2024年4月28日 平和の道具として 小田哲郎伝道師

(要約)歴史の中で、権力や体制に反対したときに教会は迫害を受けてきました。迫害を恐れ迎合する過ちも教会は犯してきました。私たちの教会がキリストの御言葉に固く立てるようイエスは助け主である聖霊を送る約束をしてくれます。

(説教本文)ヨハネによる福音書15章18-27節

 パレスチナでの戦争、ハマスがイスラエルに攻撃をしかけてそれへの報復として始まったガザ地区でのジェノサイド民族虐殺とも言えるイスラエル軍の侵攻と病院を含む民間施設の破壊がもう半年以上続いています。4月1日にはイスラエルがシリアのイラン大使館領事部を空爆し、その報復としてイランは14日に本土からのイスラエルへのミサイル攻撃をし、また先週にはイスラエルがイランへの攻撃をしかけるという応酬が続き、一気に緊張が高まりました。中東でユダヤ教、キリスト教、イスラム教の兄弟宗教とも言える宗教の聖地において憎しみの連鎖が断ち切れないことは、本当に悲しいことです。イランはアラブではなくペルシャです。ペルシャ帝国はかつてバビロン、今のイラクに捕囚されていたユダヤの人々を解放し、そのペルシャ帝国のキュロス王は救世主と呼ばれたという歴史を持っています。今のイランはイスラム原理主義革命によって、アメリカを敵国としアメリカを後ろ盾とするイスラエルを敵国としていますが、お互いを悪の枢軸、大悪魔と言って非難しあいますが、それ以前は、イランのパーレビー国王時代には友好関係にあった国です。これは単に宗教的な争いと言えるのでしょうか?
 今はまるでユダヤ教とイスラム教の争いのように思われていますが、過去にはキリスト教徒もユダヤ教徒への憎悪をもちユダヤ人を迫害した歴史があります。それは第二次世界大戦でのアウシュビッツでのユダヤ人虐殺で頂点となりました。しかし、本来の福音主義的なキリスト教ではなく、ドイツ的キリスト者というヒトラー政権によって権力に加担しキリスト教の非ユダヤ化をすすめる、キリストの十字架の神学を忘れ、栄光の神学を掲げる教会によるものでした。
 
 本日の聖書箇所ヨハネによる福音書の15章18-27節には「憎む」「迫害」という言葉が並んでいます。この福音書が書かれた時代のヨハネの教会はユダヤ人からの迫害に遭っていたと言われます。ナザレのイエスを主とするグループがユダヤ教の一派とみられていたのが、ユダヤ教のラビによって異端だと認定されて、異端は呪われよと祈祷に加えられたといいます。
 日本でもキリスト教禁教令が出てからの迫害は、潜伏キリシタンを生み出しました。また、太平洋戦争中に天皇を現人神として崇拝することを拒否し、その再臨信仰が不敬罪にあとるとしてホーリネス派の牧師たちが逮捕され牢に入れられていました。ホーリネス弾圧です。
 現代でもオープンドアーズという国際的なキリスト教迫害監視団体の発表によれば世界のクリスチャン人口の7人に一人が迫害を受け、アフリカでは5人に一人、アジアでは5人に二人が迫害を受けているとの現状を報告しています。特に教会などへの襲撃が急増し、2023年時点で14,766の教会や施設が攻撃をうけたとされ、死者数は4,988人、4,125人が投獄されたと言います。私はタイに住んでいる時に、多くのパキスタン人クリスチャンがバンコクに来て、難民申請をし教会に助けを求めてきていました。日本語教会にもパキスタンでは牧師だったという方が来てイスラム教国パキスタンでのキリスト教徒迫害のお話を聞きました。また、イラン人でかつて日本で働いていて日本語を理解する人がやはりタイに逃れてきて私たちの礼拝に出ていたこともあります。イランではイスラム教からキリスト教への改宗は死刑とされるため家の教会と呼ばれる地下教会で洗礼をうけた彼も見つかれば死刑になるというのです。現代でもそのようなことが世界のあちこちで起こっています。
 
