2017年10月15日 信仰に導かれた人生

(要約) 今日は特に先に天に召された人を覚えて、共に礼拝します。人の地上の命には限りがありますが、人は地上の人生を終えても籍を天に移して生き続けます。神が永遠の命を与えてくださるのです。

(説教本文) 南三鷹教会の礼拝では、まず礼拝開始を告げるオルガンの奏楽があり、司会者の口を通して告げられる招きの言葉によって神から礼拝に招かれます。礼拝に招かれ、礼拝に出席することを赦された私たちは、まず神を讃える賛美を歌います。この賛美の歌は頌栄と呼ばれます。今日は「天のみ民も、地にある者も、父・子・聖霊なる神を讃えよ、とこしえまでも」と歌って神を讃えて礼拝を始めました。今日は、聖徒の日・永眠者記念礼拝の日です。天にいる人々と地にいるわたしたちが、一つの民として共に神を賛美する礼拝となりますように。

さて、わたしたちは、ひとりの例外もなく、神からこの地上の世界へ送り出され、地上の世界で過ごし、神の元へ帰ります。地上で過ごす時間は人によって異なります。短い人もいれば、長い人もいます。しかし、短いとか長いということは、わたしたち人間の思いであって、わたしたちを造られた神の目には同じです。神はわたしたち全員を地上に送り出され、また全員を天に呼び戻されるのです。

天に召された人は、どこにいるのでしょうか。天の国、神の国ですね。では天の国、神の国はどこにあるのでしょうか。はるかに遠くの宇宙の彼方にあるのでしょうか。そうではない、神の国はわたしたちの間にあるのだ、すぐ近くにあるのだと聖書は教えています。ということは、わたしたちより一足先に天に召された人々は、実はわたしたちのすぐ近くにいるのです。

わたしたちは、毎日曜日にこの礼拝堂に集まり、礼拝をささげていますが、実はわたしたちの目には見えなくなった人々も、いつもこの礼拝に参加して神を賛美しているのです。ある人はそのことを、礼拝堂の向こう側に見えない席があって、十字架を囲むようにして天にいる者と地にいる者が共に礼拝をしている、と説明しています。今日の礼拝の初めに歌った「天のみ民も、地にある者も、父・子・聖霊なる神を讃えよ」という賛美の歌は、まさにそのことを歌っているのです。

今日の礼拝では天に召された方々の写真がたくさん置かれています。しかし、写真があるから、これらの人々と共に礼拝しているということではありません。写真のあるなしにかかわらず、共に礼拝を捧げているのです。今日は、永眠者記念礼拝として、特にそのことを意識して礼拝を捧げるために、写真を置いているのです。

さて、今日わたしたちに示された聖書の言葉は、実に聖徒の日・永眠者記念礼拝にふさわしいみ言葉です。実は、日本基督教団では、11月第1週を聖徒の日・永眠者記念礼拝の主日としているのですが、南三鷹教会では、諸事情により数年前から少し早めに永眠者記念礼拝を行っています。ですから、今日の主日聖書日課は、聖徒の日・永眠者記念礼拝を意識しないで選んだと思うのですが、実に今日の主日にふさわしい聖書箇所が選ばれているなと、神のご配慮を強く感じています。

今日はヘブライ人への手紙11章13~31節が主日聖書日課として選ばれていますが、11章全体が信仰に生きた人々の生きざまを紹介する文章になっています。

11章は、1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という実に力強い宣言によって書きはじめられています。 わたしたちは、いろいろな望みを持っていますが、キリスト者として本当に重要な望みをつきつめていくと、永遠の命という望みに行き当たります。永遠の命に比べれば、その他の望みは結局は些細なことです。しかし、誰も地上で生きている間に永遠の命が与えられることはありません。地上の命を終え、天に召されたものだけに永遠の命は与えられるのです。ですから、地上にいる間に永遠の命を与えられた人に会う、会って永遠の命を確認するということはないのです。神が永遠の命を必ず与えてくださるということを疑いないこととして確信すること、それが信仰なのです。見えない、触れない、臭いをかぐこともできない、しかし、永遠の命が与えられる、すでに永遠の命を与えられた人がいるということを、想像ではなく、事実として確信すること、それが信仰なのです。

