2025年9月14日 天国の喜び 酒巻百合恵神学生
(要約) 私たちがなにも理解できていない、何もしていないところで、神様の招きはある。ものごとをじっと見てみると、そこに神様からの最善が用意されている。神様から与えられるもので、私たちはこれからも生きていける。私たちの気持ちが転換させられイエス・キリストというもっとも高価な真珠の一粒も及ばないほどのおかたと出会える。これこそが天国の喜びです。
(説教本文) マタイによる福音書13章44〜52節には、天の国のたとえがいくつも登場してきます。皆様は、天国と聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか。国内外問わず、天国への関心は絵画などからもうかがえます。よく天空での世界が描かれているような気がしますが、今回の聖書箇所は、興味深いことにそのような角度から天国をイメージしてみようというものではないようです。
今から約2000年前、イエスさまがこの地上におられた時代には、イスラエルの人々は財産を壺に入れて土の中に埋めて隠していたそうです。これは、強盗や兵隊の略奪から守るためのもっとも安全な方法だったとも言われています。そして、それを埋めた人はもしかしたら大変な苦労をして、その宝を埋めたかもしれない。自分と家族にとって最善を尽くしたのでしょう。そして、掘り出せる日をいまかいまかと待っていた。けれども、月日は流れ、戦争も起き、宝を埋めた人は掘り起こすことは二度とできなかったとします。さらに月日が流れ、ある日突然、子どもたちが穴掘りの遊びをしていたら、なんといままで見たことのない宝物を目の当たりにしてしまったではありませんか!そして、家族に報告し、マスコミが殺到し、ついに子どもたちはその宝だけで生活できるほどになった。
天国はまさに、このようなものだというのです。私たちが、なにも理解できていない、何もしていないところで、神様の招きはある。私たちには天国が隠れているように思える。けれども、ものごとをじっと見てみると、そこに神様からの最善、天国が用意されている。私たちは、そのように無条件で、神様から与えられるもので生きていける幸いをどんな時も受け取ることができるのです。つまり、神様から与えられるもので、私たちは生きていけると、私たちの気持ちが転換させられる、神様へと向きが変えられるのです。
神様へと向きが変えられる。このことは、私たちにとって天国を味わうための必要な事柄です。次のたとえは宝から真珠へとさらに宝について具体的になってきました。当時、エジプトでは真珠をも礼拝の対象としていたそうです。実は、私たちが礼拝の対象とするものについて注意を払うことの重要性が何度も聖書のなかで語られています。私たちは、宝を見つける際に、その発見はむしろ受身的なのですが、その発見したもの自体を私たちは本当に礼拝対象とできるのか、ということです。はじめのたとえに比べて、この真珠のたとえは、私たちが喜んでいる天国という理解、神様についての理解をほんとうに神様がくださる宝から受け取っているかという投げかけです。
イスラエルの民は何度も迫害され、迷い、嘆いてきた歴史があります。なかでも出エジプト記にあるようにエジプトの奴隷であったイスラエルの民を神様が助け出してくださったという事柄は、当時のイスラエルの民にとっても思想の根幹になっていたはずです。他の国ではなく、神様が私たちを助け出してくださった。昔も、今も、そして、これからも。世代を超えて何千年も守ってきた、「神様が唯一であること」そして「神様の他に何者をも神としてはならないこと」という教えは、この天国のたとえにも十分反映していると私は思います。マタイによる福音書13章46節には「高価な真珠を一つ」とあります。彼らにとって天国は真珠のように一つなのです。私たちの天国というのはそれほどまでに貴重で、高価で、一粒で私たちのすべてが満たされるほどのものなのです。
そのように世界のなかで一粒しかない、そのような天国を私たちが受け取るまで、私たちは精錬されていく存在なのです。私の人生は、なかなかどろだらけで、自分で自分を苦しめたこともあったし、相手をたくさん傷つけてしまったという経験があります。そのようななかで、神様は私を引き上げてくださいました。そして、イエス・キリストというもっとも高価な真珠も及ばないほどのおかたと出会いました。このような出会いまでに、私はもちろん、イエス・キリスト以外を私の支えとしてしまったこともあります。そのような弱い私をイエスさまはご存知で、これからも見分ける力を神様はくださると信じています。
たとえば、私が体験した雑草抜きでは、大豆と雑草とでは背丈も葉の色も同じで、なかなか見分けがつきません。けれども、やがてどちらも1メートルほどの高さになってくると、ついにその根元の茎の色の違いでそれぞれを見分けることができます。このように、私たちの判断は鈍くなることが多いけれども、神様はその時にかなって、とるべき選択を与えてくださるのです。
