2023年12月24日 喜べ、主が来られる 吉岡喜人牧師

(要約)私たちがクリスマスを喜び祝うのは、わたしたちが救われることが確かになったからです。クリスマスの本当の意味は、十字架によって私たちを罪の泥沼から救い出す神の愛が実現したからです。

(説教本文)ゼカリヤ書2章14—17節
クリスマスの日が来ました。教会歴では今日はまだ待降節第4主日ですが、クリスマス主日礼拝として救い主イエス・キリストをこの世にお迎えする喜びと感謝に溢れた礼拝になりますように、こころを込めて礼拝しましょう。

世界中で祝われるクリスマスですが、日本にもすっかり定着しています。町のあちらこちらにクリスマス・ツリーが飾られ、豪華なイルミネーションが夜の街で真昼のように輝いています。こどもたちはサンタクロースのプレゼントを楽しみにし、親たちは何をプレゼントしようかと迷っています。多くの家庭ではクリスマス・ディナーということでご馳走を食べ、食後にはケーキを食べるのでしょう。このように多くの人たちがクリスマスを祝うことは嬉しいことです。でも残念なことにほとんどの人はクリスマスの本当の意味を知って祝ってはいません。クリスマスをサンタクロースの誕生日だと思っている人がかなりいると言う話を聞いたこともあります。よくわからないけれどクリスマスにはご馳走とクリスマスケーキを食べることになっていると思っている人もいます。クリスマス・ツリーもサンタクロースもご馳走もケーキもイルミネーションも、その本来の意味を知ってお祝いして欲しいものですね。そうすれば、もっと喜びに溢れたクリスマスになるでしょう。

わたしたちは本当のクリスマスの意味を知っているつもりですが、この機会にクリスマスの本当の意味、深い意味を再確認しておきたいと思います。
クリスマスのクリスはキリストすなわち救い主、マスは祭・礼拝ですから、クリスマスの正しい意味は、救い主を礼拝する日です。救い主の誕生に感謝して祝うのがクリスマスですから救いが中心にあるのは当然のことですが、意外とクリスマスに救いのことを正面から取り組むことは少ないのではないでしょうか。

わたしたち人間は、いろいろなことで悩み苦しみます。人間が他の動物たちと異なることは、肉体的な苦しみに加えて精神的な苦しみ、こころの苦しみ、悩みがあることです。
わたしたちは、多くの悩みを持っています。悩みのない人はまずいないでしょう。悩むことは人間であることの証であるとはいえ、悩みはわたしたちを苦しめ、生きる力を失わせさえします。
苦しみの一つである病気は第一には肉体的な苦しみですが、同時に精神的な苦しみや痛みを覚えます。特に病気が長期に及んだり、治療の見込みがない病気であれば、肉体的苦しみ以上に大きな精神的な苦しみがのしかかります。本人はもちろん、本人以外の家族や友人などにもこころの苦しみをもたらします。聖書には病気の人、障がいを持った人を主イエスが癒されたエピソードが沢山書かれています。彼らは病気であることで家族からも地域社会からも疎外され、こころの苦しみの中で生きていました。12年間出血が止まらなかった女の人は、希望を失い、生きる力を失いかけていました。彼女がなんとしても癒されたいと思って主イエスの衣に触れた時、主イエスは自分から力が出ていくのを感じました。それは、この女性が主イエスから生きる力を主イエスから与えられたということではないでしょうか。主イエスはこの女性に言われました。「あなたの信仰があなたを救った。」わたしたち人間は病そのものが癒されて健康になることも大切ですが、こころの健康を取り戻すことも大切です。場合によっては肉体的な癒し以上に、こころの癒しが大切になります。心が癒された時、多くの人たちが「ああ、救われた」と口にするのです。

精神的な苦しみ、悩みよりさらに深く重い苦しみが霊的な苦しみです。自分の生きる意味が分からなくなったり、社会から疎外され、生きている価値がないと思う時、わたしたちは生きる力を失います。肉体が健康であっても、生きる力を失うのが私たち人間です。人間だからこそ悩み苦しむのです。
霊的な苦しみを取り除いたり、乗り越えたりすることは、霊的な力でなくてはできません。イエス・キリストは、生きる力を失いかけているわたしたちに生きる力を与えてくださいました。主イエスはわたしたちを死の泥沼から引き上げてくださる方、わたしたちを救い上げてくださる方です。それは主イエスが神の子であり、霊の力に溢れていたからです。いまのわたしたちには聖霊の力が働いてくださっています。そして、いつか、主イエスご自身が再び来られて、わたしたちを救い上げてくださるのです。

わたしたち人間の苦しみは、エデンの園で神様との約束を破った時に始まりました。神様は、わたしたちに反省を促すために様々な試練を与えました。試練と同時に、試練に耐える力も与えてくださいました。神様は、生きることが困難で地上で苦しみ悩むわたしたち人間に、なんども呼び戻す声をかけてくださいました。「わたしに立ち帰れ、もう一度わたしの民になれ。」と預言者を通して、なんども呼び掛けてくださいました。しかし、神様の声を聞いても、人間は神に立ち帰ろうとはしませんでした。それでも神様は、人間をお見捨てになりません。なぜなら、神様は最も心を込めてお造りなったわたしたち人間を愛しておられるからです。

人は見捨てられたと思う時、生きる力を失います。見捨てられるかも知れないと思うだけでも力を失います。
東日本大震災の時、日本中、世界中の目が被災地、被災者に向けられました。多くの支援が寄せられました。被災した人々は、自分たちに向けられた眼差しから力を与えられて生き続け、復興へと立ち向かいました。しかし、数年経つと向けられていた目が少なくなって行きました。被災地の人たちは、自分たちのことが忘れられてしまうことが一番つらいと言っています。アフガニスタンもそうです、ウクライナもそうです、パレスチナもそうです。ガザのハマスが戦争のきっかけとなった人質事件は決して赦されることではありませんが、世界にパレスチナのことを忘れないでほしい、自分たちを見捨てないで欲しい、という願いも動機のひとつだったと言われています。

人から見捨てられることでも辛いのに、まして神様から見捨てられることには耐えがたい苦しみがあります。神様から見捨てられれば、わたしたち人間は生きる力を完全に失い、地上の世界を歩むことが出来なくなるだけでなく、神の国に入る望みも失われてしまいます。
十字架の上で主イエスは叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」十字架刑という残酷な刑によって耐えがたい肉体的な苦痛の中にいた主イエスですが、肉体の苦痛以上に耐えがたかったのは、神から見捨てられたのではないかという思いでした。しかし、神はお見捨てになったのではありませんでした。

「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て あなたのただ中に住まう」ゼカリヤを通して語られた神の言葉が世界に響き渡りました。神様ご自身が人としてわたしたちのところに来てくださることを決意されたのです。人間が滅びることに耐えがたい悲しみを覚えられる神様は、わたしたちをお見捨てになさらず、わたしたちと同じ人間となってわたしたちの間に住み、そして罪を負って十字架にかかり、わたしたちを滅びから救い出してくださったのです。わたしたちを滅びから救い出したいという神様の無限の愛が形となった出来事、それがクリスマスです。