2017年11月19日 食卓にワインを

(要約)ルーブル美術館にカナの結婚式をテーマにした大きな絵があります。ヨハネによる福音書において、主イエス・キリストが最初に行った奇跡として理解されていますが、この物語の本当の目的は・・・

(説教本文)
週報にも書いてあるように、本日は土橋晃先生に説教をしていただく予定でしたが、土橋先生が2-3週間入院することになり、本日は私が話すことになりました。土橋先生にはこれまで2回説教をしていただいています。奥様の話では、1月か2月には説教に来たいとお話になっているとのことです。土橋先生の病が治り、南三鷹教会で共に礼拝を捧げる日が早く来ますように。
 
 このような事情ですので、聖書箇所も説教題も土橋先生がお決めになったものです。今日の聖書箇所はカナの結婚式と呼ばれるところですが、「食卓にワインを」という説教題もなかなか素敵ですね。わたしでは思いつかない説教題です。この説教題を何度も見ながら、土橋先生ならどのような説教をされたかなと思いつつ、説教の準備をしました。

 ヨハネによる福音書は、他の福音書に書かれていない独自の記述が多いのですが、カナの結婚式もそのひとつです。よく知られた聖書の物語ですね。数年前に用があってパリに行ったとき、ルーブル美術館でカナの結婚式の絵を見ました。壁一面の大きな絵でした。おそらく絵が描かれた時代、14世紀の王侯貴族の結婚式をモデルにして描いた絵でしょう。豪華な服を着た人々、楽隊がいて、招待された人々が描かれています。もちろん、主イエスと弟子たち、イエスの母もいます。解説によると、水を運んだ召使も描かれているのだそうです。インターネットで調べたところ、他にもカナの結婚式を描いた絵がありました。19世紀のデンマークのブロッホという人の絵でし。この絵の中心は水瓶と水がめを運ぶ人で、遠くの方で結婚式が行われています。この画家はやはり水がぶどう酒に変わったということがカナの結婚式の物語で大切なテーマであると理解して、この絵を描いたのでしょう。今回、はじめてこの絵を見たのですが、この絵には深いものを感じました。

さて、聖書を読むとときどき不思議なこと、理解できないこと、意味がよくわからないことが描かれています。実は、そのようなところに大切なことが隠れていることが聖書では多いのです。私がはてなと思ったことを挙げてみましょう。

まず「三日目」です。いつから三日目なのでしょうか。考えられるのは、直前に書かれているフィリポとナタナエルが弟子になった日から三日目ということですが、その日から三日目とわざわざ書いていることにはどのような意味あるいは理由があるのか、よくわかりません。

この婚礼にはイエスの母マリアがおり、またイエスも弟子たちとともに招かれていたことから、イエスの弟の結婚式だっただろうと言われています。当時のユダヤの慣習からすると、婚宴は何日も続いたのでしょう。用意しておいたぶどう酒が足りなくなりました。祝宴でぶどう酒が足りなくなることは、主催者としては大いに恥じることでした。マリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなりました。」と言ったのですが、なぜ主イエスに言ったのでしょう。婚宴の主催者は花婿、花嫁です。主イエスはあくまで招待客です。なぜ招待客である主イエスに頼んだのでしょうか。兄弟なのだから恥をかかせないようになんとかしてあげてください、ということで頼んだというのがわかりやすい解釈ですが、果たしてそうなのでしょうか。

最も不思議なのはその後の主イエスの答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしのときはまだ来ていません。」母マリアの願いに対して、全く無関係と思われる答えです。しかも、自分の母親に対して「婦人よ」と呼んでいるのです。よそよそしいというか、母親に対して冷たさすら感じる言葉です。みなさん、どうでしょう、主イエスが母親に対してこのような言葉を口にするなど、到底考えられない、考えたくないというのが正直な気持ちではないでしょうか。ところが、母マリアは、主イエスに言われたことを気にもせず、結婚式の世話をしている召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と言います。主イエスと母マリアの間に交わされた会話は、この物語の最大のなぞです。

ところが主イエスは、「わたしとどんなかかわりがあるのですか。」と言ったのに、結局母マリアの願いを聞いて、召使に水がめ6つに水を満たさせ、結婚式の会場へと持って行かせたのです。その水がめはユダヤ人が清めに用いるものでした。ユダヤ教の礼拝の前に行う大切な儀式である沐浴の水を入れる甕だったということです。疑問なことは、ぶどう酒を入れてあった空の甕があったはずなのに、なぜそれを使わずに、礼拝の儀式に使う水がめを使ったのかということです。

最後の疑問は、世話役の言葉の中にあります。世話役が言ったように、何日も続く婚宴では、初めによいぶどう酒を出したのでしょう。しかし、主イエスは婚宴の最後に一番よいぶどう酒を出したのです。世話役の疑問はもっともですが、それに対する答えはありません。そのことも不思議なことです。

