2026年1月4日主日礼拝 感謝と賛美をささげる 小田哲郎牧師
(説教)詩編30編1-12節
新年おめでとうございます
皆さんは、新年をどのように迎えられたでしょうか?
さて、毎年皆様からの応募によって選ばれる年間教会聖句は、今年は旧約聖書からということで、10を超える応募がありましたが、役員会での投票の結果は詩編30編5節が選ばれました。
週報の表紙に毎週掲げられ、この御言葉が一年間の私たちの信仰生活を導き照らす光となりますようにと祈ります。
「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え/感謝をささげよ」
なぜこの聖句を推薦するか、その理由は書かれておりませんのでわかりませんが、役員の投票の際に多くの方が手を上げたのには、その理由の一つとして最初の呼びかけが「主の慈しみに生きる人々よ」という言葉であることが関係しているように私は感じました。
私は説教の準備にあたっては、いろいろな訳の聖書を読み比べて味わうことをまずしているのですが、新しい聖書協会共同訳ですと「主に忠実な者たちよ」、2017年の新改訳聖書ですと「主にある敬虔な者たちよ」と訳されています。以前の口語訳では「主の聖徒よ」と訳されておりました。「敬虔な人たち」と訳されていたら、こんなに支持されなかったかもしれませんね。自分のことを、自分たちのことを「敬虔」だなんて。。。と。
新共同訳では「主の慈しみに生きる人」という表現は4編4節にも出てきますが、この後にも何度も出てくるのですが、ハシディームという言葉で、忠実な人、敬虔な人を指しています。私たちは「慈しみ」と聞くと「慈しみ深い友なるイエス」と讃美歌の歌詞を思い浮かべ、「愛」「憐れみ」という意味を受け取るのではないでしょうか?これは旧約聖書の言葉ではハシディームと同じ語源のヘセドと言って、恩恵とも訳せる言葉です。これは神の性質を表す言葉です。神の慈愛です。人間にも親切な人という意味で使われることがありますが、しかし、旧約聖書の中では神と人との関係、契約関係を示すことばでもあります。神との契約十戒を守る忠実な人、経験な人のことです。
この詩編30編がどのような詩編であるかを見てみましょう。ユダヤ教の伝統ではこの詩編30編はユダヤ教のハヌカーという宮清めの祭、神殿奉献祭に由来する、冬の祭で朗読されたといいます。1節にある「神殿奉献の歌」というのがその意味だとされます。この詩編が今の形に編集されたのはアレクサンダー大王又はアレキサンドロスの死後、大帝国が分裂してできたセレウコス朝シリアにユダヤが支配されていた時代と言われています。ペルシャによってバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに神殿を再建した後、アレクサンダー大王の帝国がペルシア帝国にとってかわり、アレクサンドロス1代で帝国は後継者あらそいで分裂しました。ユダの地、いまのパレスチナは最初プトレマイオス朝エジプトに次ぎにセレウコス朝シリアに支配されます。そのシリアの支配はどの帝国よりもイスラエルの民にとっては厳しいものとなりました。紀元前2世紀のことです。
ユダヤ人がヘレニズム・ギリシア風の生活習慣や宗教を受け入れないために、アンティオコス4世・エピファネスという王はエルサレムの神殿にゼウス像を建てて汚し、律法で禁じられている豚肉をユダヤ人たちに食べるように強要するなど酷いことをしたため、反乱が起こりマカベア戦争となりました。そして反乱軍がしょうりして偶像を取り去り、ユダヤ教の祭儀をとり戻したことを祝うのが宮清めの祭、神殿奉献祭です。ハシダイと呼ばれる敬虔な人たちは、そのようなシリアの迫害の中で同じユダヤ人でも体制派になびいて、妥協している中でも、信仰を守り通したひとたちでした。後の時代には貧しい人、乏しい人とも呼ばれるようになります。この詩編に歌われているのは敬虔な人、忠実な人といっても、信仰のために命を投げ出して戦うひとではなく、主なる神に静かな信頼を置く人たち、そのような人たちの歌です。
もとの詩はシリアの迫害よりも遙か昔に読まれたでしょう。2節から4節に歌われていることからすると、死に至るような病から癒やされた感謝に生きているのです。この詩人は「わたし」と言っているように、この個人的な救いの経験をしました。病から癒やされる、死の世界である陰府(よみ)から引き上げ、墓穴に入ることを逃れさせて生かしてくださったと、個人的な救いの経験を語っています。そして、「主の慈しみに生きる人々よ」と敬虔な人たち、信仰の共同体、神の家族に呼びかけるのです。私の救いの経験を分かちあい、そして救い出してくださった主なる神に共に賛美を歌い、聖なる御名に感謝したたえようと呼びかけています。
この敬虔な人、慈しみに生きる人の静かな信仰は、主なる神への信頼にあります。6節では私たちの背き、罪に対して一時的に怒ることはあっても、私の生涯は神の恩寵の中にある。恵みの中にある。それはまるで泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌で朝を迎えさせてくださるようだと歌います。なんと美しい詩でしょう。しかし、自分の信仰が決して強いわけではないことをこの人は知っています。平穏なときには「わたしの信仰は大丈夫、どんなことがあっても揺らぐことはない」と思っていても、たしかにそのような信頼を神が与えてくださったのだとしても、ひとたび苦難の中に置かれて、神が見えない、離れてしまったと思ったとたん、恐怖におじ惑うのです。そして救いを求める叫び、祈りを投げかけます。「主よ、私の助けとなってください」と。その叫びに応えて主なる神は救いの手を伸ばし、嘆きを踊りに変えてくださる。嘆きの祈りを感謝と賛美に変えてくださるのです。その嘆きの叫びは一人のものでも、喜びの踊りは共同体みんなのものです。感謝と賛美は共同体のものです。それが礼拝です。
