2025年6月29日 弱さを引き受けて 小田哲郎伝道師
(要約)ゲツセマネの園で真剣に祈るイエスさまの横では眠ってしまうペトロたち弟子がいます。その弱さを、私たちの苦しみや悲しみも引き受けて十字架に向かうイエスさま。私たちは弱さを恵みとして受け止め、そこに神の力が働くことに信頼しましょう。
(説教本文)マルコによる福音書14章32-42節
私たちの生きているこの世界、現在の状況を見るにつけ「強い者が勝つ」ということが当たり前の世界、強さこそ平和をもたらすためには必要だと錯覚しそうになるのではないでしょうか?特に中東、パレスチナとイスラエルの争いの絶えない状況、またイスラエルとイランの報復合戦とそこに介入する大国を見ているとそのように感じます。日々平和を祈りつつ、主の平和、シャロームがこの地に実現しますようにと祈るのですが、聖書の語る「神の国」にはほど遠い私たち人間の現実を感じます。皆さんはどのようにお感じでしょうか?
国と国との関係にある「強さ」「力」が支配するこの世の現実だけでなく、「強さの論理」は「能力主義」やコスト・パフォーマンス=コスパやタイム・パフォーマンス=タイパという最近もてはやされる言葉にも表される「生産性」「効率性」という価値観が社会を動かし、わたしたち人間の価値まで計られてしまう、その価値観で自分自身をも見てしまうのではないでしょうか。
教会の中にすらその価値観が入り込み、「何かができる」「教会に貢献している」ことが「信仰の強さ」とすり替えられてしまう。そして、「弱い」ことに申し訳なさを感じさせてしまっているということはないでしょうか。
さて、本日の聖書の箇所はマルコによる福音書の受難物語の始まりに置かれているゲツセマネの祈りと呼ばれる箇所です。
11年前の受難週に私は6日間のイスラエル旅行に行きました。受難週に入る棕櫚の主日にテルアビブ空港に到着し、イエスさまが十字架に架けられた受苦日・聖金曜日にイスラエルを発ちました。イエスの歩いた道を辿るツアーで、ナザレからガリラヤ湖へ、カファルナウムからヨルダン川沿いを南下してエリコの街を通り、エルサレムへとイエスと弟子たちが歩いて旅した道のりを車で移動しました。エルサレムに入る前にはオリーブ山があります。そこからは谷を挟んであちら側に城壁に囲まれたエルサレム、シオンの丘が見えます。オリーブ山の麓にはオリーブ農園がありゲツセマネと呼ばれていた場所でヘブル語で「搾油場」の意味だとの案内板があります。わたしたちツアー参加者一行は、ここで車を降り、イエスさまが祈ったであろう場所に建てられた教会に入り、イエスさまが祈られたようにひざまずいて、伏して祈りました。
これより、皆さんをゲツセマネの園へ案内し、その物語の中に入っていきたいと思います。
あの晩、それはイエスさまが弟子たちと「最後の晩餐」をした木曜日の夜ですが、そのエジプトの奴隷の地から解放されたことを祝う過越の食事を終えてから詩編の賛美を歌い、イエスさまと弟子たちは満月の光のもとでキドロンの谷へと歩いて降っていきました。オリーブ山を登り始めるとすぐにオリーブ林に入りゲツセマネの園と呼ばれるところまで来ました。そこはいつもイエスさまと弟子たちが祈るために来ている場所ですから、月明かりだけでも迷ったりはしません。イエスさまは弟子たちに園の入り口あたりで「私が祈っている間、ここで座って待っていなさい」と言って8人の弟子たちに見張りの役を与えます。この場所に裏切り者が来ることをイエスさまは感じ取っていたのでしょう。
イエスさまは祈るために、ペトロと(ゼベダイの子)ヤコブとヨハネの3人の弟子だけを連れてさらに園の奥へと入っていきます。大切な時にはいつもこの3人がイエスさまにお供してきました。病気で死んだヤイロの娘をイエスさまが生き返らせた時も、山の上でイエスさまの姿が真っ白に輝き、モーセとエリヤと語りあっている幻を見た素晴らしい栄光の時も、この3人が選ばれました。しかし、死人をよみがえらせる秘義を見ても、栄光に輝くイエスさまの姿を見ても、その時はその意味もイエスさまが本当にどのような方であるかも、彼らには理解できていませんでした。そして、今回のイエスさまの祈りの意味も同様に理解できず、イエスさまの十字架と復活を通してようやくその意味が理解できたのでした。そんなペトロたちと同じところに私たちも立っています。
イエスさまは立ち止まります。いつもこの園で祈るイエスさまと違う様子です。苦渋の表情と何かを恐れているようで体が震えているのがわかります。こんなイエスさまの姿を見たのは初めてですから、ペトロたちは驚きました。そしてイエスさまの口から「私の魂は死ぬほどに苦しい」という言葉が漏れます。
