2025年9月7日 現在の苦しみ、将来の栄光 吉岡喜人協力牧師
(要約)人間には生きる上で大きな自由が与えられていますが、どう生きるかを決めなくてはなりません。どう生きるかは人間にとって大切なことです。神に従う生き方は、現在の苦しみを避けることなく、将来に望みをもつ生き方です。
(説教本文) ローマの信徒への手紙 8章18節~25節
わたしたち人間は、他の動物たちと同じように神さまの被造物ですが、他の動物たちと違って大きな自由を与えられています。例えば住む所です。人間以外の動物は、住む場所が限られます。気温、食料となるものなど、その動物が生きて行くに必要な環境の中でしか生きることができません。先月、サンマの不漁がニュースで大きく取り上げられました。魚は海水温に非常に敏感で、その魚にとっての適温から0.5度違うといなくなってしまいます。温暖化の影響で水温が上昇したため、サンマの群れが日本近海に来ていなかったと言われています。インドネシア語で森の人という意味の名前で呼ばれるオランウータンは、住んでいた森林が伐採されて生活の場を奪われています。彼らは森でした生きることができません。アフリカの草原に住む動物たちは、シベリアの森林で生きることはできません。反対にシベリアの森林で生きているトラはアフリカの草原では生きることができません。
しかし、人間はどうでしょうか。熱帯の国に生まれ育った人が極寒のシベリアで暮らすことは、大変ですが、可能です。その反対もできます。食べ物も土地によっていろいろありますが、日本食で育った人が外国の食事で生きて行くことができます。むしろ、違う食べ物を楽しむことができるのが人間です。このように人間には、生きることについて大きな自由が与えられているのです。
自由が与えられているということは、どのように生きるかについて自分で決めなくてはならないということになります。何も考えずに生きることができないのも、人間が人間であるということであり、神様は人間をそのようにお造りになったのです。
どのように生きるべきか? わたしたち人間は、この問いかけに答えながら、あるいは答えを求めて生きているのではないでしょうか。
今日の聖書の舞台となっているローマの教会の人々も、どのように生きるかを考え、答えを求めながら生きていました。そのなかに、自分たちは熱心にキリストを救い主として信仰して既に救われている、自分たちの救いは完成していると考え、食べるにも遊ぶにも放縦な生き方をし、苦しいことや嫌なことは避け、楽しいことだけをするという人たちがいました。このように考える人々は、自分がよければそれでよいのであって、他人の苦しみを気にかけることはありませんでした。同じような考えを持つ人のことは、コリントの信徒への手紙にも書かれていますので、どこにでもいたのでしょう。現代の社会の中にもいますね。
このような生き方は本当にキリスト者の生き方なのだろうかとパウロは疑問を投げかけています。
苦しいことや嫌なことを避けて、楽しいことだけをすることは本当にできるのでしょうか。わたしたちの地上の歩みにおいて、苦しいことや嫌なことはどうしてもあります。それは人間という存在が神に背いた罪の存在であり、エデンの園から追い出された存在であるが故に、地上の歩みには苦しいことも嫌なこともあるのです。苦しみや嫌なことを避けても、それらがなくなることはありません。誰かに押し付けるということにほかなりません。避けた自分はそれでよいのかも知れませんが、誰かがその苦しみや嫌なことを引き受けなくてはならないのです。それがキリスト者の生き方として相応しくないのは明々白々でしょう。
今日与えられた聖書個所の少し前、8章12節に「兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・・」と書かれています。 わたしたち人間に課せられた最も大切な義務は、神の霊に従って生きるということです。神の霊に従って生きる者は皆、神の子であり、命を得ます。しかし、肉、すなわちこの世的なことに従って生きる者は、死、すなわち人間としての滅びに至るのです。肉体が生きていても、魂が死んだ人は、もはや生きた存在ではなく、いわば人間の抜け殻です。わたしたちは神の子となって命を得ること、このことが人間が生きる上で最も大切なことなのです。
神の子として生きる者は、地上の歩みにおいて苦しいこと、嫌なことを避けようとはしません。避けることができないことを知っているからです。苦しみの中でうめいています。うめきながら苦しみに耐えています。苦しみに耐えることができるのは、希望があるからです。いつか、わたしたちが苦しみ、滅びの不安から解放され、神の子としての栄光に与ることができるという希望があるからです。
日本語の「希望」という2文字熟語は、「のぞむ」という意味の言葉を重ねることで意味を強調しているのだそうです、辞書を引くと、「あることが実現することを待ち望むこと」と書かれていました。今のことではなく、将来のことです。将来のことですから見えません。実現しないかも知れません。わかりません、しかし、わたしたちは、実現することを信じることができます。その信じることが力になって、今の苦しみを忍耐して待つことができるのです。信じる力、それは神さまがわたしたち人間だけに与えてくださった特別な力であり、希望を生みだすのです。信じることができない者は忍耐して待つことができない、希望を持つことができません。
先週、わたしは、狛江の駅近くにある虹のひかり保育園の礼拝で、出エジプト記の話をしました。食料が尽きて飢えていた人々に神様がマナを降らせてくださった物語です。神様は「その日に必要な分だけマナを集めなさい」と命じたのですが、必要以上のマナを集めた人がいました。次の日にもマナが降るだろうかと不安になったため、集めてしまったのです。神様を信じることができなかったのです。後に神様は、あなたがたを荒野の旅で苦しめたのは、あなたがたの信仰を試すためであった、と言われたのです。(申命記8章2節)希望とは見えない将来を信じること、神様を信じることによって希望になるのです。
皆さまひとりひとり、神様を信じる希望を持ってこの世の苦しみに耐えながら生きておられると思います。そのような生き方をした一人として、南三鷹教会の教会員であった鈴木美子さんのことをお話ししたいと思います。
わたしが南三鷹教会に着任したとき、鈴木美子さんは乳がんの手術をした後の放射線照射を受けており、礼拝には帽子をかぶって出席していました。その後、礼拝委員として、多くの奉仕をしてくださいました。この礼拝で使用している交読文も、鈴木美子さんが礼拝委員をしてくださっていたときに作ったものです。教区の委員もしてくださいました。鈴木美子さんは自分が与えられた役割は、どの役割でも誠実にしてくださいました。
数年後、今度は卵巣がんを発病しました。前のがんとは別の癌でした。手術を受けて病巣を取り除きましたが、リンパ腺に転移があり再手術。その後も何度かリンパ腺への転移を手術で除去し、抗がん剤を受け続けました。さらに脳に転移した脳腫瘍の手術も受けました。文字通り、満身創痍の状態でした。わたしは最後の1年半ほど、診察や手術に付き添いましたが、神様からいただいた命だから大切にしたい、出来る治療は全部受けたいと言って、治療にはいつも前向きでした。与えられた苦難を避けることなく、正面から取り組み、忍耐と希望をもって治療を受けていました。最後は血液に癌が転移しましたが、キリスト者である訪問診療をしてくださる医師が診察後にお祈りをしてくださることを喜び、まことにおだやかに天に召されていかれました。神への篤い信仰は、どんな状況においても、忍耐と希望を生むことを鈴木美子さんは教えてくださいました。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」というパウロの言葉は、パウロ自身が多くの苦しみに耐え、希望を持って語った言葉としての重みを覚えます。どのような苦しみにも希望をもって耐えて、信仰の先達たちのように主の道を歩んで行きましょう。