2025年8月24日 与える幸い 小田哲郎伝道師

(要約)既に多くの恵みを愛を神さまをいただいていることを覚え、その愛を恵みを惜しみなく人に与え分かちあいましょう。そして何も与える物を持たなくとも、神に依り頼むという信仰者の姿こそが、教会にそして未来の信仰者に豊かな恵みを与える、本当に祝福される幸いなことです。

(説教)使徒言行録20章17-35節

 「受けるよりも与える方が幸いである」、普段は何かをもらうほうがあげるよりも徳だという感覚のなかで、またより多くを得る方が豊かになり幸福だという価値観の世界で生きていると、それをひっくり返すようなインパクトのあるこのイエスの言葉は、今日読んだ聖書箇所の中でも非常に心に残るものであります。
 
 私は高校3年生の時に洗礼を受け、その時に「受けるよりも与える方が幸い」というのがキリスト者の生き方だと思いました。その当時、教会学校の高校生の分級でアジアの貧困の話やそこで働くJOCS海外医療協力会の働きを聞いていたので、大変関心を持ちました。考えてみれば、小学生の頃に教会学校で聞いたのか本で読んだのかシュバイツアーが医師としてアフリカに行ったことへの憧れを持っていた自分を思い出しました。また、ちょうどその当時に日本政府の途上国に対する援助(ODA)の金額がアメリカに次いで世界2位になった話題と援助が一番貧しい人には届いていないということが新聞で報じられていたこともあり、大学に入ったら国際協力の勉強をしたいと思いました。実際、大学に入り、アジア研究や実際にフィリピンに行っての井戸掘りなどに青春を費やし、自分でもクリスチャンであることとそういう生き方が一致するという気持ちで充実していたと思います。
 
 しかし、そうして貧しい国に行って貧しい人を助けたいという気持ちは、若さもあり純粋でしたが、でもどこか日本人だから豊かな国から行くから何かしてあげられる、というようなおごりがあったと思います。実際には学生ですから、それも都会の温室育ちの青年にすぎませんからフィリピンの田舎で何かができるわけではないのです。逆にいろんなことを学ばせてもらって、迷惑をかけることもあったでしょうけれど現地の大人にも子どもにも受け入れてもらって、貧しくても協力し合って生きる人々、希望に満ちあふれている子どもや同世代の若者の姿に、逆に与えてもらったという経験をしました。今でもACEFで毎年バングラデシュに高校生や大学生をスタディツアーに送りだしていますが、必ず帰国後の感想に同じような思いを書いている参加者がいます。物質的な豊かさの中で満たされない思いをしている自分と比べ、貧しい中でも夢を持っているキラキラとした子どもたちの目を見て何が幸福なのかを考えさせられたということが、感想文には書かれています。何かを与えようとして貧しい人の所へ行ったけれど、より多くのものを受けて帰って来るという経験は、若者たちのその後の生き方に影響を与えるものです。
 
 先週の使徒言行録の箇所からずいぶん飛んで、サウロからパウロと呼び名が変わった後、宣教してまわったパウロは三回目の伝道旅行を終えて、各地の教会で集めた募金を携えて再びエルサレムの教会へと向かう途中でした。ペンテコステにはエルサレムに到着しておきたかったので、なじみ深いそして行きには立ち寄って偽祈祷師の一件があった(7月第4週説教)エフェソの街は帰りは経由せずにその先のミレトスという港に立ち寄りました。そこからエフェソに人を送ってエフェソの教会の長老たちをミレトスに呼び集めました。
 その長老たちを目の前にパウロは話し始めます。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、会堂での礼拝でも家庭での集会でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。」と「そして今、私は聖霊に促されてエルサレムに行きます。そこでは、投獄と苦難とが私を待ち受けているということを聖霊が告げてくださっています。…そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。」と、これからエルサレムに向かえばそこで投獄されることはわかっているが、それでも私は行かねばならない。だからもう二度とあなたたちに会うことはできないと、長老たちに別れを告げ、もう教えるべきことは全て教えたけれど最後の言葉を伝えるための、これはパウロの告別説教です。 その最後にイエスの言葉として「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉をパウロは長老たちに伝えるのです。

