宅に囲まれてまだまだ畑や屋敷林が残っているのを実感します。野菜の無人販売も結構ありますね。畑の中や農家の庭先に小さな祠や鳥居があるのを見かけます。氏神様を祀っていたり、稲荷神社だったりするようです。道ばたには、道祖神とか、京都だったらお地蔵さんとかがあることも多いですが、パウロが伝道旅行したギリシャ・ローマ世界のミニチュア版を感じます。それが信心深さを示しているかどうかはわかりませんが、「宗教は怖い」「宗教ヤバい」と言ってしまう日本人にとっては宗教とは別物の伝統文化や習慣であり、よくてパワースポットと言う感じでしょうか?かつて住んでいたタイでも街角のあちこちに祠があって毎朝誰かが花を供えたり、赤い色のジュースを瓶ごとお供えして、前を通る度に拝んでいく姿を見ると、信仰心が篤いなと思いました。仏教も精霊信仰のアニミズムもヒンドゥー教も入り交じっている感じですが基本的に宗教は良いもの、宗教的な人間は良い人だと思われますので、キリスト教やイスラム教にも良い印象があり、ポジティブに社会が受け入れていると感じました。日本でのキリストの福音宣教はなかなか難しいところがあり、いつまでも少数者ですが、社会に影響がないわけではないのです。今日は日本社会、国家と私たちの信仰について考えます。
日本にキリスト教が伝えられたのは16世紀のヨーロッパでは宗教改革の始まった後、カトリックのイエズス会のフランシスコ・ザビエルによってと歴史で習います。8世紀にはネストリウス派のキリスト教、中国で景教とよばれて7世紀には中国各地に広がっていたものが、日本にも伝えられていたという説もあります。一方でプロテスタントのキリスト教については1859年(安政6年)に渡来した外国人宣教師の宣教がその始まりとなります。そして1972年(明治5年)に横浜に最初のプロテスタント教会である日本基督公会が設立されました。この最初の教会はどこの教派にも属さない、超教派の教会として設立されましたが、その後欧米から各教派の宣教師が来日して、教派毎に教会が建てられていきました。長老派・改革派の日本基督教会、会衆派の組合基督教会、聖公会、メソジスト教会、バプテスト教会、ルーテル教会、この南三鷹教会の創立者久山峰四郎牧師の福音教会など、次々と日本での宣教を開始し、教会を設立していきました。まったくそれがバラバラだったかというと相互協力や連携を行う機運があり、1926年に日本基督教連盟が創立され、教派、キリスト教団体、ミッション団体が加わり教派合同への推進になりました。
1937年に日中戦争(十五年戦争)が始まり、天皇制による国民精神の統制と動員が強化・推進されました。ホーリネス教団などいくつかの教派は官憲によって弾圧され始めました。当初は信教の自由を守るという立場で、国家による宗教の統制を行う宗教法に反対していた日本基督教連盟のリーダーも、個人の信仰を守るためにキリスト教が体制に反する危険な宗教ではないと主張するがために国家に協力する道へとなびいていったのです。1940年に宗教団体法が実施され、翌年の6月24,25日に富士見町教会で行われた創立総会をもって30余りのプロテスタント教派が一つの教団に合同され、日本基督教団が成立しました。それで6月25日を教団創立記念日としています。そのことを覚えて、普段は使徒信条をもって信仰告白をしていますが、本日の礼拝では日本基督教団信仰告白を用いました。ただ、この信仰告白が制定されたのは、戦後に宗教団体法が廃止されて、組織の改正をおこない、教憲という教団の憲法を制定した後の1948年になります。
なぜ今年は、ことさら教団の創立記念日にあわせて教団の信仰告白を唱和し、そしてこの後に役員が読み上げますが日本基督教団の戦責告白とよばれる文章を読み上げるかというと、まず第一に今年が戦後80年という節目の年であること、そして私たちの教会は今年の年間聖句を「平和を実現する人々は幸いである」を選んでいること、三つ目に現在の世界で争いが絶えず、また新たに戦争が始まろうとしており、そして私たちの住む日本の政府も確実に戦争に向けての準備を進めている中に、私たちはキリスト者として生きているからです。
ただ、喜びをもって教団の84年目の創立記念日を祝うことができないのは、先ほど話したような国家による教派の合同という教団成立の経緯が戦争責任と切り離すことができなということからです。そのことが、この戦責告白に記されているから、改めて読みそのことを覚えたいのです。教団の名による国家への戦争協力は、戦責告白に書かれている「戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り努めることを内外に向かって声明いたしました」というだけではありません。
具体的には、日本基督教団として「戦闘機献金」を呼びかけ、陸海軍に1機ずつ「日本基督教団号」と名付けた戦闘機を献納し、日曜学校の子どもたちにもこの献金に加わらせ、大東亜共栄圏の建設が神のみ旨であると教え、喜んで戦争協力するように子どもたちを教会教育の名において行っていたのです。さらに教団は宗教宣撫班員として、教団に属する牧師、神学生、キリスト教学校教師、教団職員をフィリピンやインドネシアに派遣していました。宣撫というのは占領地での住民の懐柔で、「連続ドラマ小説あんぱん」ではたかしが紙芝居をつくって見せていましたが、フィリピンとインドネシアの宗教宣撫班では、現地のプロテスタント教会を欧米のミッショナリーから切り離して合同させ日本軍に協力させることが大きな任務でした。日本基督教団のコピーです。主の教会を戦争協力のための組織に仕立てることを牧師たちがやっていたのです。これを南方キリスト教化、福音宣教だと言っていたのです。ですから、戦時下で仕方なく合同させられ戦争に協力させられたというよりももっと積極的に戦争に協力し、アジアの隣人を傷つけていたのです。満州や朝鮮や台湾ではなおのことです。そのような事実があったからこそ、「この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからゆるしを請う」というのです。
