2025年7月27日 「フェイクに気を付けて!」 小田哲郎伝道師
(説教本文)使徒言行録19章13-20節
先週の日曜日は創立記念礼拝でしたが、教会の外のこととしては参議院選挙がありましたね。
今回、特に注目されていたのがSNSを活用した選挙運動だと思います。インターネットを使っての選挙運動が解禁されたのはずいぶん前ですが、最近の地方選挙でのSNSの影響力の大きさからどの政党もSNSを重視していたのだと思います。SNSの広がりによってマスコミの情報への不信感も広がっているという状況もありました。若い世代はテレビも見ず、新聞も読まずで、情報はほとんどSNSからという社会の状況を反映しているでしょう。SNSによる影響の広がりというのは従来のマスメディアが一方通行で情報を発信していたのに対して、双方向での情報のやりとり、受け取った情報を自分が関係のある人たちに発信していくという情報シェアの仕組みによって拡散のスピードが非常に速いわけです。しかし、そこで流される情報の中には、誤った情報や、デマなどを含む悪影響をもたらすフェイクニュースというのもあるわけです。今回の選挙で選挙戦の前半は経済問題や物価高騰が中心だと思われていたのが、増えつつある外国人に対する姿勢がなぜか争点になってきました。その中で排外主義的なヘイト投稿、外国人が不正に生活保護を受ける、保険診療を受けているという誤った情報や、外国人の増加と犯罪の増加とが関係があるかのようなデマが拡散されていたことがマスメディアでは指摘されていました。フェイク・ニュースには気をつけなければなりません。
SNSによる情報拡散ではないのですが、聖書の使徒言行録を読んでいると、ナザレのイエスが復活した、このイエスこそメシア・救い主キリストだ、イエス・キリストを信じる人たちは病気を治したりすごい力をもっているようだという情報がどんどん広がっていく様子が描かれています。6章7節で「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、」と、使徒たちへの迫害が増す一方で、信じる人の数も増えて行き、12章24節では「神の言葉はますます栄え、広がっていった」と、エルサレムだけでなく、アンティオキアにいる信者によって家の教会ができてそこでも福音が広がる様子が描かれ、そこに後にパウロと呼ばれるサウロが加えられ、宣教旅行に出かける前にこの言葉が置かれています。そして本日の聖書箇所の最後にもこうあります。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」さらに、この場面のエフェソをはじめパウロの第二次、第三次宣教旅行で小アジア(今のトルコ)とアカイア(ギリシア)にも勢いを増しながら広がっていく様子が報告されています。それは弟子の数が増えた、信者の数が増えたという事実はあったものの、何よりも神の言葉、主の言葉が力をもって前へと進んでいる様子を描いているのです。福音そのものに力があり、そして聖霊に導かれるままに使徒たちは各地に使わされていくのです。私たちも「伝道」ということを考える時に、「自分たちの力で」とか「教会員の数を増やす」ことを目的にするのではなく、神ご自身が宣教なさる、「力ある福音」というのは神がすべての人を救おうとしているという恵みのメッセージ、罪の奴隷からの解放のメッセージであり、すでに神の国がここに始まっているということを伝えることです。
さて、今日の箇所を含む19章最初には「エフェソで」と小見出しがついていますが、その前18章23節には「パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」とあります。「ここで」と書かれているのはその直前に書かれているアンティオキアのことですから、宣教の拠点教会となっていたアンティオキアから出発して第三次宣教旅行に出かけたわけです。第一次宣教旅行ではアンティオケアから出発してキプロス島に渡り、それから小アジアに行ってガラテヤ人への手紙の宛先であるガラテヤ州のいくつかの都市でパウロによってイエス・キリストを信じる人が起こされ、家の教会ができました。第二次宣教旅行では、マケドニアのフィリピや、皆さん良くご存じのコリントなどギリシアの主要都市でパウロによって教会が建てられました。建てられたと言っても建物があるわけではなく、家の教会ですが、パウロは自分の若い弟子、あるいはその町に住む長老に教会の世話を委ねて、さらに新しい土地へと進みます。そんな中に小アジアのエフェソも含まれています。第二次で訪れて、第三次宣教旅行で3年の長きにわたって住んで小アジア宣教の拠点とした町です。コリントの信徒への手紙をはじめ、ガラテヤ書、コリント書、フィリピ書、フィレモン書も第三次宣教旅行の際にパウロがこの町に滞在中に執筆されたと言われています。
