2024年5月5日 勝利者イエス 協力牧師吉岡喜人

(要約)主イエスは、弟子たちなどに多くのことを語りましたが、彼らは主イエスの言葉を本当には理解できていませんでした。復活の主イエスに出会い、自分たちの弱さ、罪深さを覚えたとき、彼らは主イエスの言葉が理解できるようになったのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書16章25-33節

今日は5月5日、日本の暦ではこどもの日です。こどもたちの健やかな成長を願い、育ててくださる主なる神様に感謝しましょう。先週の月曜日4月29日に子どもの教会(旧名称 日曜学校)のピクニックがあり、わたしも参加しましたが、わたしが思っていた以上のこどもたちの参加がありました。さらに中学生以上の人たちはヤングスタッフとしての参加でしたが、これにも多くの青年が参加してくれました。ピクニックの後、教会で小田伝道師主催(ですか?)のタコ焼きパーティー(俗称タコパ)があり、多くのヤングスタッフが参加したとのことです。わたしは、ピクニックで遊び過ぎ、体力の限界でしたので、タコパには参加しませんでした。南三鷹教会が、フィッシャー幼稚園、子どもの教会を大切にしてきたことがいかに大きな働きであるかを覚え、喜びと感謝に溢れた一日でした。

こどもの日はともかく、キリスト教にとって今週には大切な日があります。イエス・キリストの昇天日です。復活日=イースターから40日目ですので、今年は5月9日(木)になります。主イエスは復活後、40日に渡って弟子たちにお会いになりました。主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、十字架に掛けられた時、男の弟子たちはことごとく主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスが彼らのところに現れたとき、弟子たちの心は恥ずかしさで一杯でした。主イエスと会うことを恐れました。しかし、主イエスは逃げてしまったことを𠮟ることもなく、非難することもなく、恨みを言うこともなく、ただ、福音を宣べ伝えることを弟子たちにお話しになりました。弟子たちは恐れから解放され、再び主イエスと共に神の国を語り、人々に救いの希望を伝えることができる喜びに、心が躍ったのです。

復活した主イエスと過ごした40日の間に、弟子たちはいろいろなことを思い出しました。主イエスが自分たちに語った多くのことを、主イエスが自分たちに見せた多くの業を思い出しました。そして、思いました、自分たちは主イエスを理解していなかった。主イエスのお話を聞いても、その大切な意味がわからなかった。今、やっと主イエスのお話しになったこと、主イエスが行われたことの意味がわかるようになった。弟子たちはそのことを喜び、大きな力を得たのです。

十字架に掛けられる前、主イエスはご自身の受難のこと、自分がこの世からいなくなった後のことを何度も、様々な言葉で語っていました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はすべて十字架に向かう主イエスの姿を詳しく記述していますが、特にヨハネによる福音書は、主イエスがエルサレムにお入りになってからの1週間について、多くの主イエスの言葉を伝えています。

その1週間、いろいろなことがあり、多くのことを主イエスは語られました。

過越祭を祝うためにエルサレムに向かう主イエスと弟子たちは、前日、エルサレムの近くのベタニア村に宿泊しました、食事の席に着いたとき、マリアという女性が高価な香油を持って来て主イエスの足に塗りました。なぜそのようなことをするのかとマリアに問いただす弟子に向かって主イエスは言われました。この人を責めてはいけない。この人は、わたしの葬りの日のためにしてくれたのだ。この時、弟子たちは、マリアのしたことも、主イエスの話も分りませんでした。復活した主イエスに出会った今、このときのことを思い出し、マリアのしたこと、主イエスの言葉の意味を理解できたのです。

翌日、主イエスはエルサレムに入り、大勢の群衆の熱烈な歓迎を受けました。弟子たちは主イエスを誇らしく思いました。ところが主イエスは群衆と弟子たちに向かって、まもなく自分は十字架につけられると告げたのです。水を差すような主イエスの言葉に、人々は戸惑い、信じませんでした。信じたくなかったのでしょう。こうした人々の振舞いについてヨハネによる福音書は、イザヤの預言の実現であるとして、イザヤ書を引用しています。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」(12:40)

過越祭の前日には主イエスが突然弟子たちの足を洗うという出来事がありました。弟子たちの足を洗った後、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい、互いに愛し愛し合いなさいと言われたのですが、その時にはよく理解できませんでした。