クリスマスの礼拝で受洗者が与えられた時の説教の中でも「喜びに踊る」ということをいいました。まさに奥様が喜びで踊りたかったとおっしゃいましたが、それはこの教会員、神の家族全体の喜びでもあります。洗礼を受けるということは、個人の信仰の問題、心の問題だと思われがちですが、そうではなく共同体のことです。家族が一人増えるのですから。また、クリスマスの時期、入院されていた方が回復されて礼拝に加われたり、しばらく施設に入っていて共にこの場で礼拝できなかった方々も共に礼拝ができたことを、私たちは心から喜びました。教会に来ることはできなくても、病や怪我から回復されたという知らせを聞いただけでも、喜び神さまに感謝しました。わたしたちは、そういう共同体です。
祈りについては、個人的な嘆きの祈りを遠慮する私たちがいます。祈祷会でも個人的な祈りの課題はなかなか出ないものです。わたしのつまらない問題で皆さんの時間をとっては申し訳ない、というような思いがあるのでしょうか?そうではありません。その嘆きの祈りを聞いてくださる神は、必ず喜びの歌を歌えるようにしてくださるのですから。その時、その喜びはこの共同体の喜びになります。そこに感謝の喜びがこの共同体の神への賛美、礼拝になるのです。
今日は一年の初めの主日礼拝ということでこの教会恒例の年頭祈祷会があります。小さいグループに分かれて祈る時ですので、一人一人是非、祈りの課題、祈って欲しい困難な事苦しいことでも、ともに喜んで神に感謝してほしい神の恵みについてでもいいので、是非自分のことを分かち合っていただきたいと思います。そして祈ることで、神に感謝することで、私たちは共同体として共に喜び感謝する、礼拝する共同体としてこの一年を歩み出せるのです。
そして、今年は嘆きの叫びと祈りが感謝と喜びの歌に変えられた救いの経験、神さまのすばらしい御業を証しする年としたいと思います。個人的なことに留めるのではなく、この神の家族で分かちあい、そして礼拝する共同体へと成長していきましょう。
聖霊に満たされて、激しく強い信仰を訴えるひつようはありません。静かな神への信頼を自分の言葉で言い表せば良いのです。共に神さまに感謝し、神さまを賛美する言葉はこの150編もある詩編の中に、宝石箱のように詰まっていますし、神さまをたたえる賛美の歌は慣れ親しんだ曲の中にも新しい讃美歌の中にも豊かに表されています。
礼拝の中でも感謝は祈りと賛美を通して表されるだけではありません。
聖餐があります。聖餐はギリシア語でユーカリストと呼ばれます、これは感謝という意味です。聖餐制定の言葉とされるコリントの信徒への手紙二の11章23節に「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを割き」とあるようにイエスさまが感謝をささげ、神を賛美したことが記されています。最後の晩餐を思い起こす主の食卓である聖餐はイエスさまの感謝の祈りによって導かれます。この聖餐の第一のテーマは感謝です。イエス・キリストの十字架の死と復活を思い起こし、それが私の救い、私たちの救いのためであったことを覚えて感謝します。
この詩編30編の中には死と復活を想起させる言葉があります。ですから復活祭イースターに読まれる詩編ともなっています。
私たちは、今一度このユーカリスト感謝とよばれる聖餐を礼拝の中で大切にしたいと思います。かつては年に数回でしかなかった聖餐式は、吉岡牧師の時に毎月行われるようになりました。今も年に数回、イースター、ペンテコステ、クリスマスと世界聖餐日の4回行う教派や教会も多くありますし、基本的に礼拝には聖餐があるという教派もあります。私自身は、毎週行うというふうに変えようとは思っていませんが、コロナ禍を通して考えさせられたわたしたちにとっての聖餐の意味も踏まえ、より豊かにしたいという思いが起こされました。パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ10章に記すように「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの地にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とキリストの血にあずかる、キリストの体にあずかるコイノニア、聖徒の交わりであるということを喜び、この教会という信仰共同体の一致の徴である聖餐であることをより感じられるように整えて行きたいという思いがあります。
「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え/感謝をささげよ」
この聖句に導かれる南三鷹教会の一年は、より礼拝を豊かにし、どんな困難な時にも、苦難の多い時代にも、必ず主なる神は救ってくださるという信頼、信仰を胸にその救いの完成を先取りするかのように、喜び祝い感謝と賛美を主にささげて歩みたいと願います。この詩人がこの詩の最後に「わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます」というように、礼拝においてだけでなく、人生を神さまに感謝をささげる生き方としていきたいと願うものです。