エフェソというのは紀元前5世紀までギリシア・イオニア地方の植民都市の中心として栄えていて、哲学者を輩出するような町でした。ローマ帝国の支配になってからはアジア州の州都となりました。港町なので、海運によってコリントやローマ、アンティオケアとつながっていましたし、小アジアの町とは街道を通してガラテヤなどにつながっていました。交通の要衝にあって、ローマ軍が駐屯する軍事拠点でもあり、商業都市としても非常に栄えていました。空中庭園を持つアルテミス神殿によって宗教的にも有名で、町の守護女神アルテミスに加えてギリシアの神々が祀られ、また歴代のローマ皇帝を祀る神殿もあって小アジアにおける皇帝礼拝の中心地の一つでもあったのです。
旅をしてまわったのはパウロだけではありません。この当時はパウロのように町から町へと巡回してまわるユダヤ教の預言者や教師、そして祈禱師もいました。祈禱師というのは、悪霊祓いをする人でエクソシストと呼ばれます。カトリック教会には現代においても悪霊祓いをする司祭がいて、悪霊を追い出すという賜物を持っているひとがいます。悪霊祓いを依頼する人、悪霊に取り憑かれているという人の9割は心理的な、精神的な問題で医学的に解決できル問題だそうです。ということは1割は本当に悪霊に取り憑かれていて医者では治せない領域があり、現代においても悪霊がいるということも真実だということです。悪霊につかれるというのは迷信ではないと。2000年前の世界では、病気に罹っているというのは悪い霊に憑かれているからだというのは常識で、それを誰も迷信だとは言いませんから、お祓いをしてもらうわけです。今でも日本人は厄年だといっては神社でお祓いをしてもらったり、予防的に無病息災を祈ってもらうということをしますね。そんな感じで各地のユダヤ人コミュニティを回ってはお祓いをして、報酬を得ていた巡回祈禱師がいたということです。そのことが今日の使徒言行録19章13節に書かれています。
11、12節を見るとパウロも病気の癒しの業を行っていたことがわかります。ペトロや他の使徒たちも使徒言行録の前の部分で福音を宣べ伝えるだけでなく、偉大な業やしるしと呼ばれるイエスが行っていた奇跡を、特に病気と障がいの癒やしを行っていたのです。パウロもその大いなる業を、奇跡とも言える病気の癒やしをしていました。それは、パウロの身につけていた汗拭きの手ぬぐいや前掛けか何かの布を持って行ってそれを病人に当てるだけで、病気が治るというような強力な効果があったということで、その噂も広がったのでしょう。もちろんパウロは自分にそんな力があるとは思っていません。イエス・キリストの名によって、というと悪霊を追い出すことができたのです。これはイエスが12人の弟子を派遣し村々へ巡り歩かせて、福音を告げ知らせて病気を癒やしたという記事にあるようにイエスの権威を分け与えられたということ。この弟子たちに特別な力が与えられたのではなく、イエスの権威によって悪霊を追い出して病気を癒やしたとルカは福音書でも、使徒言行録においてもはっきりと示しています。
しかし、このユダヤ人巡回祈祷師はそのパウロの行っている業を見て、そしてその奇跡によって人々から称賛を受けているのを見て、何とか自分もその力と称賛を、また富を得ようと思って主イエスの名前を使おうとするのです。彼らはイエスを主だとは思っていません。救い主だと信じてはいないのですが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命ずる」と、信じていない名を使うことへの気後れというか、少し遠慮があるのか「パウロが宣べ伝えている」というわけです。そうやって試してみようとするのです。そんな「おまじない」のようにイエスの名前を使ってその威力を試してみようとする人が何人もいたのでしょう。そんな中に祭司長スケワの息子たちもそんなことをしていたのです。エルサレムの神殿以外の場所に祭司長がいることが疑問ですし、もしかすると「祭司長」というのもウソかもしれません。実際、祭司長の名前を留めるどんな文書にもスケワなどという名前はないのです。それはともかく、その息子たちは実際にそのようにして病人を癒やそうとすると悪霊のほうがそれがウソ・フェイクだとわかって反撃するのです。ルカの書いた福音書でも4章でイエス様がペトロの姑が高熱で寝込んでいたのを癒やした後に、大勢病人がイエスさまのもとに来てイエスさまに手をおいてもらって癒やしてもらった際にも悪霊は「お前は神の子だ」と告白するのです。弟子たちよりも先にイエスさまを神の子、神だと告白します。8章のゲラサの人からレギオンと名乗る悪霊を追い出す際にも、悪霊は「いと高き神の子イエス、構わないでくれ」と神の子だと告白するのです。悪霊のほうが、本物がわかっているのです。