 さて、このイエスが弟子たちに迫害の予告をしたのは最後の晩餐の後、ヨハネの福音書では弟子たちの足を洗った、その後に語られたいわゆる告別説教の中でのことでした。15章20節で「僕が主人にまさりはしない」と、私が言った言葉を思い出しなさい。というのは、13章にある弟子の足を洗った後に「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合うべきである」と言った後のことば、13章16節「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」というところを指しています。
 なぜ弟子たちが迫害されるかというと、その理由は、まず人々がイエスを迫害するからです。主であるイエスを迫害するから僕である弟子たちも迫害する。これは18節でも世があなたがたを憎む前に私を憎んでいたということを覚えなさいと言っていることに繋がります。イエスはご自分が十字架に向かって歩んでいるのを知っています。ガリラヤにいるときにもファリサイ派から挑戦を受け、そしてエルサレムに上ってきては祭司長や律法学者たちから明らかな敵意を向けられていました。「世があなたがたを憎むなら」という時の世とは、この世界のことです。神に敵対すイエスを憎む人間のことです。当時のユダヤ人指導者たち、またヨハネの教会につどうクリスチャンをユダヤ教の会堂から追い出し、迫害した人々のことを指しています。実はそれは、ある意味普通の人々だったのかもしれません。ローマ帝国での迫害も、歴史家の指摘するところによると皇帝が迫害命令を出したということではなく、一般民衆の憎悪の叫び、ローマ皇帝を崇拝しないためではなく民衆が信仰している神々を拝まないキリスト者がいるため自分たちが神々の怒りをかって天変地異が起こるという不安から、キリスト教徒迫害へと繋がったといいます。
 
 ホーリネス教会、当時は日本基督教団の旧6部9部の教職者たち100人近くが一斉検挙された時に、日本基督教団の主流派の人たちは政府・軍部・特高警察に逆らってこの牧師たちを助けるのではなく、世におもねって牧師たちを見捨てたのです。「信徒の友」2月号にホーリネス弾圧があった時という記事に日本聖書神学校の理事でもある高橋信夫さんという方がホーリネス教会の牧師であった祖父高橋俊三牧師が逮捕され家族がどのような目に遭ったかを書いてくださっています。今は日本基督教団の教会員になっていらっしゃいますが、親戚の中には何であの時見捨てた教団の教会の世話になるかという人もいるということです。「教団に見捨てられて」という小見出しには、「6部と9部(ホーリネス系の教会)の教師が一斉に検挙された時、日本基督教団は全ての教会に対し、「事態を静観し、デマに惑わされず、ますます天皇に忠誠を励むように」と促した。(中略)弾圧が全体に及ぶことを恐れた教団が、6部9部の教師および教会員・教会を見捨てたのだと思いました。とあります。当時の日本基督教団は軍部・政府によって各教派の教会が一つの教団に合同させられ、そして戦争に協力させられました。日曜学校でも戦闘機を奉献するために献金をしたのです。それが正しいことだと教えたのです。
 
 キリストの弟子が迫害される理由は、世に属していないからだとイエスは言います。イエスは「わたしがあなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである」といいます。高橋俊三牧師はじめ逮捕されたホーリネス教会の牧師たちはキリストからの召命があり、世から選び出され世には迎合しない者として迫害を受けたのです。
 
