2017年12月3日 全ての人の光として

(要約)マタイによる福音書に書かれた外国の学者たちが星の光に導かれてくる物語は、彼らがまことの光であるイエス・キリストに導かれた人生を送ったということではないでしょうか。

(説教本文) キリスト教の暦である教会暦は、今日から待降節に入りました。待降節、救い主イエス・キリストの降誕を心待ちにする期間です。クリスマス・ツリーが飾られ、クランツやリースも飾られています。様々なオーナメントで飾られたクリスマス・ツリーは、幼稚園や日曜学校のこどもたち、また道を通る人々にクリスマスが近づいてきたことを知らせています。夜にはクリスマス・ツリーに巻き付けられた豆電球が光り輝き、人々の心の中に美しく、やさしい光を届けています。クリスマス・ツリーの電球の光もクランツに囲まれて燃えるローソクの火も、救い主イエス・キリストの光として静かに輝き、わたしたちの心を照らしています。

待降節は、西ヨーロッパではアドベントと呼ばれてきました。ローマカトリック教会の公用語であるラテン語で、やって来る、向かって来る、という意味の言葉です。やって来るのはもちろんクリスマスです。しかし、イエス・キリストの誕生日としてクリスマスがやって来ることが大切なのではありません。大切なことは、救いの日がやって来ることです。クリスマスは、神の救いの計画が現実になったことを記念して祝うのです。

神の救いの計画は、主イエスの降誕によって地上に降りてきました。しかし、計画は未完成です。今は、神の救いのご計画に向かって進んでいるときです。神の救いのご計画の完成は、主イエス・キリストが再び来られる時、終末と呼ばれる時です。この日が来ることを信じ、救いに希望をもって現実のこの世を生きているのがわたしたちです。クリスマスは、そのことをわたしたちに思い出させ、感謝と喜びの内に主イエスを迎えるのです。

わたしたちが救いの完成を待つように、旧約の時代のユダヤの人々も神の救いを待っていました。彼らが置かれていた現実は、バビロン捕囚という厳しい現実でした。異国に国土を蹂躙され、さらに異国に連行された人々の苦しい思いは、いかほどのものだったでしょう。今日の聖書は第二イザヤと呼ばれる預言者の言葉ですが、第二イザヤの時代は、バビロン捕囚からすでにかなりの歳月が経っていました。最初にバビロンに連れて来られた人たちからすでに3代目、4代目になっていました。待っても待っても解放の日は来ない、救いの時は来ない。ユダヤの人々の間に、失望が広がっていました。そのような人々に希望をもって時を待てという神の言葉が預言者たちによって語られました。イザヤもその一人でした。今日はイザヤ書51章に記された預言者の言葉から、神の声を聞きましょう。

まず、9節から10節から始めます。9-10節はユダヤの人々の言葉です。長期にわたっているバビロン捕囚の中からの叫び、苦しみに満ちた声です。 「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の実腕よ。奮い立て、代々とこしえに。遠い昔の日々のように。」 神様どうか奮い立ってください。昔のように、神様の腕に力がみなぎりますように。バビロンからの解放を求める叫び声にお答えくださらない神に、どうか力を示してくださいと祈り求めています。「ラハブを切り裂き、竜を貫いた」ラハブはバビロニアの神話に出て来る怪物ですが、ここではラハブも竜も無秩序の象徴、天地創造以前の混沌とした無秩序の状態を象徴しています。神が天地を創造される前、宇宙は混とんとして何の秩序もない状態でしたが、神が「光あれ」と命じられると、昼と夜が分けられ、空と地が造られ、と天地が創造されました。神の支配、秩序がもたらされたのです。

神はまた、エジプトで奴隷状態にあった人々を導き出し、海に道を開いて救われました。「贖われた」とは「救われた」ということです。

神様、あなたは全世界を創造されて秩序をもたらし、奴隷の地、エジプトからわたしたちを救い出して下さったではないですか。今一度力を振るってわたしたちをお救いください。彼らは心の底から神に救いを求めたのです。

しかし、全ての人々が神に救いを求めたのではありませんでした。7節から8節には、嘲る、ののしるという言葉が出てきます。バビロン捕囚から数世代を経て、バビロンで生まれ育った人も多くなっていました。彼らはユダヤの地を見たこともなく、エルサレム神殿で礼拝を捧げたこともなく、ユダヤのことは親たちから聞く話の世界でしかありませんでした。預言者が語る神の言葉、バビロン捕囚が終わる日が必ず来るという言葉が空しい言葉にしか聞こえない人々も増えていたのです。何年どころか何十年待っても救いは実現しないではないか。神の救いを信じて待つなど非現実的なことだと、彼らは救いを信じる人々を嘲笑い、罵ったのでした。確かに救いが来ない、解放の日がいつになってもこないという現実は現実として受け止めざるを得ませんでした。嘲りの声、罵りの声を聞いて動揺する人がいても不思議はありませんでした。暗闇がバビロン捕囚となっていたユダヤの人々の心を覆っていたのです。

