2017年10月22日 神の国を待つ

(要約) 花婿を婚宴会場に案内する乙女たちのたとえ話です。花婿はイエス・キリスト、婚宴会場は天国です。イエス・キリストがいつ来てもよいように、常に備えなさい、とこのたとえは教えています。

(説教本文) 今日この礼拝のために神が準備してくださった聖書の言葉は、「『十人のおとめ』のたとえ」と呼ばれる主イエスのたとえ話です。たとえ話は、難しくて理解しにくいことを、生活で経験すること、身の回りのことなどよく知っていることにたとえて理解しやすくする主イエスの愛の言葉ですが、イスラエルの習慣を知らないわたしたちには、必ずしも理解しやすい話ではありません。というのも、わたしはかつてこのたとえ話をひどく誤解していたからです。10人のおとめが花婿を待っているというので、わたしはこの10人のおとめが結婚する花嫁さんたちで、 10人の花婿が来るのを待っていたのだ、ユダヤの合同結婚式の話なのだと思っていました。ところが花婿さんたちがなかなか来ないので、一眠りしているうちに花婿が来たため、ランプの油を用意していなかった5人は夜道を歩いていくことができず、合同結婚式の会場に入ることが出きずに結婚しそこなった、という話だと思っていました。

そういう話ではないことに気づいたのは、神学校に入ってからでした。当時のイスラエルの婚宴は夜に盛大に行われたようです。恐らく昼間は仕事をして、夜にお祝いに集まったのでしょう。それも一日ではなく何日も、一週間ほども続いたようです。毎晩ごちそうを飲み食いし、ダンスをし、歌を歌う、というのが結婚祝いの会だったようです。祝宴には特にだれが招かれるというのではなく、親戚友人ばかりでなく、町中、村中の人々が適当に集まって飲み食いし、踊り、歌ったようです。祝宴は花嫁の家で行われ、毎晩花婿が花嫁の家に来るのですが、花婿を出迎えて案内するのは、花嫁の友人たちでした。そうです、10人のおとめたちは花嫁ではなく、花嫁の友人たち、花婿を出迎え、婚宴会場の花嫁の家に案内する係だったのです。

花婿の案内係だった10人のおとめは、夜道を案内するためにランプをもっていました。アラジンの魔法のランプに出てくるようなランプです。ティーポットのような形をしていて、先端の穴に芯を差し込み、そこに火を灯します。油はたぶんオリーブオイルです。オリーブオイルは食用であり、薬としても、また神殿における儀式にも用いられましたので、決して安いものではありませんでした。5人のおとめは、花婿がいつ来るかわからないので念のため予備の油をもっていましたが、ほかの5人のおとめは、花婿がすぐに来るだろうと思って予備の油を持っていなかったのです。その晩は花婿の到着がかなり遅れました。仕事が忙しかったのでしょうか。なかなか来ないので、おとめたちは眠くなってしまいました。おとめたちは夜明けとともに起き出して働いていたのでしょう。婚宴の料理造りも彼女らがしたのかも知れません。眠くなるのも無理はありません。しばらく眠っていると、「花婿が来たぞ。迎えに出なさい。」と大きな声が聞こえ、おとめたちは目を覚ましました。それぞれのランプに火をつけたのですが、待っている時間が長かったので、油がだいぶ少なくなっていました。予備の油を準備していた5人のおとめたちは持っていた油をランプに注ぎましたが、油を用意していなかったおとめたちのランプは消えそうになりました。そこで油を分けてもらおうとしたのですが、分けるほどの予備の油はもっていませんと断られてしまったのです。仕方なしに油屋に買いに行っている間に花婿が到着し、火の灯ったランプをもった5人のおとめは花婿を案内して花嫁の家に行き、全員が家に入ると扉が閉められたのです。油を買いに行った5人は遅れて花嫁の家に到着しましたが、扉は閉められています。ドンドンドン、ご主人様、ご主人様、扉を開けてください。わたしたちです。花婿の案内のお役目の者たちです。花婿の到着が遅かったので油を買いに行っていたのです。しかし、閉められた扉が開くことはなかったのです。

たとえ話ですから、はてな?と思うところもあるかもしれません。またご主人の言葉「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」は少しひどすぎるのではないか、などと思われるかもしれません。しかし、これはたとえ話です。天の国のたとえ話です。たとえによって何を言いたいかを明確にするための話の工夫もあります。

このたとえ話で登場する人たちはだれを例えているか確認していきましょう。10人のおとめたちはわたしたちです。だれが予備の油を用意していた賢いおとめか、だれが予備の油を用意していなかった愚かなおとめか、それは自分で考えましょう。誰にも賢いおとめの面もあれば、愚かなおとめの面もあるのではないでしょうか。花婿は主イエス・キリストです。それも復活されて天に戻られた主イエス・キリストです。「花婿が来たぞ」と叫ぶ人は預言者でしょう。そして遅れてきたおとめたちを締め出し、「お前たちのことを知らない」といったご主人とは花婿の父、主イエス・キリストの父である神様でしょう。ご主人様を主イエス・キリストとしてもよさそうです。主イエス・キリストは神と同格であり、天の国の主人でもあるからです。イエス様が「お前たちのことを知らない」などと冷たい言葉を口にされたことを驚かれるかも知れません。そう、神様・イエス様は大変に優しい方ですが、厳しい面もお持ちであることを忘れてはなりません。今日のたとえもそうですが、22章の婚宴のたとえでも、招きに応じない人々に怒る神の姿が描かれています。

