2025年7月20日 創立記念礼拝「主の平和に生かされる」 ウィリアムズ郁子牧師(英国国教会司祭、ICU教会説教者、ICU和解フォーラム代表)

(説教)ヨハネによる福音書20章19-23節

本日は、南三鷹教会創立記念礼拝にお呼びくださり、どうもありがとうございます。皆さんの創立記念礼拝にご一緒できることを大変光栄に思います。

今年は、先の戦争、太平洋戦争終戦からちょうど80年を迎える年であり、今の世界の状況、また日本の国内の状況を見ても、「平和」という課題に真剣に向き合わなければならない時であると感じます。その中で、この教会の今年の年間聖句は、イエス様の山上の垂訓からの一節「平和を実現する人々は幸いである」であるとお聞きしました。このイエス様から与えられている「平和を実現する」という課題について、今日は少しご一緒に考えてみたいと思います。

まず、私は今日もご近所の三鷹市内にあります国際基督教大学(ICU)から参りましたが、ICUが戦後まもなく創立された背景には、「平和を構築する若者を育てる」という理念があります。ICUの大学が始まるに際して、集まった募金で購入された建物は、もともと軍需産業の一環であった中島飛行機の戦闘機の設計研究所があったところでした。戦争をするためにあった建物が、平和を構築するための学び舎となったのです。そのことを覚えて、ICUの本館入り口の柱には、その意味合いを覚えて一つの聖句が刻まれています。それは、イザヤ書2:4で、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」というものです。

戦後、日本では、「もはや戦うことを学ばない」という立場を確かに80年とってきましたけれど、本当の意味で真剣に平和を希求し構築し続けるものとして私たちは生きてきたかと言われれば、答えは難しいかもしれません。

その中で、私たちは、この世で命を与えられている者として、すべての創造主である神様からどのように呼び掛けられているかを聞くために、何度でも、何度でも、み言葉に立ち返って聞くことが大事です。そこで、今日は先ほども読んでいただきました、ヨハネによる福音書の20章19節からの箇所に耳を傾けたいと思います。

この箇所には、十字架でイエスが亡くなられて3日目の夕方の出来事が書かれています。弟子たちは深い悲嘆と恐怖の只中にありました。自分たちも捕らわれるのではないかという恐怖から、鍵をかけて部屋にこもっていました。その朝には、女性たちから、空っぽの墓を見て、よみがえられたイエスにお会いしたという話を聞いていましたが、彼らはそれを信じて喜ぶことはできないままでいたのです。

すると、その鍵が掛かっている部屋にイエスご自身が現れ、弟子たちの真ん中に立たれ、「あなた方に平和があるように」と言われました。本当に心細かった彼らにとって、どんなに嬉しかったことでしょう。そして、イエスは手と脇腹の十字架の傷跡をお見せになりました。幽霊ではないのです。確かに、十字架の苦難を受けられ、死んで葬られたイエス様がそこに生きておられたのです。そしてイエスは重ねて言われました。「あなた方に平和があるように」と。主イエスが捕えられて以来、彼らの中に徹底的に欠けていたのは、「平和」でした。その「平和」をイエスは、2度、彼らに差し出された上で、こう言われました、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と。

復活された主に出会うことのできた弟子たちは、ただ喜んでいるわけにはいかないのです。復活の主に出会えた彼らには、使命が与えられるのです。その使命とは、イエスから与えられた平和を携えて「遣わされる」ということ。一人一人がイエスに信頼され送り出され、イエスに託された使命のために用いられるということです。

そう言って、イエスは、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われます。イエスに「遣わされる」ということは、イエス様から聖霊の息を吹き込んでいただいて出かけるということです。弟子たちは決して自分たちの力や思いで行くのではなく、主の霊を受け取り、その霊によって送り出され、主イエスの平和の福音を伝える者となるのです。

さらに、彼らに使命として与えられたのは、まず、「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」ということでした。私たちの罪を負って十字架にかかって下さったイエス様が、まず最初に強調されたのは、「罪を赦す」ということだったのです。もちろん罪を赦すのは、神様ご自身です。しかし、私たちは、イエス様から赦しの恵みを知って受け取る時、つまり、神に「罪赦された者」となった時、赦された罪びとの1人として、人を赦すという大事な役目が与えられるということなのです。「罪の赦し」の恵みは実に大きく大切なものであります。人は、真の「赦し」の恵みが与えられる時、人として大きく変えられ、さらに、イエス様に遣わされる生き方へと呼ばれることとなるのです。

