2019年10月6日 偽りの天秤 吉岡喜人牧師

商人が重さをごまかして不当な利益をあげることは、古代イスラエルでも、現代の日本でも行われています。しかし、このような不正義は社会を腐敗させます。不正義は神の思いの正反対です。神の思いは正義です。

(説教本文)アモス書8章4節~7節

 今日、わたしたちが聞く神の言葉は、預言者アモスを通して語られた言葉です。アモスという預言者像をわたしなりに表現すると、「正義の使者として神から選ばれた預言者」でしょうか。アモスの預言は正義に満ち溢れています。9月の第一日曜日にもアモス書が読まれ、語られました。これは説教者が意図的に聖書箇所を決めたのではなく、日本基督教団が定めた聖書日課に基づくものですが、その時語られた言葉は、イスラエル、ユダヤにはびこっている不正義を告発するようにとの神の言葉を受け、アモスが不正義の数々を並べ立てて、神の怒りを示したものでした。「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き、カルメルの頂は枯れる。」(1:2)「イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。」(1:6)そしてアモスは正義を行え、と叫びました。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」(5:24)

 不正義への告発はさらに続き、今日わたしたちに示された主の言葉は、商人たちが行っている不正に対する主の怒りの言葉です。「貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。」  今、NHKのBSテレビで「おしん」という朝ドラマが再放送されています。このドラマを見て出勤すると、教会到着する時刻がぎりぎりなのですが、どうしても見てしまいます。おしんの時代背景は今から100年ほど前のことですので、それほど昔のことではありません。おしんは山間の村に住む小作人の家に生まれました。地主から農地を借り、収穫の大部分を小作料として地主に納め、その上税金を支払わなくてはなりません。残った米を売ってわずかな現金収入を得ますが、農業を行い生活を維持するにはとても足りず、農機具などを高額な利息で借金して購入し、いつも借金漬けになっています。自分たちが汗水流して作った米を食べることができず、だいこん飯が常食でした。おしんは、まだ10歳にもならないうちから奉公にだされ、苦労の連続の人生を歩んだのです。ドラマですが、当時の農民たちが置かれた過酷な状況を描き出しています。

 「ああ野麦峠」という実話に基づいた小説も、この時代の貧しい農民の姿を描いています。日本の絹がヨーロッパに飛ぶように売れた時代、東北の貧しい農民が契約金と引き換えに娘を製糸工場の女工に出します。野麦峠を越えて着いた信州の製糸工場では、早朝から夕方遅くまで過酷な労働の日々が待ち構えていました。病気になってもろくな治療も受けられず、結核にかかった主人公の娘は、工場から放り出されるようにして故郷に帰させられますが、野麦峠で死んでしまうのです。

 同じ時代、多くの農家の娘たちが、女郎に売られ、自由を奪われ、性労働に就かされました。このような事態をなんとかしようとして陸軍の青年将校たちが起こした反乱、2.26事件も、あっという間に押さえつけられてしまいました。人間の尊厳よりも、お金の方が上にありました。お金が人間より上にある、今でもそのような意識をもっている人が社会に多くいるように思います。

 6節の「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。」という言葉からも、人間の尊厳がお金によってないがしろにされていたことがわかります。先日、ある園児の保護者から、小学校3年生姉がフィリピンなどで安い値段で子どもが売られていることを知り、なにか自分にできることをしたいと言っているが、という話がありました。フィリッピンの貧しい農村や漁村では現代のこの時に、こどもが安い値段で売られているのです。誘拐されて売られる子とももいますし、臓器提供のために売られるこどももいるという現実に心が痛みます。

 農民を押さえ付けているのは、お金を自由にあやつる悪徳な商人たちだ、とアモスは不正の主を指摘しています。全ての商人が悪いのではありません。商業は人間が作り上げた人間の社会にとって不可欠です。商業のお陰で、いろいろなものを手にいれることができます。社会が発達すればするほど、商業が重要になり、商人が力を持つようになりました。人間社会に貢献するためには、商業にも規律が必要です。しかし、中には儲けを規律より優先させようとする商人たちがどうしてもいるのです。商人が経済を支配し、社会をあやつるようになると、「おしん」や「ああ、野麦峠」のようになるのです。

 アモスは、そのような商人たちに神の怒りの声を聞かせます。「おまえたちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。』」(8:5) ご存知のように、ユダヤ教では律法の定めにより安息日=土曜日は仕事をしないことになっていました。それに加えて、新月祭にも仕事をしないと言う規定あるいは習慣があったようです。当時のひと月は、月の満ち欠けによる太陰暦でしたが、月が完全に見えなくなった後、わずかな細い月が見え始めるのが新月です。王宮には新月を観測する専門の役人がいて、新月が見えると、そのことを国中に布告するのです。新月の日は特別な日であり、新月祭として特別な礼拝が行われ、安息日のように大切にされて人々は仕事をしないことになっていたようです。しかし、少しでも多くを儲けたい商人たちは、信仰よりも商売を上に置き、新月の日が終わるのを、今か今かと心待ちにしていたというのです。礼拝どころではなかったのでしょう。