 でも、この言葉をイエス御自身が言われた言葉と書かれていますが、どの福音書を探してみてもこの言葉はないんですね。じゃあ、これは使徒言行録の著者であるルカの創作なのか、あるいは直接には生前のイエスの言葉を聞いていないパウロが言い伝えを違う風に言ったのかとも考えられるのですが、イエスの言葉ではないという断言もできません。それに近い言葉はないかと聖書のあちこちをさがしながら、最近読んだある小説を思い出しました。
 芥川賞を受賞した鈴木結生さんの小説「ゲーテはすべてを言った」の中で、主人公のゲーテ研究者がたまたまレストランで手にしたティーバッグの袋に書かれていた格言がゲーテの「愛は全てを混淆せず、渾然となす」というもので、それが本当にゲーテの言葉なのかを膨大なゲーテの著作の中に探すのですが、身近な家族との繋がり、絆の中でそのティーバッグの格言の出典らしきものに導かれるのですが、それを思い出しました。ちなみに芥川賞作家の鈴木結生さんは、西南学院の大学院生でお父さんは牧師です。その次の作品も愛がテーマなのですが、テレビのインタビューの中でその原点は聖書にあると答えています。実際に沢山書き込みのある聖書を見せてコロサイの信徒への手紙3章14節の「これらすべてに加えて、愛を身に付けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」というパウロの言葉にしっかり線とマーカーが入っていました。

 「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉を実際にイエスが言ったかどうかは確かめようもないのですが、そこには福音書に描かれているイエスの教えのエッセンスが要約されていると思います。マタイによる福音書で、「右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい。」と言った後に「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」とあり、12人の弟子を派遣する際に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉や、マルコや他の福音書にもある金持ちの男がどうしたら永遠の命を得られるかとイエスさまに訪ねたときに「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と言われます。ルカによる福音書6章38節「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。」その前の31節の黄金律と言われる「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」も関連すると思われます。
 また、旧約聖書の申命記15章10節の「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。」というのも近い言葉に受け取れます。
 私たちは神さまから多くの恵みをいただいているとよく言いますが、その恵み、愛を惜しみなく人にも分け与えるようにと、聖書は繰り返しわたしたちに教えるのです。

 わたしたちの生きるこの世の考え方はどうでしょう?「与える」という動詞は、英語ではgiveあげる、施すという意味もありますが、一方の「受ける」という動詞はreceiveだけでなくtakeという英語を当てますが、取る、奪う、略奪するという意味もあります。ギヴ・アンド・テイクというのはこの世的には当然のことで、見返りを求めます。他人に何かをしてあげれば、同等のお返しを期待する。報いを期待する。少なくとも感謝とお礼の気持ちを期待するのは当たり前と考え、また行動します。愛すると言っても、私たちの愛は見返りを求めることも多いのではないでしょうか。夫婦の間ですら、親子ですら。
 これがテイクだけだと、テイク・アンド・テイクとなれば貪り、搾取です。これもこの世の現実としてあります。パウロの時代も深刻でした。何よりもそれが教会の中にまで持ち込まれていたことが、コリントの信徒への手紙でもわかります。礼拝の愛餐の場で裕福な人たちが食事を食べお酒を飲んでいて、遅くまで働いてようやく礼拝の場に来た貧しい人たちには食べ物もなくなっている状況がありました。だからこそ長老たちに「群れ全体に記を配り」、「あなたがたも働いて弱い者を助けるように」と告げるのです。
 イエスの行いと言葉を要約すればギブ・アンド・ギブです。一方的に与える愛です。無償の愛、見返りを期待しない愛だと言います。それを恵み、賜物、ギフトとも表現します。

