2025年9月28日主日礼拝 隣人を愛する 小田哲郎伝道師

(要約)ヤコブの手紙を受け取った教会は同じ教会の信徒の中で、お金持ちにえこひいきし、貧し人たちに冷たいという態度を取っていました。隣人を愛していると言いながら兄弟姉妹である教会の隣人に分け隔てがあって良いはずはありません。私たちにも分け隔てせず隣人を愛することをもとられています。

(説教)ヤコブの手紙2章8-13節

「隣人を自分のように愛しなさい」この言葉はイエスさまが律法学者に最も大切な掟は何かと問われたときに答えられた一つです。
イエスは言われた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:34-40)
私たちは教会で繰り返し、繰り返し「隣人愛」について聞いてきました。フィッシャー幼稚園でも、子どもたちに毎年毎年必ず「隣人を自分のように愛しなさい」と語っています。
では、「主なる神を愛する」ことと並んで最も重要な掟を私たちは守っているでしょうか?従っているでしょうか?
有名な「良きサマリア人」のたとえ話も、律法学者が「わたしの隣人とはだれですか?」とイエスさまに問いかけたところから話し始められました。追いはぎに襲われ半殺しにされて道で倒れている旅人を見かけても道の反対側を通って見ぬふりして通りすぎた神殿で神に仕える祭司とレビ人、律法を守り、特に祭儀にかかわる律法を大切にする彼ら二人の後に、旅をしていたサマリア人が近寄って助けて宿屋に連れて行き介抱し、宿屋の主人にかかった費用は自分が払うからと言って託したという話ですが、たとえ話の後で誰が隣人になったかを聞かれ、3人目のこの人を助けたサマリア人だと答えた律法学者にイエスさまは「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。行動を求められました。では、私たちは、そのように行えているでしょうか?

今日の聖書箇所のヤコブの手紙は初期のキリスト教会でこの「隣人愛」がどのように実践されていたのか、されていなかったのかを示しています。
もし、あなたがたが聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。(ヤコブ2:8)
「隣人愛」を実行しているならいいじゃないですか、結構です。しかし、どうもここでは「隣人」を誰とするか、誰を対象とした愛なのかが問題になっているようです。何をするか、どのように愛するかではなく、誰を隣人としているのか。自分の仲の良い人なのか、それとも隣人を求めている人なのか。

律法や掟、聖書に従ってとあるように「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉はイエスさまが言い始めたことではなく、旧約聖書の中にあるユダヤ教の中で大切にされていたことです。レビ記19章18節にこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 「民の人々」とあるのは同胞ということですので、イエスさまの時代のユダヤ教では隣人というのは基本的にはイスラエル人の事を考えていたのです。旧約聖書には寄留者や孤児、やもめを憐れむという人道的律法が出エジプト記22章20-22節にあります。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」とあるので、「隣人を自分のように愛しなさい」と言うとき、社会的に地位の低い人や貧しい人も自分と同等に扱いなさいという意味も含まれているとは言われます。しかし、基本は「隣人の範囲が同胞のユダヤ人イスラエル人」ということだったのです。

その同胞イスラエル人という壁を大きく乗り越えたのはイエスさまの「敵をも愛する」という「隣人愛」の徹底、愛の普遍化です。イエスさまはこう言います。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章43-44節)また「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6章27-28節)というのです。実際には「敵を憎め」ということは旧約聖書には書かれていません。敵であっても困っている時には助けなさいというのが神の掟として旧約聖書によって伝えられています。しかし、ただ助けるではなく、愛するということが果たしてできるのでしょうか。そんなの理想主義にしかすぎないと思うでしょうか?アメリカの黒人差別と非暴力で闘ったキング牧師は「あなたの敵を愛せよ」とという説教の中で、敵を愛することはユートピアを夢見る者の夢などではなく、われわれが生き残るためには欠かせないものであると言っています。憎しみの連鎖を断ち切るには、この具体的な実践が必要なのだとキング牧師は言います。

