2025年8月31日 あなたを愛している 小田哲郎伝道師

(要約)神さまは「私の目にあなたは高価で尊い。あなたを愛している」(イザヤ43章4節 新改訳)といってくださいます。何もできなくても、どんなに自分のことを低く評価しようとも、神さまは「あなたはそのままで宝のような存在だ」と言ってくださいます。そのことを子どもたちにも伝えましょう。

(説教)イザヤ書43章1-7節

今年の子どもの教会の夏のキャンプは「きみは愛されている」をテーマに行いました。8月3日の平和聖日・大人とこども共に守る礼拝でも特別賛美してくださった齋藤直江さんにゴスペルの指導をしてもらい楽しく歌ってのキャンプとなりました。その中で歌われた「次のステップへ」の歌詞は今日の聖書の箇所からされています。

「だれかとくらべ、立ち止まることもあるよね。『何もできない』自分でラインを引く。でも!あなたは唯一で尊い神さまの最高傑作」という歌詞です。

子どもたちもいろんな大変な思いや挫折の経験をして何もできないと自己否定したり、自分自身が好きになれないそんあ自分かもしれないけれど、それでも神さまにとってあなたは大切な存在で、神さまはあなたを愛しているというメッセージを届けたいという思いで行ったキャンプです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節a新改訳2017)これは神さまの言葉です。慰めに満ちた言葉です。こんな言葉を神さまからいただいたら、皆さんはどう感じるでしょうか?嬉しいけれど、少しむずかゆいような、「高価で尊い」などと言われると「いえいえ、そんな立派ではありません」と言いたくなるような気持ちでしょうか?あるいは、この言葉を聞いてどのような光景を思い浮かべるでしょうか?生まれてきた赤ちゃんを愛でるような、あるいは綺麗に着飾った、王子様のような、プリンセスのような孫を優しい目で見ているような情景が浮かぶでしょうか?

 しかし、現実の世界で子どもたちはこのような「あなたは宝物、あなたを愛している」という声をかけられているでしょうか?望まない出産、幼児への虐待や育児放棄のニュースを見聞きすると、その親も「あなたを愛している」という言葉を聞かず、親の愛を受けずに育ってきたのではないかと思うのです。先日ユニセフ(国連児童基金)から「こどもの幸福度」のレポートが公表され、先進国36カ国中日本は14位だったというニュースが伝えていました。3つの指標を見ると「身体的幸福度」は前回同様1位で、学習能力などのスキルは前回より順位をあげて12位、しかし生活への満足度や自殺率で計られる「精神的幸福度」32位と非常に低いのに驚かされました。生活困窮世帯が増え、こどもの貧困が問題となっています。日本の子どもの自己肯定感が低いことが別の国際調査でも報じられていました。「あなたは高価で尊い」と言われ、自分は何ができるとかではなく大切な存在で、生きているだけで素晴らしいと思える社会であってほしいと思うのですが、現実はその逆なのかもしれません。日本が子どもにとって生きづらい社会であることを改めて思わされました。

 

 この「わたしの目には、あなたは高価で尊い。あなたを愛している」という神の呼びかけを聞いた人たちは、戦いに敗れて首都も礼拝場所も破壊され自尊心も失い、他の国へと強制連行された人々でした。バビロニアという大国に飲み込まれたイスラエルの民でした。みすぼらしい生活をしていたかもしれないし、こうして国が滅び、バビロニア帝国の首都に連行されたいわゆるバビロン捕囚の憂き目に遭っているのは、イザヤを含む前の預言者たちが言っていたように、主なる神に従わずに歩んできたことへの審きなのだと思い、もう神から見離されていると思っていたかもしれないのです。

 「しかし、今主はこう言われる」と預言者は語り始めます。その前の42章24節で「奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か」とイスラエルの民を奪う者・略奪する者バビロニアのネブカドネザル王に渡したのは誰かと問います。「それは主なる神ではないか」と自答し、「この方にわたしたちも罪を犯した」と主の道である律法に従った生き方に逆らい、主の教えに聞き従わなかった罪を告白します。故郷を離れバビロンで捕囚の身として暮らしてはじめて罪の自覚と悔い改めに導かれるのです。イスラエルの民は主なる神が自分たちをバビロニアに渡したことから、もう神さまに見放されたと思ったことでしょう。