「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」

昔の人はしっかりした信仰を持って神に認められたが、今の人は信仰が弱くて神に認めてもらえない、と言うことではありません。もし、そうであれば、それこそ、わたしたちには望みがなくなってしまいます。聖書に登場している昔の人々の信仰を詳しく紹介して、かれらが信仰によって神から認められたということを証ししようとしているのです。

4節~12節に信仰者として挙げられている旧約聖書の人物は、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラです。ひとりひとりを詳しく紹介することはできませんが、皆、“望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する”という、しっかりとした信仰の持ち主として紹介されています。アブラハムは8節以下では、神の命令に素直に従って見知らぬ土地に移住した信仰者として紹介されていますが、今日の聖書箇所の 17節以下で再度紹介されていて、ここでは、ひとり息子のイサクを神への献げ物としようとしたことが信仰の証しとして取り上げられています。この話はご存知の方も多いとは思いますが、簡単にお話ししておきましょう。ある日神はアブラハムに山に登り、そこでアブラハムの息子イサクを焼き尽くす献げ物として礼拝しなさいと命じられました。アブラハムは神の言葉通りにイサク連れて山に登り、イサクを縛って祭壇に積まれた薪の上に置きました。アブラハムがナイフでイサクの胸を突こうとしたとき、「その子に手を下すな。お前が神を畏れる者であることがよくわかった。」という神の声がして、神がアブラハムの信仰を褒め、祝福した、という話です。この出来事に対してヘブライ人への手紙は、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になることを確信していた、それ故、神はイサクを返してくださったとアブラハムの信仰を紹介しています。

23節以下ではモーセが紹介されています。幼いモーセの命が、両親の信仰によって守られたことから始まり、ファラオの王女の養子になり、成人してその地位を捨てて、ひとりのヘブライ人として虐待される側に立ち、イスラエルの民を救い出すために信仰によってエジプトの王と戦い、イスラエルの民をエジプトから導き出したことが語られています。

この手紙で紹介された人々のことは、ヘブライ人すなわちイスラエル人・ユダヤ人であれば、だれでもよく知っている人々でした。しかし、多くの人々は、これらの人々を、国を作り守った英雄として、あるいは自分たちの先祖として崇めていたのでしょう。どの国にも英雄物語があるように、ユダヤの人々にとっても彼らは英雄物語の主人公でした。しかし、ヘブライ人への手紙は、これらの人々を”信仰“という鏡に映し出して語っているのです。モーセがエジプトの王妃の養子という立場を捨て、エジプト王との交渉に臨んだことは、モーセ自身の力によるものではなく、信仰のゆえだ、モーセの信仰が神に認められて、全てのことが運んだのだと証ししているのです。

今日は、聖徒の日として、永眠者、天に召された人々を特に覚えて礼拝を捧げています。この人たちもまた、信仰による望みをもって生きた人々です。このひとたちは、信仰によって素晴らしい人生を歩み、今もその信仰によって神の国、永遠の命を語っています。その声が聞こえてきます。わたしたちに、信仰をもって生きることのすばらしさを語ってくださっています。キリスト者の葬儀の度に思います。人は死んでも神を讃え、神を語る伝道者であることができます。むしろ、死をもって大きな伝道の働きをする例をたくさん見てきました。みなさんの中にも、信仰者のご家族の死によって信仰を目覚めさせてもらった、背中を押してもらって信仰者として歩みだすことができた、という人がいるでしょう。わたしも家族や教会の方々の死に会うたびに、自分の信仰が増し加えられてきたことを覚えます。死者はよき神の国の伝道者なのです。

最後に、大切な聖書の言葉を聞きたいと思います。11章13節と39節で語られている言葉です。13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されてものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」39節「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手にいれませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、・・・」

「約束されたものを手に入れませんでした。」という言葉が繰り返されています。信仰とは、信仰によってなにか具体的なものを手に入れる、利益を得るということではないということです。長生きしたいと思っても、短く終わる人生もあります。思い通りにならないのが人生です。しかし、それは、神がわたしたちの信仰を訓練していることなのです。地上の歩みのなかでは、望んだことや、約束したことが実現しなくても、いつか必ず実現する、その希望を持つこと、それが信仰であり、信仰に生きることは、豊かな素晴らしい人生の歩みになるのです。