別の角度から見ると、イエスさまが、敵を愛しなさいと語った山上の説教では、今到来しようとしている神の国がどのようなものかが教えられています。神の国、天の国は心の貧しい人のもの、悲しむ人が慰められ、正義に満ちて平和が実現する。そのような今目の前にしている世界とは真逆の素晴らしい神さまの意思がすべてにおいて実現する世界が到来する。その光に照らされて、そこに向かって私たちはどう生きるのかということが問われているのです。単なる道徳的な目標ではありません。
これはイエスさまの私たちへの大きなチャレンジです。マタイによる福音書の先ほどの言葉の先には「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」「あなたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:45,48)神の似姿として作られた私たちのあるべき姿、神の子となるイエスに従う者としての完成形ですが、それは私たちの努力では可能ではないかもしれない、不可能だと言ってもいいですが、しかしイエスさま自身が十字架に架けられ、罵られる中で愛し続けたその愛によって、そのイエス・キリストの内にいて私たちの内にもキリストの霊が宿ることで敵と和解し、敵を友とし、敵を愛することができるように変えられていくのです。

初期のキリスト教会でも「隣人を愛する」という対象を敵にまで広げたのはパウロでした。ローマの信徒への手紙の12章14節で「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」という背景にはイエスの「あなたの敵を愛しなさい」という言葉の影響が見え、そして13章で「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。。。。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。」と愛と愛敵を関連づけています。しかし、初期の教会の意識のなかでは、隣人の範囲の中心は兄弟姉妹つまり教会員あるいは信者であったようです。

実際の教会がどうであったかを見るときに必ずしもイエスの言葉に従えているわけではありませんでした。ヤコブの手紙に戻ると、2章の最初に「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」と書く位ですから、いろいろと差別やえこひいきがあったことが伺えます。立派な身なりの人がくれば特別席に案内したり、逆に貧しい人には奴隷の立場にいるように扱われていたようです。パウロの教会のように異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の分け隔てではなく貧富の格差とえこひいきです。この手紙の受け取り手の教会はユダヤ人キリスト者が殆どのシナゴーグに集まって礼拝していた共同体のようです。ですから旧約聖書の律法を大切にし、人道的律法の寄留者、寡婦、孤児への慈しみは確かに行っていたのですが、教会内の交わりの中で分け隔てがあったのです。

ちょっと想像してみてください。都会にある大きな教会で多くの人が集まる教会があります。政治家や芸能人も教会員の中には名を連ねています。そして、この活発な教会は付属の幼稚園の他にも、社会福祉活動に力を入れていることで有名で児童福祉施設や女性シェルターも運営しています。そして、野宿労働者のための炊き出しも、女性会とミッションスクールから来ている高校生中心に平日の夜に近くの公園で行っています。クリスマス・イブ礼拝ともなると、普段は日曜日に教会に行くこともない教会員の家族やカップルが来るため礼拝堂は満席になります。
ある年のクリスマス・イブ礼拝のことです。児童福祉施設の子どもたちも職員に連れられてきましたが、礼拝中に騒いでは困ると礼拝堂の後ろの隅に追加で出された折りたたみ椅子の席に案内されました。シェルターの女性たち数名も柱の蔭で説教者の見えなくなるあたりの席に席が用意されていました。礼拝が始まる数分前に、みすぼらしい身なりの男性が現れました。何日も風呂に入っていないようで少し匂ってきます。受付の女性会のリーダーは炊き出しの時にいつも列に並ぶ男性だと気付きました。前回の炊き出しではクリスマス礼拝の案内も一緒に配ったので、男性はそれを見て初めて教会に来たのでした。女性は言います「もう、席はいっぱいですから、このドアの内側で立っていなさい。」そして鐘がなって礼拝が始まろうとしたときに、黒塗りのベンツが教会玄関に止まり首相経験者の大物政治家でこの教会員に名をつらねる男性が降りてきました。受付に立っていた役員は車に駆け寄り「ようこそおいでくださいました。こちらに席を用意しています」と、いつも役員以外は座りたがらない最前列の講壇の前の席に誘導しました。この政治家が入ってきたことで前奏をひき始めるのを止めていた奏楽者は彼が座るのを見て前奏を弾き始めました。
このイブ礼拝ではルカによる福音書から聖書朗読があり馴染みのクリスマスの讃美歌が聖歌隊によって美しく賛美されました。説教者は救い主の誕生の意味について、マリアの賛歌から語ります。「わたしの魂は主を崇めます。身分の低いこの主のはした女にも目を留めてくださいました。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で見たし、富める者を空腹のまま追い返されます。とマリアは神を賛美しながら、神の国の到来を喜ぶのです。イエス・キリストが、弱い者貧しい者が喜び、権力のある者富んでいる者が低くされる神の平和を実現するために、平和の君として救い主として生まれた、それがクリスマスです」と。どれだけの人が、その言葉をリアリティをもって受けとめられるでしょうか?神の国が到来した、救い主が来たという言葉が真実だと受け取れられるでしょうか?
これは架空の教会の話ですが、私は似たような話が自分の属していた教会で起こったこともありますし、また他の教会の話として聞いたことがあります。このような事がこのヤコブの手紙の宛先でも起こっていたようなのです。教会の中でお金持ちが優遇され、貧しい人が冷たくあしらわれることが。兄弟である隣人に対してそのような差別、分け隔てがあったというのです。

