2026年1月11日 神の愛する子 小田哲郎牧師

(説教)出エジプト記14章15-22節、マルコによる福音書1章9-11節

今日は礼拝直後に成人祝福式を行いますので、今年度20歳になった方々10名ほどが共に礼拝をささげています。ほとんど皆さんフィッシャー幼稚園の卒園生でしょうね。

皆さんは、今も「神さまに愛されている」と思って日々生活していますか?幼稚園の頃は、毎日のように先生から、「神さまはみんなのことを愛しているんだよ。どんな子でも一人一人を愛しているよ。イエスさまがいつも一緒にいてくれるよ」って聞いてきたと思いますが、20歳ともなると、嬉しいこともあるけど、自分が思い描いたような道でなかったり、家族や友人や先輩との関係で思い悩んだりして、そんな幼稚園の頃のように単純に「愛されている」ということを思えなくなっているかもしれませんね。でも、少なくともみんなは「神さまはあなたを愛している」という先生たちの声、「愛する子ども」という聖書の中に響く神さまの声を聞いて育ってきました。

 フィッシャー幼稚園に通っている間は、毎日クラスでお祈りし、讃美歌を歌い、毎週聖書のお話を聞き、そして毎月の聖句を暗唱するという生活を送っていたと思います。今となっては覚えていないことも多いかもしれませんが、きっと主の祈りは祈り始めると自然と口から出てきたのではないでしょうか?もちろん卒園してからも日曜学校に通い続けた人もいますし、高校を卒業してからもことある毎に教会に集まってくれていた人もいますね。「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」(コヘレト12:1)と聖書が教えるように、みなさんは神さまの言葉を心に刻んできました。神さまの祝福をいっぱい受けて今まで育ってきましたね。

 フィッシャー幼稚園の今月の暗唱聖句は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」という、ルカによる福音書2章52節の言葉です。クリスマスの物語はみんなよく知っていますが、赤ん坊として生まれた神の子イエスさまがどのように育ったかはよく知られていません。それもそのはず、聖書には子ども時代のこと、今の幼稚園や小学生のこどもたちと同じような頃のことはほとんど書かれていないのです。唯一ルカによる福音書が子ども時代のイエスさまのことを描いています。ちょうど成人する直前のことです。イエスさまの時代、ユダヤ人の男の子は13歳で成人とみなされました。日本もまだ成人式は20歳で行っていますが、18歳で成人となりましたので高校卒業の年ですね。13歳というと日本では中学1年生の年齢です。でもユダヤでは、ちゃんと自分で考えて親の助けなしで行動できる大人になったと考えられていました。

 イエスさまの子ども時代と言っても成人する前の年に母マリアと父ヨセフに連れられてエルサレムの神殿のお祭りに行った時のことが、ルカによる福音書には書かれていて、イエスさま迷子になった事件(じつは迷子になったわけではなく父と母が帰りにはぐれたのに気がつかず帰りの旅の途中でようやく気がついて、エルサレムに引き返して2,3日経ってようやく神殿にいるイエスさまを見つけた話です。その時にイエスさまは「わたしが父の家にいることを知らなかったのですか?」と両親に言ったんですね。その意味は神殿が神の家だとしたら、イエスさまは神の子だから父なる神さまの家にいるのは当然でしょ。と言うのです。そのことから「フィッシャー幼稚園、南三鷹教会もみんなのおうちです。いつでも帰ってこられる、おうちだよ」という話をしました。
 その12歳の神殿事件の後も「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあるように、どんどん背も伸び賢くなったのです。神からも人からも愛されてその後も成長していったのです。

 そして大人になってからだいたい30歳頃だと考えられていますが再び聖書に登場するのが、今日の聖書の場面、イエスさまが洗礼を受ける場面です。
洗礼というのは、今でも教会で行いますが、神さまを信じて、イエスさまを自分の救い主だと信じて、従って生きていきますという神さまとの約束をする、平たく言えばクリスチャンになる儀式で教会への入会の儀式とも言えます。でも、イエスさまが受けた洗礼はそうではありません。まだイエスさま自身が活動を始める時ですから、キリスト教もなく教会もありません。イエスさまが受けた洗礼は、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネと呼ばれている人から受けたのですが、ヨルダン川の中で罪を悔い改めて神さまに従って生きることを誓って、水の中に沈められるのです。
この頃のユダヤ教でもこういった水の中に入って身を清めるということはしていました。神殿や会堂での礼拝の前にお風呂のようなミクベという水槽に入る沐浴によって、穢れを取って身を清めるのです。日本の神社やお寺で手水(ちょうず)で手と口を清めてから参拝するのと似ています。この神殿などで身を清める行為は自分で行います。でも、ヨルダン川で洗礼者ヨハネがおこなっていた洗礼は、自分ではなく洗礼を授ける人がいることが違いですが、その目的は礼拝前に身を清めるだけではなく、もっと大きなことのためでした。

 マタイによる福音書によれば、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天の国には近づいた」と言って、もうすぐ旧約聖書に書かれている、預言者たちが言っていた神さまが来る主の日、終わりの日が来る。その時には神さまの前で最後の審判を受けて永遠の命をもらえるか、それとも永遠の死の苦しみに落とされるかどちらかだと信じられていました。その時が迫ってきているということをヨハネは言って、その審判に備えて、その時に救ってもらえるように神さまに立ち帰りなさい。神さまなんて関係ないと思って過ごしていた生き方から、神さまに向き合って従って生きる生き方に方向転換しなさい、という意味での回心、悔い改めを人々に伝えていました。教会では「罪」とか「悔い改め」ということをよく言いますが、罪というのはウソをついたとか万引きをしたという道徳的に悪いことや犯罪行為ではなくて神さまを無視して生きることで、悔い改めはたんなる反省ではなく神さまの方に向き直る回心、方向転換ということです。この罪の悔い改めのための洗礼を行っていたのが洗礼者ヨハネでした。