 さらに、悪徳商人たちは、取引の量をごまかすことを当然のように行っていました。穀物の量を測る升を小さくして商売をすれば、儲けは増えます。当時のことですから、今ほど正確な基準はなかったでしょうが、それなりの基準はありました。商人と商人の取引であれば、ごまかしは見破られるでしょうし、ごまかす商人は信用されなくなり、淘汰されるでしょう。しかし、素人相手、一般の消費者に売る場合は、商人がごまかしても、消費者は自分たちで量ることもできず、また文句をつけたら穀物を売ってくれなくなるかも知れません。強い者の言いなりになるしかないのです。同様に、重さで売るものに使う量りの分銅もごまかしが当然のように行われていました。このようにして悪徳商人は儲けを増やし、ますます財力を持ち、社会を支配する、そのような構造になっていたのです。  重さをごまかす、その誘惑はいつでもあり、なかなか抗えないようです。しかし、社会正義が損なわれると、社会全体が腐敗していきます。腐敗した社会はそこに住むすべてのものにとって生きづらい社会になり、特に弱い立場の人々には、大きな問題です。

 わたしは神学生のとき、高知県の中村市にある中村栄光教会で伝道実習をさせていただきました。ある日、牧師に買い物に誘われ、興味深いものを見せてもらいました。肉屋さんなど量り売りしている店には、必ず2つ量りが置いてあるのです。一つはお店の人が量るため、もう一つは買った人が確認のために測るためです。牧師の話によると、かつてこの町では重さをごまかして売るのが当たり前になっていたそうです。全体がそうなると、正しく商売をしようとしていた店も、あちらがしているならうちも、となって行ったようです。あるとき、この町に赴任してきた牧師のお連れ合いが、重さがごまかされていることに気づいたものの、どの店も同じような不正をしているので、太刀打ちできなかったそうです。しかし、彼女は根気強く不正を訴え、支持する人が増え、市役所を動かし、ついに店には2つの量りを備えることなったということでした。牧師婦人の力の根源が、アモス書にあったかも知れませんね。

しかし、量りが正確でなければ意味がありません。日本では商売に使う量りには国家検定が義務付けられています。国家検定付きのシールを貼った量りでなければ商売に使うことができません。2年ごとに確認検査があります。このようにして、社会正義を制度で守っているのです。

実は、フィッシャー幼稚園にも国家検定付きの量りがあります。バザーに使うためではありません。園児の体重を測るための体重計です。幼稚園や学校では、定期的に子どもの体重を測ることが義務付けられています。体重の変化で、病気の早期発見ができるからです。健康管理のために正確に体重を測ることは大切だと思いますが、肉屋さんのようにグラムの商売ではないので、なにも国家検定付き体重計までは必要なないと思い、4千円ほどで売っている体重計を使っていました。それでも実用に耐える正確さです。しかし、東京都からうるさく言って来るので、他の幼稚園の園長に相談したところ、こどもは売るための肉じゃあるまいし、本当は国家検定付きなど必要ないよねと冗談まじりに言いながらも、学校健康法で決まっていることなのでね、とうことでした。仕方なく国家検定付きの体重計を買いました。4万円ほどだったと思います。

ちょっと横道にそれてしまいましたが、量りを国家検定にしなければならなほど、重さはごまかしやすいということです。しかし、ごまかしは、社会を腐敗させますから、ごまかしを赦さないという目が社会には必要なのです。

ローマ神話に、ユースティティアという女神がいます。ユースティティアとは英語のジャスティス、公正とか法という意味です。この女神は、片手に剣をもう一方の手には天秤量りを持っています。公正な商売の象徴としてあちらこちらに女神の像が置かれているようですが、公正な裁きの象徴として、日本の最高裁判所にも置いてあるそうです。

神はアモスを通して不正を働いている商人たちに警告します。おまえたちのしている偽りは、わたしの目に写っている。わたしが知らないとでも思っているのか。おまえたちの行ったすべてのことを、わたしはいつまでも忘れない。このようなことをしているのであれば、わたしはお前たちを滅ぼさなけらばならなくなる。主が怒るとどうなるのか。8節以下に書かれていますが、大地が揺れ動き、沈み、世界は闇に包まれる。祭りが悲しみになり、喜びの歌が嘆きの歌に変わる、などなど。そのようなことのならないように、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言葉に従え。わたしの愛する民よ。と主は言われるのです。

今日のアモスの言葉は、直接的には悪徳商人たちに向けられたことばでした。しかし、どうでしょう。わたしたちは、絶対に悪徳商人のような心になることはないと言い切ることができるでしょうか。わたしたちの心は思っているより弱いのではないでしょうか。関西電力のトップが原子力発電の再会を巡って、地元の助役から膨大な金品を受け取っていたことが明るみに出て、大騒ぎになっています。彼らは、仕方がなくそうしたのだ、と言い訳をしています。赦せないことですが、わたしたちが同じ立場になったとき、同様のことをしないとは言い切れないのではないでしょうか。そうならないためには、常に神の言葉に聞き従う姿勢を身に着けておくことが大切です。悪魔はわたしたちの近くにいて、わたしたちの心に隙があると、すぐに近寄って来てささやきます。大丈夫だよ、やってみなよ。いいことがあるから。悪魔の誘惑に、きっぱりと、わたしは神に愛されている神の民です、。わたしが従うのは神の言葉だけです、と言いましょう。その言葉が言えるように、常に預言者の言葉、主イエスの言葉、使徒たちの言葉に耳を開いておきましょう。