2019年7月28日 あなたの罪も赦される 牧師 吉岡喜人


ファリサイ派のシモンは主イエスを食事に招待しました。そこに罪深い女が来て、主イエスの足を涙で洗い、接吻し、香油を塗りました。罪と赦しと愛について、主イエスが語ったことは・・・

(説教本文)ルカによる福音書7章36節~50節

今日は、ルカによる福音書に書かれた一つの出来事から、罪の赦しについて、主イエスの行いと言葉に耳を傾けたいと思います。もう一度、どのような出来事だったのかを確認していきましょう。

 まず、最初に登場するのはシモンという人です。主イエスの弟子のシモン・ペトロとは別の人です。このシモンさんは、律法を守ることに熱心なファリサイ派の人でした。この人が主イエスを食事に招待したというのです。ファリサイ派と言えば、主イエスに敵対する人々というイメージがあるのではないでしょうか。生活の中で厳格に律法を守ることを実践していたファリサイ派の人々と主イエスはなんども論争をしました。主イエスが安息日に病人を癒したことを、安息日に働いた、律法違反だと言って非難したのがファリサイ派の人々です。そのようなファリサイ派の人シモンが、なぜ主イエスを食事に招いたのでしょうか。また、なぜ主イエスが招きに応えたのでしょうかか?ルカは何の説明をしていません。しかし、主イエスにとって、ファリサイ派の人々も救われるべき人々です。そのために主イエスは彼らに声をかけ続けました。主イエスは自分から積極的にファリサイ派の敵になったのではありません。主イエスは、律法の正しい理解、正しい解釈、本来神は何を定められたのかを人々に伝えたのだけなのです。人を愛する神が、人を守り、人を生かすために与えてくださったのが律法だ。律法は人を苦しめたり、人を縛るための掟ではない。主イエスはそのことを人々に伝えようとしていたのです。ですから、機会があれば、ファリサイ派の人々とも、律法学者たちとも親しく交わろうとする姿勢をいつも持っておられたのです。

 ここに書かれた出来事とよく似た出来事が他の福音書にも書かれていますが、マタイによる福音書とマルコによる福音書によりますと、主イエスを食事に招待したのは、重い皮膚病を患っていたシモンという人だったと書かれています。ことによると、主イエスに重い皮膚病を癒していただいたシモンがお礼に家に招待したということだったのかも知れません。また、ある聖書学者は、このシモンと言う人は町の有力者で、有名人を招待して話を聞くことが好きな人だったようだと言っています。公開講座のようにだれでも聞きに来てよい場を設け、町の人々から賞賛を集めたのではないかというのです。

ともかく、招待された人々は皆食事の席についていました。当時の食事は、輪になって床に寝そべって食べるのです。わたしたちの習慣からするととても行儀が悪いのですが、当時は寝そべって食べるのが正式な食事の作法でした。最後の晩餐の有名な絵がありますが、あの絵では主イエスを中心に弟子たちがテーブルの前に椅子に座っています。しかし、ほんとうは寝そべっていたのです。

主イエスの話を聞くためにこの家に集まって来た人々の中に一人の女の人がいました。この女の人は香油の入った石膏の壺を持っていました。女の人は主イエスの後ろから主イエスの足もとに近づきました。泣いていました。目から溢れた涙が主イエスの足を濡らしたので、自分の髪の毛で涙を拭い、イエスの足に接吻し、香油を塗りました。シモンの目がこの人を捕らえました。「なんてことだ、あの女がここにいて、イエスさんの足に接吻し、香油を塗っている!」小さな町です。彼女が何者なのかを知らない者はいません。あの罪深い女がイエスさんの足に接吻し、香油を塗っている。なんでイエスさんはそれに気づかないのだろう。なんで止めさせないのだろう。イエスさんは預言者で、律法にも詳しいと聞いている。だから話をしてもらうために今日来てもらったのに、イエスさんは本当に預言者なんだろうか。シモンの心に疑いが生まれました。

主イエスはシモンの心を知ると、シモンに言われました。「シモン、あなたに言いたいことがある。」「先生、どうぞおっしゃってください。」主イエスに対するシモンの言葉は、形の上では丁寧でした。

主イエスはシモンにたとえ話をされました。

「二人の人が金貸しから一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン借りていた。」一人は500万円ほど、もう一人は50万円ほどです。「二人は返す金がなかったので、金貸しは借金を帳消しにしてやった。」普通ではありえない話ですが、シモンは話を聞いていました。ファリサイ派はユダヤ社会の中堅階層で、商人が多かったようですから、このようなたとえを話されたのでしょう。たとえ話が終わると主イエスはシモンに尋ねました。「二人のうち、どちらが多く金貸しを愛するだろうか。」なんでこのようなことをわたしに尋ねるのだろうと思いながら、シモンは答えました。「そりゃあ、帳消しにしてもらった借金の金額の多い方でしょうね。」

シモンの答えを引き取って、主イエスは続けました。「この女の人も同じではないか。確かにこの人は律法を守らずに多くの罪を犯している。それだけに、その多くの罪が赦されたら、神に対する愛も多いだろう。「愛する」という言葉は「感謝する」という意味にも使われるようですから、「多く赦された人は、多く感謝するだろう」とすれば理解しやすいでしょう。主イエスはさらに言われました。彼女の感謝の気持ちは、わたしにしてくれた愛の業の大きさからよくわかる。あなたは、わたしを自分の家に招待しながら、わたしの足を洗ってくれるどころか、足を洗う水さえくれなかった。客人として挨拶の接吻をしてもくれなかったし、頭に香油を塗ってもくれなかった。しかし、この人は、わたしの足を涙で洗い、自分の髪の毛で拭い、足に接吻し、そして香油を塗ってくれた。こころからわたしを愛し、わたしが来たことを喜んでくれた。