 洗礼者ヨハネのところには国中から多くの人が集まってきて洗礼を受けました。それはみんな心の中に後ろめたい気持ちがあるからでしょう。「そう言われたら、神さまのことを思わないで自分勝手に生きてきたな。」「礼拝では聖書の話を聞いていたけど、礼拝が終われば神さまなんて忘れてしまい、神さまに従って他の人も愛して正しく生きることを祈り願うよりも、自分の思い通りに生きることを求めて、それが適わないと神さまに文句を言いそんな神さまならいらないなどと思ったりしたな。」と、振り返ればその終わりの日の最後の審判でとても神さまに永遠の命をあげようと言ってもらえない自分がいます。それで怖くなって、最後の審判の時に救ってもらえるしるしとして、この洗礼を授けてもらいに大勢の人がヨハネのもとに集まったのです。

 じゃあ、イエスさまも罪の悔い改めの洗礼を受ける必要があったのでしょうか?イエスさまも私たちと同じように、若い頃は神さまを忘れて自分中心に生きてきたということでしょうか?決してそうではありません。イエスさまには自分が神さまの子だという自覚がありました。12歳の時の神殿での発言にあったように、神さまを父と呼ぶことができました。そんなイエスさまが洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けたのは、この天の国の到来終わりの日が近づいたことを告げる洗礼が神さまから見て正しいものだという承認の意味もあり、そして終わりの時にみんなが永遠の命を得て救われるためにイエスさまは十字架に架かるのですが、そのことを指し示すように総ての人の罪を背負ってそしてその罪をないものとする意味で、死と復活という洗礼を先取りする意味で、この水の洗礼を受けたのです。

この総ての人を救い出すイメージは、旧約聖書の出エジプトの物語とダブります。モーセに率いられてエジプトでの奴隷の苦しみから人々が解放されたとき、エジプトを出たモーセと人々をエジプト王の軍隊が追ってきて目の前に海があって行き止まりになって絶体絶命という状況で、モーセが手を伸ばすと海が割れて乾いた道が現れて進むことができ、救い出されたのです。この海を通って救われるということは、洗礼の水を通って救われるイメージにも重なります。実際、洗礼式の中でもそのことばを聞きます。私たちがイエス・キリストの名による洗礼を受ける時、それは罪と死の奴隷から解放されて自由になるということです。将来ではなく洗礼を受けたその時から新しく自由に生きることができるのです。それがクリスチャンになること、救われた者として生きることです。本当の自由です。

イエスさまが洗礼を受けて川の水の中から上がると、天が避けて聖霊、神の霊が鳩のように降ってきたのをイエスさまは見ました。天が裂けるというのも鳩のようにというのも、あくまでイメージですが、天が裂けるというのは神さまの世界と私たちの人間の世界が繋がったことを表しています。イエスさまが十字架上で息が絶えた時に神殿の幕が裂けたように、神さまと人間を隔てていた幕が裂けてなくなったように、天と地、神さまの世界と私たちの世界が繋がりました。そして目に見えない聖霊が確かに降ってきたのが鳩のように見えたのです。そこに神さまの声が響きます。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

今日成人祝福を受ける皆さんも「あなたはわたしの愛する子」という神さまの声を聞いて育ってきました。今幼稚園では神さまから、そしてみんなから愛されてきたとお誕生会毎に歌います。その通りなのです。神さまに愛されている神さまの子どもなのです。イエスさまが神さまの心に適う、神さまの意思を成し遂げる人ですから、イエスさまに従う決心をして洗礼を受けた人も、洗礼を受けた時、天からの聖霊を受け取ります。イエスさまと同じように、愛する神の子ども、イエスさまと同じ神の子の立場に正式に着くことができます。聖霊をうけイエスさまが自分の中にいてくださる、イエスさまに包まれて新しい生き方ができるようになります。聖霊の助けによって、神さまに向き合って生きることができるようになります。イエスさまがいつも共にいてくださることを実感しながら、困難な事があっても大丈夫、わたしは大丈夫なんだと思って、恐怖、恐れから解放されて自由に生きることができるのです。教会はいつかその日が皆さんにも訪れることを祈っています。

洗礼を受けたとしても、受けなかったとしても、神さまは「あなたはわたしの愛する子」といつも声をかけてくださっています。成人するということは、大人になるということは様々な困難や課題にも親の助け無しでも対処していくということです。その人生の荒れ野の道を歩み出す時に、すべての人を救うために、洗礼を受けてくださったイエスさまが、いつも一緒にいてくださることを改めて覚えてほしいと思います。

人生で困難に遭ったとき、もうお先真っ暗だと思ったとき、悲しみに打ちひしがれたとき「あなたは私の愛する子」という神さまの声を思い出してください。そんな時でも神さまは共にいて、共に苦しんでいてくださいます。そんなときに、改めて私たちのために十字架を背負って歩むイエスさまに出会うことができるでしょう。

ここに集うすでに洗礼を受けて神の子とされた人にも、まだ洗礼を受けていない神に愛されている子どもたちにも、イエスさまが共に歩んでくださり、そして神に祝福された人生となりますように