そこで、この「罪赦されて、赦しの愛の福音を伝えるため遣わされる」と言うことを考えるにあたって、ヨハネ20章の次の章、21章で、よみがえられたイエスが、湖畔で弟子たちに声をかけ朝食を共にされた際、主イエスとペトロの2人が交わした会話を思い起こしたいと思います。ペトロといえば、イエスが捕らわれた晩、イエスが連れていかれた場所まで最後までついて行ったのはこのペトロだけでした。しかし、その場に及んで、「お前もあの男の仲間じゃないのか」と言われた時、ペトロは、「イエスのことなど知らない、関係ない」と3度も裏切って言ってしまいました。そのことは、おそらく彼の心の中で本当に悲しく恥ずかしく深く悔いていたことと思います。しかし、その湖畔での朝、そのペトロに、イエスは、3度、「私を愛しているか?」と尋ねるのです。3度イエスを知らないと言ってしまったペトロに、3度、「イエスを愛している」と言い直せるチャンスを下さったのです。そこで、ペトロは、主イエスの思いやり、つまりイエスの「赦しの愛」を知ったことでしょう。そして、イエスに赦され、心の傷を癒やされたペトロに、イエスは言います、「私の羊を養いなさい」と。つまり、イエス様は、ペトロに「罪赦された者としてあなたを遣わす」、「赦しの愛を携え、その愛を必要とする者のところに行って仕えなさい」と言われたのです。

ところで、この「罪の赦し」の恵みは、「平和」の恵みと深いつながりがあります。

私たちが神に背を向け、神を愛すことも隣人を愛すことも忘れている時、そこに「平和」はありません。神に背を向けて生きること自体が「罪」であり、そこには自分中心や利己主義による対立や諍いが生まれ「平和」はないのです。しかし、神様は、私たちに、その罪から解放されて生きるよう、神様の方から一方的に「赦し」のみ手を差しのべてくださいます。こちらからその恵みのみ手を受けとる時、私たちは神と共に歩む生き方へと変えられ、そこで「平和」のために生きるものとされるのです。

こうして考えると、「平和」とは私たちが作り出すものというより、神様から与えられるものではないでしょうか。この神様からの「平和」の贈り物を受け取るために、私たちは、自分中心なあり方を謙虚に悔い、神様の方から差し出される「赦し」の恵みを受け取るよう呼ばれているのです。そこから主の平和に生かされる道が始まります。赦された罪人として赦し合う道へ、互いに愛し合う、仕え合う道へと招かれるのです。先に読みましたイザヤ書2:4の「もはや戦うことを学ばない」という言葉の続きは5節で「主の光の中を歩もう」と結ばれています。戦うことをやめ、平和のために生かされる道は、主の光の中を歩む道です。私たちは主の光の中を歩むことに招かれています。

詩篇(34)には、「平和を尋ね求め、追い求めよ」とありますが、私たちは、自分の力で事をなそうとする道ではなく、そこから方向転換し、神の前で謙虚に歩むことが求められています。どのように生きるべきかは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」と、ミカ書6:8でも教えられています。主の平和に生かされるためには、そこで、「へりくだって神と共に歩む」ということが大事な鍵となります。そこに、主の光、希望の光があるからです。

この世には暗闇が多くあります。私たちの近くにもまた遠くにも暗闇はあります。イエス様が十字架にかけられて恐怖と不安の中に陥った弟子たちのように、私たちも様々な状況で、大きな不安に襲われ、深い暗闇の中に入ってしまう時もあると思います。しかし、闇は暗ければ暗いほど、キリストにある平和の光は、消えることのない光として、確かな光として希望を与えてくれるのです。

エフェソの信徒への手紙の2章にはこうあります。「キリストは。。。十字架によって敵意を滅ぼされ。。。遠くにいるあなた方にも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。」私たちは、このキリストについて生きる者として、平和の福音を証しするため送り出されます。この地に建てられた教会も74年目に向かって、この平和の福音の恵みと喜びを、遠くにいる人とも、近くにいる人とも分かち合うために歩み続けるよう、イエス様は呼んでくださっています。今日も、イエス様は言ってくださっています。「あなた方に平和があるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。。。聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪を赦される。」

平和の主の使者として遣わされる道のりで、そしてその先で、皆さんの上に聖霊による導きと祝福が豊かにありますよう祈っていきましょう。