2017年11月12日 十戒、神との約束

(要約)「十戒」わたしたちが正しく生きるようにと神が与えてくださった約束ですが、なかなか守ることができません。約束を守れない弱く罪深い存在であることを自覚した者を神は見捨てません。

(説教本文)
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 マタイによる福音書の5章から7章にかけて、主イエスがユダヤの人々に語った説教が集められっています。ガリラヤの山で語ったとされることから、山上の説教と呼ばれています。はじめの説教は「心の貧しい人々は幸いである」をはじめとする10の幸いの説教です。その次が、地の塩、世の光の説教、その次にこの律法についての説教が語られています。主イエスの説教は全て大切な教えですが、マタイによる福音書を編集したマタイは、おそらくより大切と考えた説教から順に書いたと思われますので、3番目に置かれている律法についての説教をマタイは重要視していたと考えられるのです。一方でマタイによる福音書には、律法を巡って律法学者や律法をことのほか大切にして生活の基盤としていたファリサイ派の人々と主イエスの対立も書かれています。

律法はユダヤの人々にとって絶対的な掟でした。それは、律法が人の手によるものではなく、神から与えられたもの、神との約束に基づくものだからです。ユダヤ人にとって律法は憲法であり、刑法であり、民法でした。礼拝はもちろん、裁判も、医療も、商売ですら律法に基づいて行われ、律法によって社会の秩序が保たれていました。

律法は、不完全な人間が地上で生きるための指針という役割もあります。不完全な人間が地上で生きて行くために、神は人間に約束を求め、律法を与えてくださったのです。律法は、本来は完全であり、絶対的な掟でした。律法は本来人間を罪から遠ざけ、人間が罪によって滅びることがないようにとの神の愛から出た掟でした。しかし、人間がそのことを忘れたとき、律法は人間に自由を与え、人間を生かす掟としてではなく、人間を束縛し、苦しめる掟にされてしまったのです。安息日に病気の人を癒した主イエスの行いを律法に違反した行為として非難したファリサイ派や律法学者たちに、安息日の本来の目的は人に対する神の愛の思いであり、そのことを主イエスはファリサイ派や律法学者を含む人々に示されたのでした。

ユダヤ人の生活に密着した掟として律法が与えられたのは、エジプトを脱出してからしばらく経ってのことでした。モーセに導かれてエジプトを出発したイスラエル民は、しばらくすると食料も水も底を尽き、空腹と渇きに苦しめられました。人々はモーセとモーセの兄のアロンに向かって、「エジプトの国で死んだ方がましだった。あなたたちは、我々をこの荒れ野に連れ出し、飢え死にさせようとしている。」「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも殺すためなのか。」と不平をぶつけました。彼らの不満を聞いた神は、食料としてうずらとマナを与えてくださり、また岩から水を出してくださったのです。これらのことがあった後、神は律法の中心である十の掟を与えられたのです。この順序はとても大切です。神はわたしたちを生かすために律法を定められたのです。律法があってからわたしたちの命があるのではないのです。後に、このことを忘れてしまったファリサイ派の人々などが、まず律法があり、律法を守ることが神への信仰だと主張したことに対して主イエスは、律法は人の命を守るために神が愛をもって制定されたのだと律法の本来の目的を教えられたのでした。

律法は、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に詳しく、繰り返し書かれています。出エジプト記では20章から40章のほとんどが律法の規定です。今日わたしたちに与えられた聖書の箇所は、律法の中でも十戒と呼ばれる10の規定です。

十戒の冒頭に、律法の前文というべき言葉がまず語られています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」「主」と書かれているところは、原文では神の名である「ヤーウェー」と書かれているのですが、後ほどお話しする事情で「主」となっています。「わたしの名はヤーウェーである。わたしはあなたの神であって、あなたがたを奴隷の家であるエジプトから導き出した。」奴隷の家から導き出したということは、自由を与えたということです。自由とは勝手にするということではありません。自由には責任が伴います。ものごとを自由に行うことは、責任をもって行うことです。責任をもった行動は、確かな根拠に基づいていなければなりません。その根拠を今から示す。神は律法の目的が、人を縛ることではなく、人を自由にすることだ、そのためには責任をもってものごとを行う必要があるのだ、ということを人々に告げたのです。

衆議院が解散され、今月22日に総選挙が行われることになりました。突然のことで多くの人が驚いているわけですが、特に野党の議員は驚き、右往左往させられています。本来衆議院の解散は、政策を巡って国会で大きな対立があった場合に、選挙という方法によって民意を聞く手段ですが、際立った論争もないままの解散は、野党の力が弱い時を狙った、森友学園問題や加計学園問題に蓋をしようとしている、と批判されるのは当然でしょう。数という力があれば何でもできるという政治手法は日本を誤った方向に導いていることに憂いを覚えています。かつて自民党の国会議員だった熊代昭彦という人が、小泉政権のときに自民党を追われ、「自由と責任」という名前の市民政党を立ち上げました。熊代氏はキリスト者です。本人から聞いたわけではありませんが、わたしはこの政党名は聖書に基づいているのではないかと思っています。第二次世界大戦の時、ヒットラーのナチスの政策を批判して殺された神学者のボンヘッファーも「自由と責任」ということを言っています。