私たちの南三鷹教会は戦後に生まれた教会です。教会として戦争に加担した歴史はありません。しかし、私たちの教会は日本基督教団という全体教会の一部、体の部分なのです。痛みを分かちあう必要があります。この教団の戦争責任告白は私が生まれる前の年1967年のイースターに発表されました。しかし、この「戦責告白」はわたし個人の告白でもあります。以前にもお話ししましたが、私は大学生になって最初の夏休みにフィリピンにスタディツアーに行きました。そこで世話をしてくれた同世代の女性が彼女のおばあさんから「なんで日本人の世話なんかするのか。日本兵は私の目の前で赤ん坊を銃剣で突き殺し、捕虜たちを死ぬまで歩かせ、こき使った」と言われたのを聞きました。戦争中に日本がどんなことをしたのか、よく知らなかった私は大変ショックを受けました。その後教会のツアーで訪れた韓国でも、台湾の山の中でも日本語を話す老人に出会い戦争の話を聞きました。
大学生の当時に「荒れ野の40年」という当時の西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の終戦40周年の演説を読みました。た「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という言葉が有名ですが、その前からはこうあります。
今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(「荒れ野の40年」岩波ブックレットより抜粋)
私たちが、この現代の危うい時代にあって、教会が同じ罪を犯さないためにもこの58年前に教団としての戦責告白を知り、わたしたちのものとして心に留める必要があるのではないでしょうか。
パウロは当時の世界の文化の中心地アテネで哲学者たちと議論し合いました。何とか彼らの文化・風習に入って偶像の神々ではなく本当の神を伝えようと、道ばたで見かけた「知られざる神に」という祭壇・祠をつかって、「あなたがたが未だ知らない神として拝んでいる神。それが天地創造、この世界を創造した神です。その神はこんな小さな祠の中には住みません。私たちに命と必要な全ての物を与えてくださる神ですから、食べ物や飲み物をお供えする必要もないのです。天地を造ったからといって、天の上で黙って下界を見ている方ではなく、今も私たちに関わってくださる方なのです。」と。ギリシア人も自分たちの知っている神を批判するのではなく、別に「知られざる神」がいることには耳を傾けたかもしれません。
昭和初期から戦中にかけて日本のキリスト教徒、牧師の中には、天皇を現人神とする皇国思想、国家神道との融合をはかり日本が「神の国」であるとの論を唱える「日本的キリスト教」によって福音を曲げる人たちもいました。このパウロがアテネのアレオパゴスの丘でギリシア人に説いた「知られざる神」が「天皇」だと、我が国固有の神は同時に世界共通の神だと言う牧師もいました。そこまでいかなくとも、神にのみ献げる礼拝において、君が代斉唱、宮城遙拝などを国民儀礼として取り入れて、この偶像礼拝をアジアの諸教会にも強要する罪をお犯しました。
しかし、パウロが伝えたのはイエス・キリストの十字架と復活による贖いという福音でした。アテネの人たちは「知られざる神」と聞いてそれは何だと関心を寄せたかもしれませんが、「死者の復活」と聞いてあざ笑い、「それについてはいずれまた聞かせてもらおう」と相手にもしなかったのです。パウロはそのようなアテネから離れ、コリントへの伝道へと向かったのです。それでも、大勢にお聴衆の中のわずかですが、真の福音を聞いて信じた人がいたことを聖書は伝えています。
戦後、日本基督教団の教団統理富田満は敗戦後初の常議委員会で戦争責任をどのように考えるべきかと問われて、富田は「余は特に戦争責任者なりとは思わず」と言い切りました。そのままGHQからも責任を問われず、統理の座は退いたものの教団の要職を担い続けました。
一方で、宗教宣撫班員として派遣されていた神学生の中田善秋という人は他の牧師らが帰国した後も英語が得意だということでフィリピンに残り、戦争末期の1945年にラグナ州のサンパブロで起きた中国人住民約600人とフィリピン人住民約70人が教会に集められて虐殺された事件に関わったとしてBC級戦犯としてマニラの米軍法廷で裁かれ、スガモ・プリズンに移され30年の重労働の刑が科されました。彼自身は虐殺に反対の意見をして何人かを逃れさせましたが、そうして罪に向き合うことを選んだキリスト者もいるのです。
戦後いくつもの教派が教団を離脱しましたが、この戦後22年にして発表された日本基督教団戦責告白は、それら離脱した教派・教団においても戦責告白を行うさきがけとなりました。これが発表された当時も日本がふたたび憂慮すべき方向に向かっていることを恐れ、ふたたびその過ちを繰り返すことなく「見張りの使命」を正しく果たせるようにと、主の助けと導きを祈り求めると言います。これは単に過去の戦争協力への懺悔ではありません。神ならぬ天皇に従って福音を曲げ、「地の塩、世の光」としての教会の預言者的「見張り」の使命を放棄したこと、その罪を告白し神にゆるしを請うものです。いま、また世界は憂慮すべき方向へと向かっていますが、他教団のいくつかは戦後80年ということで声明をだしていますが、日本基督教団からは何も聞かされていません。私たちは、日本基督教団の創立記念日にあたって、過去の戦争において教団がどのような過ちを犯し、そしてその罪を告白しているかを再認識することで、再び戦争の足音が私たちの日本・アジア地域にも近づいている中でも、平和をつくりだすものでありたいと願います。真の和解の福音を伝え、隣人と共に生きることを選ぶことでキリストに従っていきたいと思います。