 「しかし」と預言者は語ります。神の言葉が預言者の口から「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」とあふれ出てきます。神さまはご自分の民を見離してはいません。「あなたは私の僕ではないか、私はあなたの主であり神である。心配することはない。あなたを捕囚から解放する。」と励ましてくれます。

 この神さまの言葉にイスラエルの民は諸手をあげて喜んだでしょうか?神さまの救いを信じられたのでしょうか?主なる神さまは救い主であると素直に信じたのでしょうか?これまで預言者の言葉に耳を傾けず、偽預言者の耳障りの良い言葉を好んで聞き、主なる神にのみ依り頼むことをしなかった民が、今更まだ苦境の中にいるうちから主なる神が将来解放してくれるのだと信じられたのでしょうか?次の「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。」と聞いたときに、あのかつての出エジプトの救いの出来事を思い出したのではないでしょうか?モーセが杖を上げると海が二つに割れて、追ってくるエジプトの戦車を逃れて海を渡りエジプトから逃げ出せたことを。過越の祭ごとにおじいさんから、父親から聞かされた出エジプトの物語を。それがユーフラテス川を渡って故郷の地に帰る将来を思い浮かべさせたのではないでしょうか?過去の救いの出来事と、これからおこる救いへの期待が結びついたに違いありません。

 ところで先日、といってもペンテコステの後ですが、1年前にこの礼拝堂で洗礼を受けられた92歳のTさんを協力牧師と一緒に訪ね訪問聖餐を行いました。今年に入ってすぐ病床洗礼を受けられた奥様は別の医療施設に入っておられるため、お一人暮らしをされているのですが、久しぶりの来客になかなかお話が止まりませんでした。古くからの教会員の皆さんはTさんのお母様Yさんをよくご存じですが、そのまたお母様、つまりTさんのお祖母様もクリスチャンだったそうです。岡山の出身でお連れ合い(孝夫さんのお祖父様)とアメリカに出稼ぎに渡り現地の小学校に入って英語を学んで洗濯屋などをして生計を立てていたそうですが、お連れ合いが100年前のスペイン風邪で天に召され、幼い娘のYさんを連れて2週間の船旅で岡山の実家に戻ったそうです。それからもずいぶんご苦労なさったそうですが、そんな話に始まりこの教会に集うようになったいきさつまで話してくださいました。私は初めて聞く話しでしたが、同席された娘さんは何度も何度も聞かされた話だそうです。そのようにして子から孫へと語り継がれる物語があります。イエス・キリストの十字架によって救われたそれぞれの信仰の物語です。

私も我が家の1代目クリスチャンの母方の祖父から聞かされた戦地の話を息子に話して聞かせることがあります。私が大学生時代にフィリピンにボランティアで通っていたので、陸軍士官としてラバウル島に派兵される途中に上陸したフィリピン・マニラでは物資も豊富で音楽を楽しみビリヤードに興じた楽しい思い出もあったことを話してくれました。しかし、昭和18年12月に上陸したその先のラバウル島は地獄のようであったと苦しそうな顔で話しました。連合軍の圧倒的な戦力の前に仲間はどんどん死んでいき、食糧も尽きて木の根っこや虫やトカゲを捕まえては食べた。精神に異常をきたして死んでいく者もいた。そんな中で自分は命を失うこともなく終戦を迎え、最後の船に乗って日本に帰ってきたと、救われた思いを語りました。祖父は日本に復員して洗礼を受け、新しい人生を神さまと人々のために歩み抜きました。一人ひとりの人生に、特に苦難の只中で共にいてくださる神さまに出会う、そして救われるという、聖書の中のお話ではなく今も生きて働いてくださる神さまを子や孫へと伝えることは、戦争の悲惨さを伝えることと同時に救いを伝えることは、神さまに与えられた私たちの使命ではないでしょうか?