さて十戒の本文ですが、前半で神と人との関係を示しています。
まず、ヤーウェだけが神であること、人間が神を作ったり、他の生き物を神としてはいけないと厳しく禁止しています。このことは当然ですが、とかく人間は偶像を作りたがるのです。刻んだ像を神とするだけではなく、地上の生き物や自然を神にしようとします。イスラエルの人々が暮らしていたエジプトでは、王は神であり、太陽、フクロウなどの鳥、ワニや野の獣の生まれ変わりとされていました。
人はさらに、形はないが力をもったものも神とします。その一つが「お金」です。拝金主義などとも呼ばれるように、お金が人生の目的であり、お金が守ってくれる、お金のためなら何でもする、となっている人は決して少なくありません。お金は社会の道具としては不可欠ですが、これが偶像とされて社会に大きな影を落とし、個人や国家を破滅させてきました。神は全てのものの創造者です。そのことは創世記に語られています。神の被造物が神になることはありえないのです。しかし、そのことを忘れたり、ないがしろにすると、わたしたちは偶像を作るという過ちをしかねないのです。

次に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と規定されています。ここも「主」と書かれているところは「ヤーウェー」です。「みだりにヤーウェーと言ってはならない。」という掟ですが、イスラエルの人々はこの掟を過剰に解釈して、聖書に「ヤーウェー」と書かれているところをすべて「アドナイ=主」と読むことにしたのです。わたしたちが用いている旧約聖書のヘブル語原点もそうなっているので、日本語に翻訳するときも「ヤーウェー」を「主」と読み替えています。しかし、大切なことはそのように読み替えることではなく、「みだりに唱えてはならない」ということです。みだりということは、神の名を利用してはならないということです。自分たちの利益のために神を呼ぶようなことがあってはならないのです。これも当たり前のようですが、人間はついつい利益を求めて神の名を呼び、神を利用しようとします。日本語では、神に利益を求める時には、「ごりやく」と言います。神社などで「ごりやく」を求める信仰はむしろ当たり前なのではないでしょうか。うっかりするとキリスト教の信仰にもごりやくを求めてしまうので、気を付けなければなりません。しかし、なにも求めてはいけない、ということではありません。真剣な求めを神は聞いてくださいます。主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられる。・・・門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と言っておられます。問題は貪欲です。貪欲は人を滅ぼします。ごりやくを求めることは、貪欲のなせる業であり、人を滅ぼす、それ故、神は禁じておられるのです。

十戒の前半の最後は、安息日を大切にすることです。6日間は仕事をし、7日目には休むようにとの掟です。大切なことは、自分が休むだけでなく、一緒に生活しているすべて、家族も使用人も家畜まですべて休ませなさいと命じていることです。その根拠を神の天地創造においています。天地創造をされた神が7日目に休まれたのだから、神の被造物であり神に似せて作られた人も神と同様に休む、ということです。
 世界では週に1日は休むのが常識です。日本では労働基準法がこのことを保証しています。しかし、比較的容易に法律は破られています。民数記15章に安息日に働いて神の怒りによって死んだ人の話があります。初めて読んだとき、安息日の規定はそこまで厳しいのかと驚きました。しかし、最近わかりました。安息日を守らないと人は本当に死ぬのです。大手広告代理店の電通の女性社員が過労で自殺をしたことが大きな問題になっています。これまでにも働き過ぎて過労で死んだ人は数多くいます。人は安息しないと本当に死ぬのです。肉体はかろうじて生きていても、心が死ぬ人もいます。宅配便のクロネコヤマトは、労働問題を指摘され、配送員の労働環境を見直しました。そのことによって荷物送料を値上げしました。業界での競争力は落ちたでしょうが、わたしはよくやったと評価しています。安息日の規定は、人をほんとうに生かすための愛の規定です。しかし、ファリサイ人たちはこれをもって主イエスの愛の行いを非難したのです。掟は人のために神が制定されたのであって、掟のために人がいるのではない、主イエスの言葉が響きます。

 十戒の後半は、人と人との関係の規定です。人は社会を作って生きることができます。社会の中心に神がいることを覚え、各々が神に従う。そこに正しい社会があります。

 律法は人が生きるために神が与えてくださいましたが、弱く罪に汚れた人は律法を完全に守ることができません。だからといって神はわたしたちをすぐに滅ぼしたりはしません。しかし、この大切な掟に従って生きて行こうとする姿勢を神は求めておられます。神に従う民となろうという姿勢をもつことによって、人は本当に生きる者となることができるのです。