2017年11月5日 何が人を汚すのか

(要約)日本の習慣でもユダヤの習慣でも死体は汚れていると考えてきました。またユダヤでは食物にも浄不浄がありました。しかし、本当に人を汚すものは・・・

(説教本文)
今日の聖書箇所、マルコによる福音書7章14節以下で主イエスは「汚れ」ということについて人々に、さらにまた弟子たちに教えています。主イエスが汚れについてお教えになった原因が、7章1節以下に書かれていますので、まずそこのところを読んでみましょう。

(マルコ7:1~13)
 
わたしたちも食事の前に手を洗います。フィッシャー幼稚園でも食事の前はもちろん、園庭で遊んだ後、トイレの後などは必ず手を洗うように指導しています。なぜ手を洗うのか。言うまでもなく手の汚れを落とし、手についているであろう病原菌やビールスを洗い流すためですね。手についた病原菌やビールスを食べものと一緒に体に入れないようにして、病気になることを予防する目的で手を洗うのですね。ユダヤ教では食事の前に手を洗うことにもうひとつの意味を付け加えました。食べ物は神様が与えてくださるものであるから、きれいな手、清い手で受け取らなくてはならないということです。食事の前に手を洗うこの2つの理由、現実的な理由と宗教的な理由はとても明確で、誰も異論はないでしょう。

 ある日のことです。主イエスと弟子たちは食事を始めました。ところが弟子たちの何人かが手を洗わないで食事を始めました。恐らく人々に話をした広場か丘での食事だったのでしょう。用意のあるものは水筒の水で手を洗ったのでしょうが、水筒を持ち合わせていなかった、あるいは手を洗うほどの水が残っていなかった、などの事情で手洗いを省いて食事を始めたのでしょう。わたしも手を洗わずに食事を始めることはよくあることですし、そのことにそれほど罪悪感を持ったことはありません。しかし、主イエスの弟子たちが手を洗わずに食事を始めた様子を見つけたファリサイ派の人々、律法学者たちが主イエスに言いました、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」質問の形をとっていますが、明らかに主イエスを非難し、人々の心を主イエスから引き離そうとする悪意のある言葉です。それに対して主イエスは、人間の言い伝えも大切かもしれないが、それ以上に大切なのは神の掟である、あなたがたは人間の言い伝えを頑なに守ることで、神の掟をないがしろにしていると言われたのです。主イエスの話を聞くために、また主イエスに癒しを求めて集まっていた人々は、主イエスとファリサイ派・律法学者との話の成り行きを心配そうに見ていたでしょう。ファリサイ派の人々と律法学者がいなくなると、主イエスは、これをよい機会ととらえて、人々に「何が人を汚すのか」について教えたのです。 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 「外から人の体に入るもの」と言えばまずは食べ物ですが、主イエスの言葉を聞いた人々は、あれ?と思ったでしょう。少なくとも弟子たちには、意外なこととして聞こえたに違いありません。律法には人を汚す食べ物のことが重要な掟として書かれたおり、自分たちもそれを守って来たのに、イエス様は一体何を言おうとされているのだろうか、と思ったでしょう。

人々に話をされた後、主イエスは弟子たちの求めに応じて、再度弟子たちに話をされました。このとき主イエスは、理解の悪い弟子たちに少し腹をお立てになったようです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。」人の口から腹に入ったものは、やがて出て行くではないか。汚れたものであっても、体から出て行ってしまえば清められたことになるではないか。だから口から体に入るもの、人の外から体に入るもので人は汚れない。では何が人を汚すのか。それは、あなたがたの心から口や体を通して外に出て行くものが人を汚すのだ。
弟子たちは、主イエスの言葉をすぐには理解できなかったのではないでしょうか。彼らもユダヤ教の中で育ってきました。当然こどものころからレビ記に従った生活をしていたはずです。主イエスがなにを言おうとされているのか、すぐには理解できなかったでしょう。

 汚れの問題はユダヤ教徒にとっては大きな問題でした。人が汚れるとは神から嫌われることであり、神から嫌われると言うことは、ユダヤ教によって結ばれた共同体から排除されることになるからです。
汚れていることと清いことについては、神の共同体が守るべき掟としてレビ記11章以下の数章に渡って詳しく書かれています。レビ記11章には汚れた食べ物と清い食べ物のことが具体的に規定されています。イスラエルの人々は、このレビ記の規定に従って食べてよいものと食べてはいけないものを区別し、汚れているものは食べないばかりか、近づくことも避けていました。