 では、私たちには一方的に与え続けることが、できるでしょうか?最近では、企業理念でもギブ・アンド・ギブということを打ち出して、短期的な利益をもとめず「お客様ファースト」を掲げればその企業価値が長期的には上がるということを言ったりします。でも、これもやっぱり自分に利益が返ってくることを期待してのことですね。日本には「情けは人のためならず」という言葉があるように、人に親切にすることはいずれ自分に戻ってくるのだから進んで親切にしなさいという考えに近いと思います。最近は、この「情けは人のためならず」を人のためにならないと誤解して「援助したり助けたりするのは甘やかすことで、その人のためにならない」などと考える人が増えていると聞くと、ますます聖書の教えとは逆を行ってしまう世の中になりそうです。
 
 私たちを愛してくださる神さまの存在を知らなければ、すでに多くの恵みを神さまからいただいていることを信じなければ、神さまからの祝福こそが幸せなのだと新しい命、新しい道を歩み出さなければ、自分を出発点とする自分と他人との「受ける、与える」しかありません。そこには愛と恵みではなく、利益と報酬で物事を考える自分中心の価値観があるだけです。
 
 パウロは3年間エフェソのに留まり教会の一人一人に涙して教えてきたと言います。それは愛の神とその恵みの言葉です。人を真に生きるものとする、神にしたがう生き方、そして教会を建て上げる御言葉です。これから御言葉によって信じる人たちにも恵み、神の祝福を受け継いでいくのです。そしてパウロが模範を示してきたように、他人から貪るのではなく、弱い人を助けるようにとエフェソの長老たちに愛の実践を勧めるのです。
 使徒言行録のルカは経済的に貧しい人への配慮を特に強調しますが、パウロ自身が「弱い者」と言うとき、必ずしも物質的・経済的な意味合いだけではありません。信仰において弱い者についてもパウロは語ります。パウロが信仰において弱い者と呼んでいるのは、どちらかというと伝統的なユダヤ教の価値観が強く残っている人で食べ物のことや割礼のことで悩んでしまう人のことです。キリストを信じて、自分に価値があるからではなく恵みによって救われたと信じたはずなのに、まだ道徳的な正しさやこの世的な成功や貢献といったことへのこだわりが残っている人、それが救いの条件であるかのように思ってしまう人、とも言えるかもしれません。その弱い人に配慮して、信仰の強い人、すでにそういった古いあり方から自由になっている信仰の強い人は無理強いしたりせず、かえって自分の自由を制限することで弱い人を躓かせないようにしなさいと言います。
 
 「受けるより与える与える方が幸い」という言葉を聞いて、自分はかつては教会でも奉仕し、ボランティアで社会貢献し、献金もささげ、様々な弱い人たちのために寄付もしてきたけれど、今では年齢と共に体も弱ってきて、年金暮らしでいろいろな団体の寄付もわずかばかりで受けるばかりだと嘆かれる方もあるかもしれません。
 
 長く西片町教会の牧師を務め隠退後は信州でくらしていた山本将信牧師は天に召される前にこう書いているんですね。「高齢者の最後の任務は『助けてもらうこと』という受け身にあると私は考えています。喜ばせる者と喜ばせてもらう者とは、ボルトとナットのようにセットです。人間の絆はボルトとナットであって、与える人と受ける人とは、感謝というネジ山がネジ穴に合致していなければなりません。与える人だけで、受ける人なしではむなしい存在に成り果てます。」
 また、別の隠退牧師はある一人の信徒が「これまで教会に奉仕し、若い人たちを訓練し、いつも精一杯働いてきた。でも最近、毎日人つずつできないことが増えてきて、本当に情けなく思う。神さまのお役にたてないのかと思うと悲しい」と言ったのに対し、「否そうではなく。あなたは今まで自分が依り頼んできたものを、一つ一つ神さまにお返ししているのです。そして最後にただ神にのみ依り頼む者とされるのです」、と。それ以降「先生、今日はこれができなくなりました、でも感謝です」と報告してくれるようになったそうです。
 
 イエスさまのことば「受けるより与える方が幸いである」と聞くとき、既に多くの恵みを愛を神さまをいただいていることを覚え、その愛を恵みを惜しみなく人に与え分かちあいましょう。そして何も持たなくとも、神に依り頼むという神への信頼の姿を示していくという信仰者の姿こそが、この教会にそして未来の信仰者に豊かな恵みを与える、本当に祝福される幸いなことであるのです。