2025年7月6日 貧しさによる豊かさ 吉岡喜人協力牧師

(要約)豊かさとは何でしょうか。貧しさとは何でしょうか。本当の豊かさとは何でしょうか。この世は経済的な豊かさを求めます。しかし、神の国の豊かさは異なります。経済的な豊かさは、本当の豊かさとは別なことです。

(説教本文)コリントの信徒への手紙二 8章1節~15節 

本日の礼拝において神様は私たちに、豊かさとは何か、貧しさとは何か、本当の豊かさとは何か、と問いかけておられます。

手紙の宛先となっているコリントの教会には多くの問題があったようです。

まず、教会の中で分裂、対立がありました。コリントの信徒への手紙一に「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたは、めいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」(コリント一1:11~12)と書かれています。

また、社会的地位の高い者が、貧しい人、地位の低い人たちを蔑むことが平然と行われていたようで、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一1:27~28))と書かれています。

今日の礼拝では、主の食卓に招かれて聖餐をいただきますが、聖餐の原型は礼拝前の食事です。使徒言行録の時代の教会は基本的に家庭集会でした。迫害されないよう人目を避けて夜に礼拝を行い、持ち寄った食べ物で食事をしてから礼拝に臨みました。ところが裕福な人たちは、たらふく食べ、ワインも飲んで、礼拝が始まる頃には酔っている人がいる、一方で貧しい人々は空腹のままでいる。教会が分裂している、豊かな者は貧しい者に恥をかかせ、神の教会を見くびっている、とパウロは厳しく批判しています。(コリント一11:21~22)

生活態度も相当乱れていたようで、「あなたがたの間にみだらな行いがあり」((コリント一5:1)と書かれており、また「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人のものを奪う者」((コリント一5:11)とも書かれています。

キリスト者の生き方としてパウロが批判するこれらのことは、この世的な価値観を教会に持ち込んでいることが原因です。この世的な価値観は、世の中で最も必要であって大切なことは、経済的な豊かさであり、経済的な豊かさを求め、それを手に入れることに価値がある、という価値観です。

しかし、神の支配する世の価値観は、経済的価値観はとは全く反対の価値観です。経済的に豊かなことと人間的に豊かなことには関係がないのです。それどころか、経済的に豊かなことは、人間的な価値を貶めることになりやすい、なぜなら、経済的により豊かになろうとすると、争いが起こり、争いに勝たなくてはならなくなるからです。争いに勝つということは、負けた側は経済的に貧しくなる、大きな争いである戦争ともなれば家を焼かれ、土地を奪われ、財産を奪われ、命を奪われる。それは神の御心に全く反することだからです。

神が世界をお造りなったとき、わたしたち人間はエデンの園で暮らしていました。食べることに不自由がなく、争うことがない平和な世界に住んでいました。しかし、人間の欲望がすべてを変えてしまいました。神の思いを踏みにじって知恵を得た人間は、エデンの園から追い出され、地上で暮らすことになりました。そして争うようになりました。エバとアダムのこどもたちであるカインとアベルに争いが起こり、カインがアベルを殺してしまいました。神への捧げものに対するカインの一方的な憎しみが原因ですが、アベルよりも自分の方が上でいたいというカインのこの世的な価値観が生んだ悲劇と言ってよいでしょう。人間のこの世的な欲望を示す出来事でした。

今日の聖書の最後のところ、15節「多く集めた者も、余ることなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった。」と旧約聖書の言葉が引用されています。詳しくは出エジプト記に書かれていますが、エジプトを出たものの食料と水が底を尽き、イスラエルの民は飢えと渇きに苦しみました。エジプトを出たときの喜びと感謝は、悲しみと不平に変わりました。「こんなことならエジプトにいた方がよかった!」このような気持ちの変化は、わたしたちにもあるのではないでしょうか。イスラエルの人々にとって食料と水がないことは命にかかる危機でしたが、この危機は神への信仰を試される危機でした。