 さらにイエスは迫害される3つめの理由を述べます。迫害している彼らは、イエスを遣わした父なる神を知らないからだといいます。もし、これがイエスを十字架刑に追い込んだユダヤ人の指導者である祭司長や律法学者、ファリサイ派たちであったなら、彼らが父なる神を知らないということがあるでしょうか?しかし、当時ローマ帝国の支配下にあっても一定の権力を持っていた、ローマ帝国を心では憎んでいてもおいしい思いもしていたとしたら、それを脅かすイエスを殺してしまう方が自分たちの地位を保てるのです。時の大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と助言したのです。誰にとって好都合なのでしょうか。ホーリネス弾圧の時の日本基督教団の幹部たちも同じような心境だったのかもしれません。教団全体を守るためには、ホーリネスの牧師たちが逮捕されるほうが好都合だと。
 あれは戦時中のことだと思われるかもしれませんが、私たちは負の歴史を背負っているからこそ、もう一度この聖書の言葉に正しく導かれなければなりません。ドイツの教会も大多数がヒットラー政権に迎合して、ユダヤ人虐殺を肯定する神学を勝手に創り出しました。それでも国家の都合によって創り出されたドイツ的キリスト者の国内の教会を監督のもとに統一しようとする運動に否をつきつけた牧師たちは告白教会として抵抗します。いわゆるドイツ教会闘争です。ブルーダーの「嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語」という小さな本には農村の小さな山の上の教会が礼拝の中で、聖書研究のなかで御言葉を聞き、その福音に従い、国家権力の福音を骨抜きにして教会を取り込もうとする力に抵抗する姿を描きます。この本の中で村の若い牧師は、教会はこのようなものだと語ります。「教会がそのように助けもなく、力もないままに、まさにその弱さにおいてこそ、この地上のでなお神様の約束を十分に持っているということ、それをこの世は理解することができません。しかしそれは、この世を躓かせるだけではありません。この世の良心を叩き、この世が力をもって遂行しようとする計画を挫折させ、この世が企てることがむなしいものだということを鋭く想起せしめるのです。(中略)この世は憎しみと権力に満ち、残酷と抑圧に満ちています。そこで教会は唯一の救いの言葉を口にします。つまり、教会は神の愛を宣べ伝えるのです。
 この世は、地上に天国を創り出そうという途方もない企てでいっぱいです。しばしば非常に厳しい抑圧や強制をもって遂行されるところの偉大な計画や理想、それらはすべて私たちにますます困窮と隷従を、人間や組織や富やその他いろいろな権力による隷従をもたらします。そういう事態の中で教会は唯一の望みを、つまり神の国を宣べ伝えるのです。しかし、教会が真理を口にするとき、教会が人間の無力さを余さずあらわにするとき、それをこの世は我慢できなくなって、教会を迫害し、必ず根絶やしにしてしまおうとするのです。それはちょうど、キリストが真理であられたために迫害を受け、殺されたのと同じです。イエスは、「僕はその主人にまさることはない。もし人々が私を迫害したなら、あなた方をも迫害するであろうと言われたことがあります。
 迫害を恐れてはなりません。ただ神さまだけを恐れるときには、私たちは迫害を甘んじて受けることができるでしょう。私たちがこの世から借りて使っている棒を捨てる時、その時にこそ主が私たちの棒となり杖となられます。そしてその時、私たちが教会となるのです。」
 迫害を受けようともなお、福音に固く立ち主にのみ信頼するとき、教会が教会になるというのです。
 
 これはイエスを十字架にかけた迫害、ヨハネの教会が経験した迫害だけでなく、また日本の戦時中の特殊な状況だと済ますわけにはいきません。また現代の世界で起こっている迫害があるということを第三者的に傍観するわけにもいきません。今パレスチナ中東で起こっていること、ウクライナとロシアが戦っていることを、私たちも経験するかもしれません。この東アジアでも近い将来に朝鮮半島、大陸中国と台湾の緊張が更に高まり日本の再軍備拡大が当然のことと受け入れられ、世論は憲法改正し軍事力をもって東アジア地域の安定を保つという風になるやもしれません。そんなとき、力に頼るのではなく神に頼れと私たちは言い続けることができるでしょうか?教会が教会として立っていられるでしょうか?そんなことを声高に言うと、非国民だと言われる時代、知らぬ間に戦争協力への道、経済安全保障という名で身辺調査されるような時代が近づいてきているように思えます。
  
 そんな中でも私たちがキリストの弟子として歩めるように、弁護者と呼ぶ聖霊を父なる神のもとから送ってくださる約束をするのです。イエス・キリストが十字架にかかり復活したことによってこの世界はすでに新しい世界へと変わり始めていることを証しします。お互い憎み合い、報復の応酬をしていた人間が、新しい人間となり、神が本来望んでいた世界へと新しく作り変えられるという希望を私たちに語らせてくださる。そして、すでに信じて新しくされた人間として、世には憎まれても、この世界に和解を、壊れた世界を修復する者、平和を創り出す者として歩むのです。世からは憎まれるかもしれません、しかし主イエス・キリストは真理の霊を送り、力づけてくださいます。
 
 私たちは、嵐の中の教会のようにこの世の企てにのらず、真理を口にし、唯一の望みである神の国を宣べ伝えるとき、本当の教会となるのです。私たちはこの世の憎しみに憎しみでもって応酬しません。武器をとらず神の武具を身につけろとパウロもいいます。
 エフェソの手紙では「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 おその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」とパウロは呼びかけます。
 たとえ憎まれ、迫害を受けたとしても、平和の福音を宣べて教会として立つのです。歴史の過ちから学び、支配と権威、暗闇の世界の支配者に抵抗し、民族のちがい、宗教の違いをも超えて平和を創り出すものとなるために私たちはイエスによって選ばれ世から呼び出された者であることを覚えましょう。