また、私がイエスさまのもとに行って「ただいま」と言えるまで、イエスさまは長い年月をかけて、私を忍耐強く待っていてくださいました。イエスさまに「ただいま」と言えたその日には、自分が手にしていた思い煩いや憎しみ、辛い気持ちなどがイエスさまの大きな御腕の中で赦しと解放に変わっていきました。
神様は、すべての人々に対して変わらない赦しと愛をいつも注いでいてくださいます。それは、私たちがたとえどのような状況になっても私たちがそこで豊かに育っていくため。私たちの苦しみ、それはまるで心の中にある棘のようですが、それを引き抜いて癒してくださるように、神様は私たちを助けてくださいます。私たちが神様の守りの中で生活できている時にこそ、そこに神の国はすでに来ているのです。
今回の聖句マタイによる福音書13章49節には、「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」とあります。この「より分ける」という表現について、原語ギリシャ語でその単語を調べてみると、その単語には分ける、選び出すという意味だけでなく、引き離す、閉め出す、別れる、退くという意味もあります。また、任命するという意味もあるそうです。
マタイによる福音書によると、イエスさまは「悔い改めよ、天の国は近づいた」といって、神様が人々に一番教えたかったことを伝えはじめました。それは、神様が私たちのことを私たちが想像できないくらい愛してくださっているということ。神様がそのように暗闇の中から私たちを選び出してくださったこと。そして、この神様について私たちはそれぞれの生涯を通して経験していくべきだということです。悔い改めとは、闇の中から神様という私たちの造り主に再び向き合うことです。
神様は私たちのために良いものを選んでいてくださる。そればかりか、私たち自身を良いものと認めてくださり、神様の子どもとして、その天の相続人となれるという素晴らしいことまで、神様は与えてくださるのです。このような喜びをイエス・キリストは私たちに説いてくださいました。そして、神様は今日も私たちがどのように応答するかを待っておられます。
マタイによる福音書13章 51節
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
イエスさまの弟子たちは、「分かりました」とイエスさまに言いましたが、イエスさまは「これらのことがみな分かったか」と質問していました。弟子たちは本当に「みな」分かっていたのでしょうか。
私たちは、過去や現在、そして未来の出来事までみな分かったことなど、まずないでしょう。それでも弟子たちはイエスさまの質問に対して肯定的でした。私たちは、神様に対してどのような態度をとっていくべきなのでしょうか。
マタイによる福音書13章52節
そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
ちなみに、マタイによる福音書12章9節には「会堂」とあり、それはキリスト教でいう教会のことです。イエスさまは会堂などで当時の人々が今まで聞いたことのあることばなのに聞いたことのないような解説を加え、たくさんの人々の心の目を開かせるような話をしていたのでした。これらのことをイエスさまは「新しいもの」と呼んでいるのかもしれません。それらの言葉に人々は驚いたり批判したりしていました。たとえば、マタイによる福音書11章28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というみことばをイエスさまは語られました。『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい』というイエスさまの言葉は、当時の宗教学者たちにとって衝撃でした。なぜなら、学者たちは人々が救われるためには、まずイエスさまがこの地に来られる前に書かれた聖書、律法を熱心に守る必要があると教えていたからです。そんな中、イエスさまは『わたしのところに来なさい』と、イエスさま自身こそが人々を助け、赦し、救い出す、救い主として語られました。これは彼らの教えの土台を揺るがす、受け入れ難い言葉だったのです。
一方で、そのようなみことばは、体に重い病気を抱えていたり、子供のことや自分のことで悩んでいたりする人には心に入りやすいという大変不思議なものでした。天の国のことを学んだ学者とは、まさに倉の主人のように神の摂理を知ってしまった状態。だから、今までの考えを超えた、イエスさまから教わった新しい教えや価値観によって、その教えを大切にしていこうという姿勢が必要ということなのではないでしょうか。
イエス・キリストからの御教えは私たちにとっていつも新しく、私たちの思いを作り変えてくださるものです。天国の喜び、これはまさに私たちがいつも主にあって発見できる喜びです。そして、私たちが隣人に伝えていくべき永遠の喜びです。このことを覚えて、今週も主に遣わされてまいりましょう。