レビ記には食べものの区別だけでなく、汚れを呼ぶ様々な事柄について規定されています。例えば、死骸に触れると人は汚れること、その場合、どのようにして汚れを落とすのかということも規定されています。死骸に触れた者は、その日一日汚れる。ということは、他の人に接することができなくなるということです。着ていた衣服も汚れるので、着ていた服全てを洗わなければなりません。ルカによる福音書に書かれている「善きサマリア人のたとえ」では、盗賊に襲われて死にそうになっていた旅人に対し、祭司とレビ人は道の反対側を通って行った、と書かれています。彼らが怪我をした旅人に関わるのが面倒だったから見捨てたのではありません。彼らは旅人がすでに死んでいると思い、衣服がさわっても汚れるというレビ記の規定によって死骸に触れないように旅人に近づかないようにしたということなのです。彼らは特別に冷たい人々ということではなく、むしろ律法に従う常識的なユダヤ人だったのです。

日本においても死体は汚れたものとされてきました。古くは衛生的なことから、やたらに死体に近づくべきではないということだったのではないかと思いますが、それが慣習化し、今では本当に死体が汚れていると思わなくても、葬儀場から出る時、塩で清めるという習慣は広く行われており、なかなか無視しがたいという人も多いのではないでしょうか。

宗教上の決まりや社会習慣にはそれなりの意味や理由をもった起源があるはずです。しかし、その起源、理由が忘れ去られ、形だけの慣習となると、それを守るか守らないかだけが問題にされるようになります。そして慣習を守らない人を非難したりすることが行われるようになるのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスを律法を守らない弟子たちのリーダーとして非難しました。しかし、彼らは本当の主イエスを見ていませんでした。主イエスは決して律法を無視したり、ないがしろにしたことはありませんでした。律法を大切にしつつ、しかし、律法の規定の起源に遡って神の意志を確認することの大切さを教えたのです。律法は人を押さえつけるためにあるのではなく、むしろ人を自由にするためにあるのだ。律法を制定された神の意志を問うことによって真理か見えてくる、形式的に律法に従うのではなく、神の真理に従え。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者は主イエスの言葉に耳を傾けず、主イエスを非難する口実を探し求めました。そのような彼らには神の心は読めず、律法の真理は見えませんでした。

さて、汚れについて、ファリサイ派の人々や律法学者たちの視点と主イエスの視点には決定的な違いがありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちの外にある汚れたものが自分たちの中に入って来ることで、自分たちが汚れることがよくないことという視点で律法を読んでいました。一方、主イエスは、自分を汚すという視点ではなく、他人を汚すというという視点で律法を読んでいました。弟子たちもユダヤ教の教えの中で育ってきましたから、自分たちが汚れてはいけない、という視点で律法を読んでいました。だから、主イエスが言われたことをなかなか理解できなかったのです。主イエスは弟子たちに言われました。「すべて外から人の体に入るものは、人をけがすことができない。」「人から出て来るものこそ、人を汚す。」自分が汚れるという視点以上に、他人を汚すことに主イエスの視点は置かれていたのです。そのことをなかなか理解できない弟子たちに、主イエスをがっかりさせ、悲しい思いをされたのです。

では、わたしたちは、どうでしょうか。主イエスをがっかりさせてはいないでしょうか。わたしたちもまた主イエスの視点をなかなか持ちえない弟子たちの一人なのではないでしょうか。ことによると、ファリサイ派の人々や律法学者たちに近いのではないでしょうか。自分をよく確かめる必要があります。

 主イエスは、人から出て他の人を汚すのは、人の悪い思いから出て来るものであるとし、みだらな思い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などを例として挙げています。これらの中で、半数近くは、十戒で言われていることにお気づきでしょう。ねたみ、悪口、傲慢、無分別は十戒では言われていませんが、主イエスも、またパウロの手紙などでもよく言われています。ということは、人間はねたみ、悪口、傲慢、無分別にとらわれやすいということです。ねたみと悪口は、自分と他人を比較して、他人を低くすることで自分を高めようとする欲求から出て来るものであるようにおもいます。傲慢と無分別は自分を絶対化することから出て来るのではないでしょうか。自分を高くする、絶対化するということは、自分が神になろうとすることです。人から出たものが他人を汚すことは、わたしたちが互いに汚し合うということです。これは、まさにこの世の現実です。このことを神はお喜びになるはずがありません。

 神は、人が汚れてはならない、清くなければならないとしてレビ記の規定を制定されました。それは、人は神の作品であり、神の特別の霊を吹き込まれた存在であるからです。人が汚れるということは、人が滅びに向かうことです。人が滅びることは神のお望みになることではありません。神は一人も滅びずに永遠の命をわたしたちに与えようとされていすのです。そのために律法を制定され、律法を完成するために主イエスをこの世へと送り出してくださったのです。