2024年4月21日 わたしを愛しているか 吉岡喜人協力牧師

(要約)主イエスを見捨てて逃げ出し、主イエスの弟子でないと3度も行ってしまったペトロは、自分の信仰に自信を失い、自分を信仰失格者としていました。そのようなペトロに主イエスは忍耐強く話しかけ、ペトロを立ち上がらせてくださいました。

(説教本文)ヨハネによる福音書21章15-25節
 主イエスは復活されてから40日にわたって弟子たちのところに姿を現されました。しかし、主イエスに出会った弟子たちは、すぐにはその人が主イエスだとは思えませんでした。マグダラのマリアは、墓地の管理人だと思いました。エマオに向かっていた二人の弟子たちも旅の道連れとなった人が主イエスだとは気が付きませんでした。ガリラヤに帰り、漁師に戻っていたペトロたちも、岸に立っておられた人が主イエスに見えませんでした。
 
 なぜ、主イエスを主イエスと認識することが出来なかったのでしょうか?主イエスが復活すると思っていなかったからです。主イエスの復活を信じていなかったからです。生前、主イエスは何度も弟子たちに、自分は殺される、そして復活する、と弟子たちにお話しになっていました。しかし弟子たちは、主イエスの話をきちんと聞いていませんでした。自分は殺されるという主イエスの言葉を耳では聞いたものの、そのようなことが起るはずがない、起こってはいけないという思いから主イエスの言葉を否定し、頭と心から消し去っていたのです。主イエスが殺されるという言葉を消し去ったことで、復活するという言葉も一緒に消し去ってしまったのです。主イエスの復活を心に留めていない弟子たちが、復活した主イエスの姿を見ることをできなかったのです。
 
 もうひとつ、復活の主イエスを認識できなかった原因が弟子たちの間にあるのではないかと思います。それは、主イエスに対する裏切りです。主イエスが逮捕されたとき、男の弟子たちはことごとく逃げてしまいました。ペトロはおそるおそる主イエスの裁判が行われていた大祭司の屋敷に行きましたが、そこにいた人に主イエスの弟子だと見抜かれ、恐怖に襲われ、思わず「弟子などではない、あの人のことを知らない」と3度も否認してしまいました。屋敷の外に出たペトロは、主イエスを知らないと3度も否認してしまった自分の行いを責め、激しく泣いたのです。弟子たちは全員、主イエスを見捨てて逃げてしまったことに、後ろめたさを感じていたでしょう。なかでもペトロは自分の行ったこと、「そんな人は知らない」と主イエスを3度も否認してしまったペトロは、主イエスに合わせる顔が無いと思っていたでしょう。地上の歩みを終えた後、赦されて神の国に入れていただけたとしても、主イエスになんと言えばよいのだろうか。どんなにお詫びしても、赦していただけないのではないか。ペトロは主イエスに会うのが怖かったのではないかと思います。
 
 故郷のガリラヤに帰り、漁師に戻ったペトロは、漁に出ていました。暗いうちから漁をしているのに、全く魚が網にかかりません。主イエスのことや自分がしたことを思い返して漁に力が入っていなかったのかもしれません。夜が明けました。岸辺にだれかいます。その人が、「何か食べる物はないかな?」と言うので、「何もないよ。魚が全く網にかからないからね。」と答えました。するとその人は「舟の右側に網を打ってごらん。きっと魚がとれるよ。」と言うのです。「漁師でもないのに、あの人は何を言っているのだろう、獲れるはずがないではないか」と、ベテラン漁師のペトロは思いましたが、なぜか、もう一度だけ網を打ってみるか、と言う気持になったのです。
 その人の言うとおりに舟の右側に網を打ってみると、おびただしい数の魚が網にかかり、網を舟の上に引き上げられないほどでした。一人の弟子が気が付いて、「あれは主イエスだ」と言うと、ペトロは驚いて水の中に飛び込みました。服を着ていなかったから、と聖書は伝えています。裸同然の姿で主イエスに会うことは、とても失礼なことと思ったのでしょうか。それもあったでしょう。しかし、わたしは、あの日ペトロが行ったこと、主イエスを見捨てて逃げ、さらに3度も「そんな人は知らない」と主イエスを否認してしまったことで、後ろめたさを感じていたペトロが、主イエスに会わす顔が無いと、水の中に飛び込んだのではないかと思います。
 水の中に飛び込んだペトロですが、いつまでも水の中にいるわけにもいきませんし、獲れた魚を陸揚げしなくてはなりません。魚を陸揚げし、舟と網を片付けと、ペトロは黙々と働きました。
 主イエスが、さあ、獲れた魚で朝食にしようと声を掛けました。どのような雰囲気の朝食だったのでしょうか。明るい笑い声が岸辺に響く朝食ということはなかったように思います。皆、主にどのように話しかけるべきかを思いつつ、主に声をかけられないまま食事が進んでいたのではないでしょうか。少し、重い空気だったと思います。魚が焼けると、主イエスはパンを取って割き、弟子たちに配りました。魚も同じようにしました。誰しも、十字架の前の過越祭の食卓を思い出していたでしょう。
 