「救われた」という思いや経験は様々です。私自身もサラリーマン時代に過労のため鬱病になり自分の人生を終わりにしたいという思いにまで至った時に、全く思ってもみなかった形でその仕事の環境から抜け出せ、鬱も治りました。当時勤めていた会社のバンコク所長が急逝し、その方の担っていた役割を担うためにタイ駐在の辞令が出て、バンコクに赴任することになったのです。日本とは全く違う環境の中で、かえって解放され現地の日本語教会にも導かれたのです。その経験があるので、どんな困難な状況にあっても「神が共にいます」ということを信じることができるようになりました。バンコク所長が亡くなったことが身代わりや犠牲とは思いませんが、不思議な形で私は救い出されたのです。

この主なる神の「わたしがあなたを贖う」という言葉を聞き、かつての贖いの出来事である出エジプトを思い起こした捕囚の身となっているイスラエルの民は、エジプトを身代金とし、クシュとセバを身代わりにするとの預言者を通しての神の言葉が、当時の国際情勢を巡ってエジプトやクシュ=エチオピアやセバ=ソマリアがいずれペルシア帝国に征服されることを予見していると受け取ったのでしょうか。実際には捕囚からの解放のずいぶん後、次の王のときにそのことは実現したことを私たちは歴史によって知ることができるのですが、当時の預言者の言葉を聞いた民たちがそれを信じられたのでしょうか?

民が信じようと信じまいと、神さまはそのことをなすのです。神さまは決められたことを実行されるのです。なぜか?「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛しているからだ。」と神さま御自身が「あなたを愛しているからだ」とおっしゃるのです。だから、神さまはイスラエルの民を私の息子たち、私の娘たちと呼び、彼らは「神の民」と呼ばれるのです。家族のように親しく交わり、わが子のようだからこそどんな惨めな姿であっても、そのままの姿で「高価で尊い」と言えるのです。それが神さまの慈しみと愛なのです。

創造主であり、歴史を支配する神は歴史に介入して捕囚から民を解放し、エルサレムに帰還させました。ペルシア帝国のキュロス王という異教徒の王を用いて、預言者はこのキュロスを「救い主メシア」とさえ呼んでいますが、神さまはあらゆる被造物を用いてご自分の意思を実現される方なのです。イスラエルの民はこのイザヤの預言を聞いた後、実際に都バビロンがキュロス王によって無血開城させられ、イスラエルの民がユダの地への帰還を許され、エルサレムの神殿再建を実現したという歴史的経験をもって、第二の出エジプトの物語を救いの物語として語り継ぐようになりました。そして、その後も苦難の中にあったイスラエルの民は本当の救い主を求めるようになりました。私たちはイエス・キリストこそが本当のメシア、救い主であることを聖書から知っています。イエス・キリストの十字架と復活の命を信じることで永遠の命に与れるということを信じて、信じたいと思ってここに集います。救いは聖書の中の話だけではなく、具体的に私たちの人生に関わってくださる神さまによって経験し、聖霊によって知ることができます。

私の経験した「救い」も語り継がねばなりません。タイに導き出されて鬱病から回復したことだけでなく、どんな状況にあっても「神が共にいる」という経験はその後も続きました。私個人に、私の家族に、そして教会において。日本に帰国し神学校に入学し献身したときにも「恐れるな」という声が私の中で響きました。そして家族の生活の必要も備えられて今があります。そして、皆さんもご存じでしょう。この教会幼稚園においても、園児が定員の半分にも満たない数しか集まらない上に教員が見つからないという、現実的には、客観的にはうなだれるしかないような困難な状況でしたが、数ヶ月後には信じられないようなことがあり教員も与えられ園児数も新年度が始まる時には倍に増えていました。私たちは、この幼稚園は神さまに愛されているということを実感しました。今も生きて働く神さまに出会っています。そのこと、神さまはあなたを愛している、今も生きて働いて、困った時、苦しい時でもいつも一緒にいてくださり、必ず救い出してくださるということを子どもたちに伝えることが、キリスト教保育の教会幼稚園の使命です。

私たちは神さまの声「恐れるな、わたしが共にいる」「あなたは私に高価で尊い。あなたを愛している」という御言葉をなんとしても、わたしたちの子どもたちに、教会と幼稚園の子どもたちに、そして地域の子どもと大人にも語り継がなければなりません。わたしたちはイスラエルの民のように選ばれた者です。選ばれた者というのは決してその人だけが救われるという意味ではありません。救いの知らせを告げるために選ばれたのです。日本の、世界のすべての人々が、わたしたちを愛してやまない神さまを讃える日が来るまで、わたしちはここで、家庭で、この地域で神さまの愛とイエス・キリストによる救いを伝えていきましょう。