今日の箇所でもスケワの息子たちが「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる」というと悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのことも良く知っている。しかしお前たちは何者か」と言って飛びかかって酷い目に遭わせるのです。口先だけで言うだけでは何の力もないことを悪霊だって知っているのです。イエスさまの権威を受けているかどうかは悪魔にはわかってしまいます。この時言った「イエスは知っている。パウロもよく知っている」という「知っている」という言葉はイエスを知っているのとパウロをよく知っているのでは別の言葉が使われています。「イエスを知っている」というとき、それは本当に知っている、深く知っている、体験を通して知っているのです。「パウロをよく知っている」というとき、それは情報として知っている、頭で知識として知っているということになります。悪霊たちはイエスによって居場所を奪われてきました。活動範囲を狭められてきました。体験的に知っているのです。そして今、そのイエスの権威によって同じように人々の中にいる悪霊を追い出して、病気や障がいによる束縛から解放している使徒と呼ばれる人たちがいる、このエフェソでもパウロという使徒がそのようにイエスの権威によって人々を悪霊から解放していることを聞いて知っているのです。
この口先だけでイエスの名をつかったニセ者たちは、イエスの権威を受けることはできずに悪霊を追い出すどころか、本当にイエスの権威を知っている悪霊によって偽者であることを暴かれ自分たちが傷を負って家から逃げ出さざるを得なかったと、すこしコミカルにルカは描いています。彼らはパウロが受けていた「力」に魅了され、パウロが受けていた称賛を、また富を得ようという自分の欲望によってこのようなことになったのです。しかし、このことがエフェソ中に知れ渡り、ユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、多くの人々が罪を告白して信仰に入り、祈祷師、まじない師たちも商売にならなくなったのかもしれませんが、そのまじないの指南書を焼き捨てたと報告するのです。
しかし、使徒言行録の著者ルカはなぜここにこの祭司長の息子とされる偽まじない師を登場させたのだろうかと思うのです。パウロがそれだけ多くの力ある業、奇跡を行ったということを示すためでしょうか?神の言葉が力をもって広がっていく時にある迫害や妨害の一つの逸話として紹介するためでしょうか?悪霊によってさえイエスの名が崇められるという神の力の不思議さを示したかったのでしょうか?ルカの真意はわかりませんが、そのフェイクの出所がユダヤ教の祈祷師や祭司長の息子とすることで、当時まだ完全には別の宗教と見なされてなくユダヤ教の分派と思われていたなかで、その宗教的な組織や人々の中にもフェイクがあることを知らせているのではないかと思わされました。歴史的に見ても、私たちキリスト教会の中にも権力や力に、富に惑わされて真実な神の言葉を伝えていなかった教会が常にあります。弱いものを助けるようなフリをして、食い物にしていた教会があるのも事実です。私たちは常にこの世的な権力や富という「本当の強さや豊かさ」でないものの誘惑にさらされているだけでなく、信仰心においても「見せかけの信仰心」という誘惑があります。それは自分にイエス・キリストの力が宿っているかのように見せかけ、実は自分が頑張ることで立派な信仰心があるかのように周囲に見られたいという欲望です。
パウロは「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)という神の声を聞きました。この弱さはこの世的な社会的弱者という弱さではなく、わたしたちが徹底的に、無条件に神に頼るしかないという弱さです。そこに神の力が働くのです。悪霊の力である人々を縛り、分断し、自己卑下とあきらめに陥れる罪の力から解放する愛の力が働くのです。破壊的な力から解放し、癒やす力が愛の力です。
ヘンリ・ナウエンは「まことの力への道」という小さな本の中で、その癒しの力を実現可能にするために私たちが従うべき3つの原則を提案しています。最後にこのことをお分かちしたいと思います。
第一は、つねにこの世界の貧しい人々に目を注ぐこと。第二は、私たちに委ねられた貧しい人々を、神は本当に世話をしてくださると信頼することです。必要な経済的、情緒的、物質的なサポートは、必要な時に、必要なだけ与えられます。第三の原則は、予期せぬ悲しみに気落ちせず、予期せぬ喜びに気付くこと。これは難しいことだとナウエンも言います。「私たちの行く手には苦しみが待っています。計り知れない苦しみです。しかし、思わぬ苦痛に惑わされてはなりません。むしろ、不毛な砂漠のただ中で生きる小さな花の美しさに驚くように、予期せぬ喜びに気付くことです。そしてつきることのない泉の新鮮な水のように、苦痛の深みから湧き出る計り知れない癒しの力に気付くことです。」
貧しい人々に注ぐ目と、私たちに必要なものは手に入るという信頼の心と、予期せぬ喜びにいつも気付かせてくれる聖霊によって、私たちは真に力強く、奇跡を行いながらこの闇の世界を歩み通すことができるのです。神の力が私たちの内から流れ出てくるからです。