先ほど朗読されたのは「わたしは死ぬばかりに悲しい」という言葉ですが、訳されていない「魂」という意味の単語が入っています。「私の魂よ/なぜうち沈むのか、なぜ呻くのか/神を待ち望め」という詩編を口ずさんで苦しみの中にも神さまに期待しているようにも聞こえます。しかし、「死ぬほど」に苦しい、悲しいと苦悩を吐露し、あるいは弱音を吐くイエスさまをペトロたちはこれまで見たことがありません。ご自分の受難を予告された時にも、これほどまでに弱々しいイエスさまは見たことがありませんでした。いよいよその時が迫っているのでしょうが、ペトロたちにはまだそのことがわかりません。
イエスさまは3人に「そこに留まって目を覚ましていなさい」と言って、少し奥に進んで行かれます。そこからは暗くてよく見えませんが、地にひれ伏して祈っているようです。イエスさまは「アッバ、父よ」と父なる神にアラム語で「おとうちゃん、パパ」と親しく呼びかけます。そして、「あなたは全能の父なる神ですから、私が受けるこの苦難の杯、あなたの人間に対する怒りの杯を私から取りのけてください」と祈るのです。イエスさまはご自分が十字架に架けられて死ぬことを知っています。処刑されて死ぬのです。これまでも弟子たちに受難の予告を伝えてきた通りです。しかし、この苦しみは一人の人間が負うには大きすぎます。全ての人間の罪を背負うことの重圧に、苦悩の重さに押しつぶされそうになるイエスさまがいます。私たちと同様に試練に遭われる人間であるイエスさまの姿があります。しかし、イエスさまは父なる神に信頼し、従順であります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と父なる神に祈るのです。ここには神の子、神であるキリストの姿があります。父なる神さまの御心とは何でしょうか?愛する御子を死に至らせることでしょうか?いえ、そうではありません。全ての人間を救うことです。イエスさまは、ご自分がそのために父なる神から遣わされたことをよくご存じでした。ですから、父なる神に信頼し、「御心のまま」にと従うのです。
イエスさまが祈りを終えて3人の弟子のところに戻ると、彼らは眠っています。「目を覚ましていなさい」と言ったにもかかわらずです。「シモン」とイエスさまはペトロを元の名前で呼びます。あの、「死んでも主について行く」と言った信仰者、「あなたの上に教会を建てる」とまで言われた「岩」の信仰に支えられていたのと違う、弱い人間「シモン」たちです。人間の「弱さ」の代表です。「心は燃えていても肉体は弱い」のです。自分が強いと思っている時には、「たとえみんなが躓いても、わたしは躓きません」というのですが、わずかな時も目を覚ましていることができないのです。ここに人間の「弱さ」があります。
イエスさまは再び「誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈っていなさい」と言い残して、先ほどのところ少し奥まで進み同じ祈りを祈られます。イエスさまは遠くに離れて行ったのではありません。ルカによる福音書が描くように石を投げて届く程度のところで祈られています。今回は「留まっていなさい」というだけでなく「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」とイエスさまは彼らに指示しました。しかし、ペトロたち3人は祈り始めても、また眠ってしまうのです。イエスさまの血の汗がしたたるような真剣な祈りと、わたしたちの姿とも言えるペトロたちの祈れない姿が対比されます。しかし、ここで福音書記者マルコは私たちは弱くてダメなんだと言いたいわけではありません。
ゲツセマネの園を訪れた私は、イエスさまが祈ったとされる場所に建てられた教会の中、聖壇の前にある岩に手を触れながら祈っていました。その時自分が何を祈ったかは覚えていませんが、父がひざまずいて祈っている姿が目に焼き付いています。この旅行には私の両親と同じ教会の会員であるご夫妻が参加していました。当時は元気にゲツセマネの園からエルサレムの旧市街を歩いて行きましたが、10年の月日が経ち年老いた父は歩くことが困難になり教会の礼拝には出席できなくなりました。何でも自分でできていた父も今では介護が必要な生活です。母も足を骨折して入院生活が続いて教会に行けなくなっています。年を重ねていけば、私たちの肉体は衰えていきます。
ご一緒したご夫妻は、その後奥様が献身して牧師になられましたが、5年前に働き盛りの息子さんが小さなお子さんとお連れ合いを残して病気で亡くなり、深い悲しみの中で赴任された教会の牧会をなさっていました。そして今はご自身の病気のためにその教会を離れ、緩和ケアをしながら残された命を祈りつつ過ごされています。
私たちは自分が病気になったり、家族が病気になって、また家族を失い悲しみと苦しみの中に沈み込んでしまうことがあります。イエスさまは、そんな私たちの弱さをすべて引き受け、私たちの悲しみ、苦しみを全身に受けてもだえ苦しみ、そして私たちに代わって「父なる神よ、この杯を取り除いてください」と祈ってくださっているのではないでしょうか?