マタイによる福音書には、復活して神の元に帰られた主イエス・キリストがふたたび地上の世界に来る、いわゆるキリストの再臨に対する主イエスの言葉が何度も書き記されています。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」(マタイ16:27) 「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来る」(マタイ24:27) 「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ24:30) 何度も書き記されていると言うことは、それがとてもたいせつなことだからです。

 主イエスが十字架で死んだとき、主イエスに従っていた人々はことごとく主イエスの元から逃げ去ってしまいました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言ったペトロも逃げ去りました。主イエスの十字架の死によって、主イエスに従って神の国を実現する望みを失ってしまったのです。しかし、主イエスの復活によって彼らは再び主イエスと共に歩む希望を与えられました。それもつかの間、主イエスは天に昇り、神の元に帰ってしまわれたのです。呆然としてイエスが去って行かれた天を見上げている弟子たちに天使が告げました。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」主イエスが、またお出でになるという天使の言葉に励まされて弟子たちは力強く福音を語り、福音を聞いた多くの人々がキリストを信じるようになり、キリスト信仰は急速に世界へと広がっていきました。しかし福音書の書かれた時代は、キリスト者への迫害の嵐が吹き荒れていた時代でした。激しい迫害の中でキリスト者たちは、そのうち主イエスが天から再び地上に戻って来られて、力を振るってくださり、自分たちを救ってくださると信じ、その信仰によって生きていました。主イエスは今日来てくださるのだろうか、今日は来てくださらなかったが、明日には来てくださるのだろうか、と首を長くして待っていました。しかし、何日待っても、何週間待って、何か月、何年待っても主イエスは来て下さらない。そうしているうちに、もう主イエスは来て下さらないのではないだろうか、主イエスのお約束は、何かの間違いだったのではないだろうかという思いがキリスト者の中に芽生え始めたのです。キリスト教信仰の大きな危機でした。福音書をまとめたマタイがいた教会でも同様な思いが人々の心を犯し始めていたのです。マタイはそのことに大きな危機感を覚え、あきらめてはいけない、主イエスは必ず来てくださる、しかし、いつ来てくださるかは、わたしたちの知るところではないと人々に伝えたのです。そのことを話された主イエスの言葉を集め、福音書にまとめたのです。だからなんどのキリスト再臨のことが書き記されているのです。

キリストは必ずもう一度来てくださる。しかし、いつ来られるかはわからない。いつ来てくださってもよいように常に備えておきなさい。マタイは、今日の「十人のおとめ」のたとえを含め、主イエスの再臨に対する多くのたとえ話を福音書に収めました。小見出しだけ紹介しておくと「いちじくの木の教え」「目を覚ましていなさい」「忠実な僕と悪い僕」「十人のおとめのたとえ」「タラントンのたとえ」「すべての民族を裁く」です。たとえ話を通して、主イエスが来られる時は誰にもわからない、しかし主イエスは必ず来られる。突然来られる。だからいつ来られてもよいように目を覚まし、備えておきなさい。主イエスが来られるまで、ただ何となく待つのではなく、各自に与えられた地上での役割を愛によって行いなさい。主イエス・キリストの再臨を待つキリスト者がどのように生きるべきか、人々に主イエスの言葉を示し、道を示したのです。

先ほど主イエスは大変に優しい方であると同時に、大変厳しい面を持っておられると話しました。主イエスはわたしたちがひとりも滅びずに天の国に入り、永遠の命に与ることを望んでおられます。全ての人を神の国へお招きくださっています。また、神の国に入れるようにと神に執り成しをしてくださいます。主イエスのこの愛の業にもかかわらず私たちが逆らい続けるとしたら、ではもう知らない、勝手にしなさいと主イエスにいわれても仕方がないのではないでしょうか。愛の主イエスはそのような冷たい心の持ち主ではない、どんなにわたしたちが反抗しても、主イエスは必ず私たちを天の国に入れてくださるなどと、わたしたちに言える資格はありません。それを言うことはわたしたちの傲慢です。常に備えておきなさい、目を覚ましておきなさいと言われているのに、備えず、目を閉じていれば、主イエスが来られたことに気づかず、あるいは主イエスが来られても備えがないために主イエスと共に行くことができない。気がついてあわてても、すでに天国の門は閉められて、イエス様、イエス様、開けてください、神様に執り成して下さいと門の外からいくら叫んでも叩いても門は開けられず、あなたのことはもう知らないと言われても、文句の言いようもないのです。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」主イエスがいつ来られてもよいように、怠りなく備えて、与えられた人生の道のりを天の国を目指して歩みましょう。ひとりも滅びずに永遠の命を与えていただきましょう。