ヤコブの手紙に戻ればこう書いてあります。「隣人を自分の様に愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。

ヤコブの手紙は律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があればすべての点において有罪になると非常に厳しい律法の適用を求めますが、「姦淫するな」「殺すな」という例に出している律法は十戒の後半部分「隣人を自分のように愛しなさい」ということにまとめられるものです。
自由をもたらす律法という言葉は1章25節に「自由をもたらす完全な律法」として出てきますが、罪から自由にする、欲望から自由にする神に与えられた律法であり、その少し前の「心に植え付けられた御言葉で、この御言葉はあなたがたの魂を救うことができる」(1:21)というものです。
この自由をもたらす律法によって裁かれるということは、終わりの時にひとりひとり神さまの前に立たされる時の裁きのことですが、自分が有罪とされるか無罪とされるかをビクビクしながら生きるのではなく、私たちはその将来のことを思いつつ、その終わりの時には神さまの意思が完全にこの地に実現する貧富の格差も傷つき病に苦しみ人もいない素晴らしい神の国が完成する時点から現在をみて私たちの生き方を整えよということです。御言葉に従う生き方を、ただ考えたり祈ったりするだけでなく、実行しなさいと、このヤコブの手紙は訴えかけるのです。

律法を完全に守ることは私たちにはできません。隣人を愛すということも、イエスが敵を愛せよという完全な隣人愛はとても困難なことに思えます。それでは、裁きの時に私たちはどうなるのでしょうか?しかし、ヤコブの手紙の最後の箇所はその厳しさを和らげてくれます。憐れみを行いなさいといいます。憐れみと言っても「かわいそう」と思うことではありません。内蔵がよじれる、片腹痛むということで、その人の立場に立ち寄り添うことです。特に貧しい人、弱い人に具体的に自分と同等の人として接する。金持ちをえこひいきするのではなく、貧しい人にもまったく同じように接しなさいというのです。それを教会の中、この南三鷹教会の中だけでなく、大きな教会も小さな伝道所もある日本キリスト教団という教会の中で、アメリカのメガチャーチからタイの山岳民族の小さな教会まである世界中のキリストの教会の中で、特に貧しい人々に具体的に愛の行いをすること、その憐れみが、不完全な私たちの愛に対する欠けを補ってくれるのです。憐れみ深い神さまが、私たちを憐れんでくださいます。

ヤコブの手紙の言葉と同じように、イエスさまはおっしゃいます。あなたがたも行って隣人愛を実行しなさい。