神は、マナとウズラを食料として与えてくださいました。神は一つだけルールを決めました。単純なルールです。マナは毎日必要な分だけを集めること。ほとんどの人々はこのルールを守りましたが、守らない人が出てきました。守れなかったという方が当たっているかも知れません。イスラエルから導き出されたイスラエルの人々は、自分たちが神から守られ、導かれていることを信じていました。そうでなければ、エジプトを出ることはなかったでしょう。しかし、食料も水も不足してくると不平を言い出しました。不平を言うということは、まだ神を信じているからできることです。神は毎日必要な分だけマナを与えてくださいました。食べ物があるのですから、安心して神に感謝したでしょうが、もし明日はマナがなかったら、と不安になったのです。そして余分にマナを集めてしまったのです。ここが人間の弱い所、罪深い所です。与えられると、もっと欲しいという気持ちが出てしまう。もっと手に入れると、さらにもっとと欲が出てしまう。際限がなく欲が膨らんでしまうのです。貪欲です。この貪欲が人を罪に陥れ、破滅に誘導するのです。自然の中で生きている野生動物には貪欲がありません。ライオンは満腹しているときは、目の前にシカなどが横切っても襲うことはないといいます。必要な時に、必要な分を食べる、まさに神が定めたルール通りに生きています。その日に必要な分だけマナを集めるという単純なルールは、人が神を信じてルールを守るか否か、信仰によって生きることの大切さを神は食糧危機を通して教えてくださったのです。

主イエスが洗礼を受けた直後、荒れ野で悪魔の試みを受けました。空腹の主イエスに悪魔は石をパンにするよう神に頼んだらどうかと誘惑します。主イエスは神の言葉でこの誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」私たちが生きて行くためには、胃袋を満たすパンは必要です。しかし、それだけでは、人間として生きて行くことができない。神の言葉は魂の食べ物です。人間が人間として生きるためには、魂を満たす霊なる食べ物が、必要なのです。

8章1節にマケドニア州の教会は極度の貧しさの中で惜しまずに人に施し、豊かになったとパウロは言っています。マケドニア州の教会というとまず頭に浮かぶのがフィリピの教会です。パウロのヨーロッパ伝道で最初に出来た教会です。どこの教会もできたばかりで小さく貧しかったけれど、フィリピの教会はパウロの伝道にできる限りの支援をしたのです。フィリピの信徒への手紙の中でパウロは「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音宣教の初めにマケドニア州を出たときも、もののやり取りでわたしの働きに参加したきょうかいはあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」(フィリピ4:15~16)と感謝しています。フィリピの教会は裕福だったのでパウロに経済的支援をしたのではありません。満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、惜しみなく施すようになったのです。「満ち満ちた喜び」とは、福音が届けられ、救いの道を歩むことができる喜びでしょう。そして「貧しさがあふれ出て」とはすごいことではありませんか。「貧しくても」ではなく、「貧しさがあふれ出て」、人々に惜しみなく施す豊かさとなったというのです。そして進んで慈善の業と奉仕に参加したのです。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」という主イエスの言葉どおりのことが起っていたのです。

4つの福音書すべてに、5つのパンと2匹の魚のエピソードが書かれています。加えて、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、4千人に7つのパンと少しの魚のエピソードが書かれています。どのエピソードでも、わずかな食べ物ですべての人が満腹しました。たった5つのパンと2匹の魚で、どうやってと理由を知りたくなります。不思議なエピソードですが、分かち合いがこの出来事を通して主イエスが語られたことの一つなのです。5つのパンと2匹の魚は、わずかな食べ物を象徴的に言い表したものでしょう。わずかな食べ物で人々の胃袋は満たされなかったかもしれません。しかし、魂が満たされました。吉祥寺にある東美教会の陣内大蔵牧師が作詞作曲した「キリストの風」という歌では、「分かち合えば満たされる、奪い合えば足りないと、わたしたちは知っています。」と歌っています。

今、世界には食べ過ぎて健康な生活ができない人々と、食べられなくて健康な生活を送れない人がいます。前者はアメリカや日本などです。世界の全ての人々が分かち合えば、全ての人が満たされます。分かち合えば、5千人どころか、50億人が満たされます。胃袋も心も満たされるのです。

最後に今日の聖書の8章9節をもう一度読んでおきましょう。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためです。」福音、それはわたしたちが豊かになるために、主が貧しくなってくださったことです。十字架という極限の貧しさに。