そのような中で、バビロンにいたユダヤ人の上に神の声が響き渡りました。 「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。」 「わたしの民よ」という呼びかけの声は、「わたしの愛する民よ、わたしが大切にしている民よ」ということでしょう。しかも「聞け」ではなく、心してわたしの言葉を聞きなさい、わたしの言葉にしっかり耳を傾けなさいと、特別な思いを込めて呼び掛けてくださるのです。わたしの声から耳をそらせてはいけない。わたしの声をしっかり聞きなさい。それは、暗く沈んでいる民の心の奥に響く声でした。 「教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」 「教え」も「裁き」も神が示す道であり、神の心であり、神の思いです。神から離れてはいけない、神の示す道を歩みなさい。神はすべての人、ユダヤ人のみならず、全世界の人々の光として輝く、希望となると言われるのです。「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ」救いの日、解放の日は近い、救いは必ず来る。世界の人々よ、わたしの言葉に希望をもって待ちなさい。わたしが力を振るう日が来るから。神の言葉に励まされ、力を得た人々は、それからも解放の日を待ち続けました。

イザヤを通して語られた神の言葉「わたしの正義は近く」という言葉に希望を置いて、人々は待ち続けました。そして、ついにその日、バビロン捕囚から解放される日が来たのです。神の約束は実現したのです。

バビロンから解放されたとき、ユダヤの民の喜びがいかに大きかったかは想像に難くありません。彼らはユダヤに戻り、エルサレムの神殿を再建し、国を作り直すために汗をかいたのです。その汗はここちよい汗だったことでしょう。

しかし、バビロンからの解放が、最終的な解放でなかったことがわかります。バビロンに変わってユダヤはペルシャの支配を受けるようになりました。バビロン捕囚から解放してくれたペルシャでしたが、やはり現実は厳しいものでした。そのペルシャもやがて衰退し、次にはアレクサンダー大王率いるギリシャの支配を受け、ギリシャの後にはローマの支配を受けと、ユダヤは異国の支配を受け続けることになるのです。

本当の解放とはどのような形で実現するのか。ある人にとっては政治による解放であり、ある人にとっては力による解放、すなわち、軍事力よる解放でした。しかし、どれも本当の解放をもたらすことはありませんでした。「わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」という神の約束は、どうなったのだろう、ユダヤの人々にとって、大きな疑問でした。疑問は失望に変わりかねませんでした。約束の実現は、まことの光として世に来られた救い主の降誕まで待たなくてはなりませんでした。

クリスマスは光の祭典です。東の国で不思議な星を見た学者たちは、星の光に導かれて、はるばる遠い国から旅をして主イエスを訪ねました。今はGPSによって簡単に自分がどこにいるか知ることができますが、少し前の時代までは、目標のない海を航海するにも、砂漠を旅するにも、星を目印にしました。マタイによる福音書の新共同訳は「占星術」の学者が訪ねてきたと訳していますが、わたしは天文学に詳しい人々だったと思っています。彼らは実際に星に導かれて砂漠を横断して主イエスを訪ねたのでしょう。しかし、聖書がわたしたちに伝えたいことは、そういうことではありません。わたしはマタイが本当に伝えたかったのは、真理を求めていた異邦人の彼らが、主イエスの光に導かれた人生を送った、異邦人に光が輝いたというメッセージなのではないかと思うのです。「すべての人の光として輝く」とイザヤの口を通して語られた神の言葉が、実現したことをマタイは東の国の学者たちに見出したのではないかと思うのです。

旧約聖書の言葉であるヘブル語で光をオールと言います。北極に近い場所の夜空に光るオーロラはオールが語源です。神の天地創造は光=オールから始まりました。混沌とした暗闇に輝く光から天地創造が始まったのです。光は神の力であり、命の源でもあります。光がなかったらわたしたちは存在していないし、生きることもできないでしょう。光は暗闇の中で輝く時、その価値がわかります。高いところに置く時、周囲を明るく照らします。世の光としてお出で下さった主イエス、まことの世の光として輝いてくださる主イエス、暗闇を照らし、暗闇の中に輝き、わたしたちを導き、命を与えてくださる主イエス。主イエスはわたしたちの道であり、わたしたちの命であり、わたしたちの希望です。異邦人の学者たちが求めたように、わたしたちもまことの光を求め、わたしたちの人生がまことの光で導かれますようにと祈りつつ、光の祭典であるクリスマスを迎えたいと思います。今この時を、アドベントに向けてよき準備の時として過ごしたいと願うものです。