このように丁寧に読んでみると疑問だらけの話です。一般にこの物語は、水をぶどう酒に変えた主イエスの最初の奇蹟物語と理解されますが、それでよいのでしょうか。

福音書を読むとき、福音書には事実と真実が書かれているということを理解しておく必要があります。真実とは、神の思いと言ってもよいかと思いますが、福音書を人に書かせた神の思い、目的です。福音書はすべて一つのことを目指して書かれています。それは、主イエスの十字架と復活です。聖書に書かれたすべてのこと、主イエスの言葉、主イエスの行いは十字架と復活に向いて書かれているのです。福音書を書いた人は、主イエスの十字架と復活によって救われた人です。救いの喜びをすべての人に伝えるために、神から選ばれて福音書を書いたのです。復活された主イエスの言葉「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」に従って福音書を書いたのです。福音書の目的、十字架と復活による人の救い、それが真実です。
事実とは、文字通り事実そのものです。主イエスご自身の言葉、行い、あるいは主イエスとのかかわりの中で弟子たちや人々が言ったこと、行ったことです。しかし、主イエスの生涯の記録ではありません。主イエスと行動を共にした弟子たち、主イエスから癒してもらった人々などが語ったことが教会の中で語り継がれ、福音書に記録されたのです。
語った人々も主イエスの十字架と復活で救われた人々でした。彼らは単に事実を並べて語ったのではありません。自分の救いにとって主イエスの言葉、主イエスの行いは何だったのかという思いに沿って語ったのです。すなわち、語り継いだ人々も、福音書にまとめた人も、真実に沿って事実を語り、真実に沿って事実を書いたのです。

カナの結婚式で言えば、事実は、主イエスの兄弟の結婚式がカナであったことです。主イエスも母マリアも他の兄弟姉妹も、また弟子たちも招待されていたのでしょう。飲み物が足りなくなった。さあ大変、イエス、なんとかならない、と母マリアが言ったのでしょう。主イエスは自分の役ではないと思いながらも、弟のために何とか飲み物を調達したのでしょう。主イエスが事実として奇蹟を起こされて水を上等なぶどう酒に変えたのかもしれません。あるいは、奇蹟的によいぶどう酒が手に入ったのが事実かも知れません。しかし、事実だけつなげても真実には至りません。この物語も主イエスの十字架と復活による救いを指し示す物語なのだということを念頭に置いて読むとき、カナの結婚式の物語から真実が読み取れるのです。

「三日目」書き始めていることは、いまから語ることは、救いの話ですよ、と福音書の読者に、すなわちわたしたちに話の目的を告げているのです。

ぶどう酒をめぐるマリアと主イエスの会話は、聖なる食事、聖餐を暗示しています。ヨハネによる福音書には、最後の晩餐で主イエスが自分の体としてパンを食べ、自分の血として杯から飲みなさいといったいわゆる最後の晩餐の場面は書かれていません。しかし、福音書を書いたヨハネの教会でも、聖餐は行われていたでしょう。ヨハネは聖餐の原点をこのカナの結婚式に見たのです。主イエスはマリアの頼みに対して、「わたしの時はまだ来ていません。」と言いました。事実において何と言ったかはわかりませんが、真実の言葉として、救いの時はもう少し先です、わたしの十字架と復活を待ちなさいと告げているのです。

マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と言いました。わたしたちキリスト者は主イエスの言葉に従って生きる者、主イエスの召し使いです。主イエスの言葉に従って永遠の命を受けるように生きていきなさい、と福音書を読むものに告げているのです。

水がめはユダヤ教の清めの儀式に使うものでした。それは6つありました。ユダヤ教では12ともに、7も完全数です。礼拝に用いるローソク立ては7本です。6つはまだ完成していないことを示す数字です。「わたしの時はまだ来ていません。」という主イエスの言葉と対をなしているのです。さらに、水がぶどう酒に変わったことは、ユダヤ教が水で行っていた清め、すなわち罪の赦しは、ぶどう酒によって行われるようになる、すなわち主イエスの血によってわたしたちが清められる、罪が赦されるようになることを伝えているのです。ユダヤ教が受け継いできた古い約束による救いから、主イエスの十字架と復活による救い、新しい契約へと、救いの歴史が大きな曲がり角に来ていることが示されているのです。

そして、最後に最もよいぶどう酒が出てきたという世話役の言葉は、主イエスの十字架と復活による救いのことです。最後の時、週末には必ず良いものが来る、主イエスの十字架による私たちの救いが来る、さらに、終わりの日に、主イエスが栄光の中をわたしたちの救いのために来られる、その信仰の告白の言葉が、世話役の言葉なのです。

主イエスの家族の結婚式という事実をもとに、真実を書き表そうとした福音記者の深い信仰と英知に驚きます。この驚きを喜びに、喜びが感謝に変えられますように。

今夕は食卓に赤いワインを用意して、今日耳にした聖書の言葉、カナの結婚式の物語の深い意味を反芻し、救い主イエス・キリストを感謝をもって味わいたいと思います。