それから、主イエスは弟子たちの裏切りを予告しました。だれがそのようなことをするのだろう、決して自分ではないと思った弟子たちでしたが、その時が来ると、主イエスの逮捕に動転して、皆逃げてしまったのです。主イエスを裏切ってしまった。そのことは、弟子たちの心を重く、暗くしていました。

弟子たちにとって、最も理解できなかったことが、聖霊のことではないでしょうか。
16章5節以下に、主イエスが聖霊について語っておられます。自分は去って行くが、弁護者をあなたがたの所に送る。弁護者罪を明らかにする真理の霊である。真理の霊は、あなた方を導き、真理を悟らせる。弟子たちにはよくわからない主イエスの言葉でした。

主イエスはさらに言われました。あなたがたはわたしを見なくなるが、しばらくするとわたしを見るようになる。あなたがたは悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ、

主イエスがいなくなる、見えなくなる、しばらくするとまた見えるようになる。いなくなると弁護者が来る。自分たちは主イエスを裏切る。 主イエスの言葉に弟子たちは戸惑い、混乱していました。主イエスの言葉に悲しむ弟子もいました。

なぜ、主イエスは弟子たちが理解できないようなことを言われ、弟子たちを混乱させ、悲しませるようなことを言われたのでしょうか。主イエスの言葉は、まるで弟子たちに意地悪をしているようにすら聞こえませんか。もちろん、主イエスは弟子たちに意地悪をしたのではありません。弟子たちを愛されていたからです。主イエスの言葉はすべて弟子たちに対する愛の言葉だったのです。

 もし、主イエスがこれらの話をしないで逮捕され、不当な裁判にかけられ、十字架の刑に処せられ、そして復活されたとしたら、それこそ大混乱が弟子たちの間に起こったことでしょう。十字架の前に、復活の前にこれらのことを話したから、彼らは復活された主イエスに出会ったときに、主イエスの話を思い出し、主イエスの話されたことを理解し、大きな力を得たのです。大きな力を得た弟子たちであったからこそ、この後、大きな困難に立ち向かって世界中に主イエスの救い、福音を伝えることができたのです。そうでなかったら、主イエスの十字架ですべては終わっていたでしょう。キリスト教はなかったでしょう。弟子たちが理解できないような話をし、弟子たちを混乱させ、悲しませることさえあった主イエスの話、主イエスの行いは、弟子たちをまことの弟子、力強い弟子にするための訓練だったのです。

今日の聖書個所の中で、弟子たちが「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と言っています。これに対し主イエスは、「今ようやく、信じるようになったのか。」と言っておられます。主イエスと行動も生活も共にした弟子たちです。いつも主イエスと一緒にいて主イエスの話を聞いていた弟子たちです。その弟子たちでさえ、主イエスが神のもとから来られた方、救い主であると信じることができなかったのです。ようやく信じることができるようになったのです。「信じます」とはっきり言った弟子たちでしたが、彼らは主イエスを裏切りました。主イエスを見捨てて逃げました。しかし、そのことも、主イエスはお分かりになっていました。実はこれも、弟子たちの訓練であったのです。自分たちは主イエスを裏切った罪人、主イエスを守れなかった弱いものであることを覚えたことが、福音伝道者としての力になったのです。主イエスの言われた通り、聖霊が弁護者として弟子たちを導き、力を与えたのです。

主イエスの弟子、それは、ペトロやヤコブ、ヨハネやアンデレなど主イエスと共に歩んだ12弟子と呼ばれる人々だけではありません。主イエスが神のもとから来たこと、主イエスが救い主であることを信じ、主イエスの道を歩む者、すなわちキリスト者であるわたしたちはすべてが主イエスの弟子です。弱く、罪深く、欠けだらけの弟子です。それでも主イエスは愛してくださっているのです。聖書の言葉は分からない、理解できないことが沢山あります。それでも聖書に聞く者は、信じる者になり、悟ることができる日が来きます。この世の苦難に耐えている者は、いつか必ず救いの喜びに溢れるのです。そのことを主イエスは弟子たちの姿を通して私たちに教えてくださっています。
「わたしは既に世に勝っている」十字架に向かう主イエスの言葉です。既に世に勝っている主イエスを救い主として仰ぐキリスト者であるわたしたちもまた、既に世に勝っているのです。