このようにシモンに言うと、主イエスはこの女の人に向かって「あなたの罪は赦された」と言われたのです。これは、権威ある罪の赦しの宣言でした。さらに「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われたのです。 この言葉で、暗かった女の人の心は明るく晴れたでしょう。しかし、この主イエスの言葉を聞いたファリサイ派の人々は、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と思ったのです。

さて、この出来事は他の福音書に書かれたナルドの香油の話によく似ています。しかし、決定的な違いがあります。テーマ、主題が全く違うのです。ナルドの香油の話では、主イエスの葬りの準備がテーマです。主イエスの十字架を前にして、女の人が主イエスの葬りの準備をしてくれたのです。一方、今日のルカによる福音書では、罪の赦しがテーマになっています。

今日の聖書に、二人の対照的な人物が登場しています。主イエスを食事の招待したファリサイ派のシモンと罪深い女の人です。この二人には多くの違いがあります。ファリサイ派のシモンは、上流階級に属する人でした。上流階級のものには教養が必要です。、教養により交友範囲が広がり、商売も広げることができます。彼は、より多くの教養を身に着けるために、有名な人を招いては話を聞き、そこに友人や仕事仲間を招いて食事会を開くことができるような身分と財産がありました。

もう一人は、貧しい女の人です。37節に「この町に一人の罪深い女がいた。」と表現される人です。彼女は独り身だったでしょう。夫と死に別れたか、何らかの理由で離縁されたか、あるいは、結婚なかったかも知れません。この時代のユダヤでは、成人女性が一人で生きて行くことはほとんど不可能でした。彼女らが生きて行くために取りうる選択肢はほとんどありませんでした。彼女は、娼婦として生きる以外に、生きる手段がありませんでした。ユダヤ教は売春行為を不倫な行為として認めていません。しかし、圧倒的な男性中心主義のユダヤの男たちにとって娼婦は必要悪とされ、表向きは律法に反する罪の行いであり、罪深い女と呼んでも、男たちは利用していたのです。

この女の人は、喜んで娼婦になっていたのではありません。借金のかたに売春をさせられていたのかもしれません。彼女は、この行いが律法に反する罪の業であることは重々承知していました。しかし、他に生きるすべがありませんでした。罪に怯えながら、やむを得ず売春をして、生活費を得ていたのです。彼女は、イエスという人のことはうわさで聞いていました。神の子であり、罪を赦す権威を持っている方、どんな人とも分け隔てなく交わりを持ってくださる方。その方がこの町に来ている。あのファリサイ派のシモンの家に食事の呼ばれている。あの方の話を聞くためなら、だれでもシモンの家に入ることができる。行ってあの方の話を聞こう。きっとわたしを救ってくださるに違いない。彼女は大切にしていた香油をもってシモンの家に向かったのです。恐らく顔を見られないように、顔を隠してシモンの家に入り、気づかれないように主イエスに近づいたのです。主イエスの後姿を見た時、彼女は救いを確信しました。深い泥沼のような自分が置かれた境遇と、救い主に会えた喜びとで涙がこぼれ、主イエスの足を濡らしました。それを髪の毛でぬぐいました。もちろん、主イエスは気づきました。しかし、主イエスは、何も言わずにいました。主イエスの足に接吻し、持ってきた大切な香油を主イエスの足に塗りました。彼女は無我夢中で、周りの人の視線は目に入りませんでした。しかし、この家の主であるシモン、それに招待されて集まっていたファリサイ派の人々は、彼女に冷たい視線を向けていました。この罪深い女が、よくもこの家に入って来たものだ。シモンはこの女の人を追い出そうとしたでしょう。そこで主イエスは、シモンに向き合い、借金を帳消しにしてもっらった二人のたとえ話をされたのです。シモンから「多く借金を帳消しにしてもらった人の方が、多く愛する」という言葉を引き出すと、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われ、彼女の愛の大きさ、多さを示し、彼女の罪の赦しを宣言されたのです。

罪と赦しと愛の関係。それは、順序が大切です。わたしたちが神を愛するから、神はわたしたちの罪を赦してくださるのでしょうか。愛が多いほど、愛が大きいほど、大きな罪、多くの罪が赦されるのでしょうか。そうではありません。神は常にわたしたちを赦そうとされているのです。それが神の愛です。神の愛とは、わたしたちが多くの罪を持っていても、暖かな眼差しでわたしたちを見守り、救いの御手をわたしたちの方に伸ばしてくださっているのです。その神の愛、神の赦しに応えて、わたしたちは神を愛し、神の赦しを信じ、神の救いを求める、それが信仰です。

最後に、罪深いと言われた女の人とファリサイ派のシモンがどうなったかが気になります。聖書には何も書かれていませんが、わたしは、主イエスに救われた女の人は、主イエスの弟子となって、後の教会でこの日の出来事を語り続けたのではないかと思います。

また、ファリサイ派のシモンが、どうなったかは分かりません。しかし、主イエスの愛はシモンにも注がれていました。主イエスにとってファリアシ派のシモンも救われるべき大切な人だからです。それ故、わたしたちの罪も赦されるのです。罪を赦された感謝の心で、神を愛する者となりましょう。