2024年3月31日(復活日・イースター)わたしは主を見ました 吉岡喜人牧師

(要約)日曜日の朝早く、マリアは主イエスを納めた墓に行きました。しかし、主イエスはそこにおられませんでした。マリアは、墓の中に目を向けて、死んだ主イエスを捜しました。主イエスはマリアの視線の向きを未来へと変えてくださったのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書20章1-18節

灰の水曜日から日曜日を除く40日間の受難節を経て、今日、わたしたちは復活日・イースターを迎えました。小田伝道師が主日礼拝の説教の中で、受難節には好きなことを一つ我慢して、主イエスの受難を覚えながらこの時を過ごすというヨーロッパの習慣のことをお話しになりました。実際にやってみると、40日はとても長く感じます。受難節の40日という日々は、とても長く感じられます。しかし、わずか数日がとても長く感じられることがあります。
主イエスが十字架の上で死に、墓に葬られたのは金曜日の夕方でした。日没になり、土曜日・安息日になりました。安息日には、仕事をすることはもちろん、自由に歩き回ることもできません。マリアは、主イエスの墓に行きたくてしかたありませんでした。突然逮捕され、十字架刑に処せられ、安息日を前にして大急ぎで墓に納められた主イエスです。マリアは、もっと丁寧に主イエスを葬りたかったのです。主イエスの体に塗る香油を用意して、時が経つのを待ちました。二回の夜でしたが、マリアにとっては無限の長さに感じられました。

 この人はマグダラのマリアと呼ばれている人でした。彼女は、主イエスから7つの悪霊を追い出していただき、救われて新しい人生を歩んでいました。自分を救ってくださった主イエスのために働きたいと、主イエスに従った女性たちの一人となりました。主イエスに従うことが、彼女の生きがいになっていました。その主イエスが、突然死んでしまったのです。主イエスという生きがいを失いました。マリアは、これからは主イエスの遺体を守って生きて行こう、それが主イエスに従った自分の務めと思っていたのでしょう。そのためにもまず主イエスを丁寧に弔いたい。遺体に香油を塗って差し上げたい、その思いで心がいっぱいでした。イエス様、お待ちください、安息日が終わったらすぐに行きますから、そのような思いで安息日を過ごしていたのです。土曜日の日没となって安息日が明けましたが、日没後は城門が閉じられてしまいます。日曜日の朝を待たなければなりません。朝はまだか、まだ明るくならないかとマリアは待ち続けました。

 日曜日の朝になりました。マリアは夜が明ける前に家を出て、城門の前で待ちました。日の出になり、城門が開けられました。夜明け直後の薄暗い道をマリアは大急ぎで墓に向かいました。墓についてみると、入り口に積み上げられていた石が取りのけられているではありませんか。大変なことが起った、主イエスのご遺体が盗まれたのだ、すぐに弟子たちに知らせなくては! マリアは、大急ぎ来た道を引き返し、ペトロともう一人の弟子にそのことを告げました。「(大変です)主が墓から取り去られました。」ペトロともう一人の弟子は急いで墓に向かいました。墓に着くと、確かに入口の石が取りのけられています。墓の中に入ると、主イエスの遺体を包んであった白い亜麻布が丸めておいてあるのが見えました。たしかにマリアの言った通りでした。墓の中に主イエスの体は見当たりませんでした。不思議に思いながらも、2人は家に戻って行きました。墓にはマリア一人が残されました。

 マリアはあまりの出来事に驚き、悲しみ、泣いていました。主イエスは本当にいないのだろうか、泣きながら墓の中を見ると、天使がいるではありませんか。マリアは驚きました。天使はマリアに言いました。「なぜ泣いているのか。」マリアは答えました。「わたしの主が取り去られたのです。」マリアが天使と話をしていると、背後に人の気配がします。マリアが振り返ると、男の人がいました。マリアは尋ねました。「もしあなたが遺体を運んだのであれば、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」マリアはこの人が墓の管理人だと思ったのです。ところがその人は「マリア」と自分の名前を呼んだのです。その声を聞いた途端、マリアの目が開き、主イエスの姿が見えました。「先生!」マリアは喜びの声を挙げました。主イエスはすがりつこうとしたマリアを制して言われました。「さあ、わたしの兄弟たちのところに行って、このことを知らせなさい。」マリアは大急ぎで弟子たちのところに行って告げました。「わたしは主を見ました!」

 なぜ、マリアは主イエスを見ながらも、その人が主イエスだと思わず、墓の管理人に見えたのでしょう。マリアが、墓の中ばかり見ていたからです。主イエスに従うことが生きがいだったマリアにとって、主イエスの死はあまりにも大きな衝撃でした。生きる望みを失いました。主イエスの死によって、自分の人生も終わったと思っていました。未来を見ることができず、過去のことばかりに目が向いていました。主イエスは死んだ、しかも墓の中から取り去られた、なんとか主イエスを取り戻したい、マリアは主イエスの遺体を捜すことに心を奪われていました。遺体を取り戻すことが、今、自分が行うべきことだと思っていました。主イエスが死んだという過去のことにしか目が向いていなかったのです。
 そのマリアの視線を、主イエスは墓から反対方向に向けてくださったのです。死の世界に向いていた視線を、生の世界へと向きを変えてくださったのです。復活された主イエスに会ったことにより、主イエスのご遺体と共に死の世界を歩もうとしていたマリアは、主イエスの呼びかけによって向きを変え、復活した主と共に未来に向かって歩き始めたのです。

 その後、主イエスは弟子たちのところにお出でになりました。エマオに向かっていた2人の弟子たちは、歩きながら主イエスと話をしていましたが、その人が主イエスとはわかりませんでした。彼らがその人が主イエスだとわかったのは、夕食の時でした。主イエスが食前感謝の祈りをしてパンを裂いた時、彼らの目が開かれたのです。

 12弟子が集まっているとき、主イエスは姿を現されました。もちろん、空の墓を見たペトロともうひとりの弟子もいました。他の弟子たちもマリアから「わたしは主をみました」という報告を受けていました。主イエスが釘を打たれた手足の傷と槍で突かれたわき腹の傷をお見せになると、彼らはその人が主イエスであるとわかって喜びました。そのとき居合わせなかったトマスに他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」というと、トマスは言いました。「わたしは確かな証拠を見なければ、決して信じない。」翌週、再び主イエスが弟子たちのところに現れたとき、主イエスはトマスにご自分の手の傷とわき腹の傷を触らせました。そして、トマスに言いました。「見ないで信じる者は、幸いである。」

 今日の聖書個所に登場した人々は、私たちひとりひとりの姿です。復活された主イエスの姿は、なかなか見えません。主イエスの姿は見えるのではないのです。見るのです。主イエスが復活されたことを信じて見るのです。主イエスは復活されました。今も、わたしたちひとりひとりの名前を呼んで声をかけておられます。その声にお応えして、「わたしは主を見ました」と言える日が必ず来ることを信じ、これからもキリスト者として信仰を深める日々でありますように。