一方で苦しみと悲しみの中で祈ることさえできない私たちがあります。まだ若かった私は、祖父が病院のベッドで「祈れへんのや」と言ったことに大変ショックを受けたことがあります。太平洋戦争の激戦地から最後の引き揚げ船で帰還しクリスチャンになった祖父は、社会的な地位もあり、自分の事業だけでなく業界全体の復興のためにも尽力し、教会やキリスト教団体でも多くの奉仕と献げ物をした人でしたので、私の憧れであり、信仰者としての模範でもあったのですが、その「祈れない」という言葉を聞いたときに、病院のベッドの上で痩せ細って寝ているというだけでなく、その信仰的な弱さを見せられて悲しくなってしまったものです。しかし、少し経験を重ねた今であれば「祈れない」という気持ちがわかるような気がします。神さまに見離されていると感じる時、そのような心の暗闇のなかで、呻きにしかならないような思いがあることを。それでも、聖書の「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)というパウロの言葉によって慰められます。聖霊が執り成しの祈りを祈ってくれている、あのゲツセマネの園でイエスさまが私たちの苦しみを引き受けて祈ってくださったようにです。
ペトロは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」とイエスさまに言われたのに、あまりの眠さに祈りも途切れ、眠りの誘惑に落ちてしまいました。ペトロたちも祈ることばを持てなかったのでしょうか。それともイエスさまが教えてくれた祈りを「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」と祈り始めたのでしょうか。最後の晩餐でおっしゃったことを思い起こしながら祈りはじめたのでしょうか。でも、いつの間にか眠りに落ちていました。夜の闇も深くなってきているのです。この世界の闇も。
イエスさまが祈りの場から戻られたことに気がついたペトロと弟子たちはハッとしました。いつの間にか眠ってしまっていました。今度は、イエスさまは何も言いません。ペトロたちも、何と言って良いのか言い訳すらも出てきません。
そしてイエスさまは無言で三度目の祈りために奥へと進みます。ペトロはそのイエスさまの悲しそうな後ろ姿を見ています。「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないとは言いません」と自分の信仰の強さを誇るようなことを言ったのに、眠りの誘惑に負けてしまう申し訳ない気持ち、情けない気持ちになりました。ペトロにとってはここで自分が砕かれる必要があったのです。弱さをさらけ出す必要があったのです。
三度目もまたイエスさまは同じように祈られました。そして三度目に戻って来たとき、ペトロたちはまた眠っていました。二度目には無言でその場を離れたイエスさまが今度は口を開きます。「あなたがたは眠っている。休んでいる。もうこれでいい」と私たちが使っている新共同訳聖書では訳しますが、別の訳では「もう眠って休みなさい。終わった。」とイエスさまは言うのです。これは諦めにも聞こえますが、ペトロたちへの憐れみの言葉ではないでしょうか。眠っている弟子への叱責ではなく、その弱さを認め、受け止めてくださるイエスさまの愛を私は感じました。その弱さを引き受けた上で、一人十字架の苦難へと向かいます。それが父なる神のみ旨、神の意志であり計画であるからです。
イエスさまは言われます「時が来た」「人の子、つまり私は、神に反する者たち罪人たちに引き渡される。そして十字架にかけられる。そのように神の計画にあり、その苦しみを受けることが全人類の救いのためには必要なのだ」と自ら進んで苦難を引き受けられようとされます。一人で、その一身に人間の、全人類の苦しみと悲しみを受け止めようとされるのです。ペトロたちにはもう休んで良いのだと言いながら。
しかし、次の言葉はどうでしょう。「立て、行こう」とペトロたちに呼びかけます。弱さを認めて、頑張らなくてもいいよ、休んでいいよと言ったかと思うと、こんどは「立ち上がりなさい」と自立を促すのでしょうか?「さあ行こう」と戦いに突き進むようにと鼓舞するのでしょうか?
もう、弱さを抱えて一人座り込み、立ち止まり、また眠ってしまうことはないのです。イエスさまがその弱さを引き受けてくださいましたから。「さあ、立ち上がろう、共に行こう」とイエスさまは私たちの手を引いて神の国へと導かれます。弱さを抱えながら「共に生きる」ところに自立があり立ち上がることができるのです。それがこの世にすでに現れている「神の国」のさきがけである教会です。信仰が強い人だけが頑張る、賞賛される所ではありません。生産性や効率の価値観、役にたつか立たないかで評価される場所ではありません。弱さを恵みとして受け入れ喜ぶキリストのからだである教会です。
ペトロはあの晩、ゲツセマネの園でイエスさまの弱さを見ました。そして自分の弱さも思いしらされました。しかしイエスさまの弱さが神の力として働きます。「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」(Ⅱコリント13:4)そして、聖書はこうも言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(中略)わたしは弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)と。
弱さが強さに逆転する、悲しみが喜びにかわるのが神の国です。私たちも、今自分が抱える体の弱さ、心の弱さ、魂の弱さを包み隠さず神さまに打ち明けましょう。その弱さがあるからこそ神さまの力が働き、またその弱さを引き受けてくださいます。教会は弱さをもったペトロ「岩」の上に建て上げられていくのです。