 朝食が終わると、主イエスはペトロに声をかけました。「シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」本来ならペトロは、「はい主よ、わたしは誰よりもあなたを愛しています。」ときっぱりと答えたでしょう。かつて主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになったとき、「あなたはメシア、生ける神の子です」ときっぱりと答えたペトロです。しかし今のペトロにはそのような答え方はできません。肝心なときに、主を見捨てて逃げ出し主を裏切ったこと、3度も「そのような人は知らない」と主イエスを否認してしまったことで、ペトロは自分を信仰失格者とみなしていました。ペトロは心に深い傷を負っていました。ペトロはおずおずと答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」「わたしが愛しています」と言えずに「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じだと思います。」と答えを主イエスに委ねたのです。裏切りと言う後ろめたさと恥ずかしさで心が一杯のペトロにはこれ以上の答えができなかったのです。主イエスに対する信仰を自分の口で言うことができず、主イエスにすがったのです。
 
 自信を失っているペトロに対し、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。ペトロは驚きました。ペトロは主イエスから𠮟責されると思っていたと思います。これまでに何度も主イエスから𠮟責されていますから。しかし主イエスの言葉は「わたしの羊を飼いなさい」。自分に代わって、人々を神の国に導き、人々を救いなさい、その大切な任務をペトロ、お前に託す、と主イエスが言っておられるのです。ペトロはどう答えてよいのか、迷いました。主イエスを裏切ったわたしに、主イエスの後を継いで信仰の導き手として、神のために働きなさいと言っておられる。ペトロの心の中は、驚きと困惑と、そして喜びが渦巻いていました。ペトロが答えられずにいると、主イエスはもう一度ペトロに尋ねました。「シモン、わたしを愛しているか。」「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」ペトロはまだきっぱりとした答えができないでいます。主イエスは再度「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。主イエスは、ペトロ、立ち上がりなさい、わたしはお前を必要としているのだ、お前の気持ちはわかっている、わたしを裏切ったことを悔やみ、自信を失っているのだね、失格者だと思っているのだね、でもそこから立ち上がりなさい、神の国のために、働きなさい、わたしと共に働こう、とペトロに声をかけてくださっているのです。
 
 それでもペトロは、まだ立ち上がれません。主イエスはもう一度ペトロに尋ねました。「わたしを愛しているか」3度も主イエスに「わたしを愛しているか」と尋ねられたので、ペトロは悲しくなったと聖書に書かれています。わたしはこれまで、ペトロが悲しくなったのは、自分が主イエスを愛していることを主イエスがわかってくださらないからだと思っていました。主イエスが同じことを何度も尋ねるので、悲しくなったのだと理解していました。しかし、どうもこの理解は違っていたようです。自信をもって主イエスにきっぱりと「はい、あなたを愛しています」と言えない自分に、ペトロは悲しくなったのです。
 ペトロの3度目の答も「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」でした。どうしても「はい、愛しています。」と言えないペトロなのです。それでも主イエスはペトロに言うのです。「わたしの羊を飼いなさい。」
 
 主イエスは3度ペトロに「わたしを愛しているか」と尋ね、ペトロが3度「わたしがあなたを愛していることを、あなたがご存じです」と答えています。3度というのは象徴的な意味で、なんどもなんどもということです。ペロとはどうしても、「あなたを愛しています」と言えない。本当は愛しているのです。しかし、自分のことを信仰失格者、弟子失格者と思っているペトロには言えないでいるのです。そのようなペトロに対して、主イエスはあきらめずに、忍耐強くペテロを立ち上がらせようとしてくださるのです。
 
 やがて、ペトロは自分が主イエスに赦されていることを悟りました。罪あるままに、主イエスが自分を用いてくださることに感謝をし、立ち上がって主イエスの宣教の業を再開したのです。信仰的に死んでいたペトロは。主イエスの弟子としてよみがえったのです。そして最後まで主イエスの弟子として働き、神の栄光を世に現わしたのです。
 
 今日の聖書に描かれていたペトロの姿は、他の弟子たちも同じです。そして、わたしたちもペトロと同じではないでしょうか。わたしたちは自分の信仰に自信を失うことがままあります。というより、信仰に自信をもって人生を歩んでいる人はいないのではないでしょうか。でも、自信がなくてよいのです。むしろ信仰に自信がない方が自然です。そのようなわたしたちを神様は招いて弟子としてくださるのです。