2022年5月15日 キリストとつながる 吉岡喜人牧師

(要約)「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」有名な聖句ですね。わたしたちが主イエスにつながることは、主イエスと一体となること、愛によって結ばれることであり、地にも天にも大きな喜びです。

(説教本文)ヨハネによる福音書15章1~11節
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
 この多くの人から愛されているヨハネによる福音書15章6節に書かれた主イエスの言葉は、壁掛けやカレンダーなどにもよく用いられています。皆さんの家にもこの聖句を書いたものがどこかにあるのではないでしょうか。
 ここ数年コロナ禍のため行えていませんが、南三鷹教会日曜学校の夏期学校が毎年のように使わせていただいているトーチベアラーズ山中湖というキリスト教の施設に、壁一面に豊かに実を実らせているぶどうの木が描かれている部屋があります。入り口近くには「わたしはぶどうの木・・・」という聖句が英語で書かれています。この絵は、ある夏にスタッフとして働いた英国人の青年がボランティアで書いてくれたそうです。日曜学校の先生方の中は見ておられる方がいると思いますが、教会の皆さんにお見せしたい素晴らしい壁画です。
 
 ぶどうは聖書の世界の人々の生活に欠かせないもので、聖書にはなんども出てきます。いくつか紹介しましょう。
 
 エジプトを出たイスラエルの民が向かったのはカナンの地でした。このカナンの地のことを申命記は次のように書き表しています。「あなたの神、主はあなたをよい土地に導き入れようとしておられる。・・・小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地・・・」(申命記8:7-8)。小麦、大麦は重要な食材ですが、それに続く果物の中でぶどうが最初に出てきます。それほど生活に欠かせない果物だったということです。
 列王記にはぶどう畑を巡ったある事件が書かれています。北イスラエル・サマリアの王であったアハブは王宮近くにあるナボトという農民が所有していたぶどう畑がどうしても欲しくなりましたが、ナボトは神から与えられた嗣業の土地だからと言って譲ってくれません。そこで、王妃イゼベルが策略を用い、ナボトを無実の罪で処刑し、ぶどう畑を手に入れたという事件です。(列王記上21章)この事件はナボト王の悪政を批判して書かれたものですが、王が悪事を働いても手に入れたいほど、良いぶどう畑はとても価値があったということがわかります。
 
 新約聖書にもぶどう畑やぶどう酒がなんども出てきますね。農夫たちがぶどう畑の所有者の子どもを殺してぶどう畑を奪ったたとえ(ルカ20:9-16)、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる話、カナの結婚式で水をぶどう酒に変えた話(ヨハネ2:1-11)、そして最後の晩餐において、救いのために流される自分の血を記念とするためにパンとぶどう酒によって聖餐を行うように命じられたこと(マルコ14:25ほか)などなど。
 
 さて、今日の聖句の中で、いくつかの言葉がなんどか繰り返しでてくることにお気づきではないでしょうか。
 
 最初は「わたしはぶどうの木」という言葉です。1節と5節で語られています。この句をよりよく理解するために、少々ギリシャ語の話をすることをお許しください。通常、ギリシャ語では、主語を用いません。動詞の語尾変化で主語を現します。主語を用いるのは、主語を強調したいときです。ギリシャ語の「わたし」は「エゴー」です。自分勝手なことを「エゴイズム」というように日本語でも用いられますね。「エゴー」が用いられると、主語である「わたし」が強調されます。今日の「わたしはぶどうの木」という聖句には、主語に「エゴーが」が用いられています。その結果、ただ「わたしはぶどうの木」ではなく、「わたしこそぶどうの木」あるいは「わたしがあなたがたにとってのぶどうの木」と、主イエスとわたしたちの強い結びつきが表わされているのです。実は、ヨハネによる福音書では「エゴー」が用いられることが多く、「わたしは羊の門である。」(10:7)でも「わたしはよい羊飼いである。」(10:11)でも「エゴー」が用いられています。どの場合でも、主イエスと私たちの強い結びつきを主イエスが語っておられるのです。
 
 エゴーを用いた主イエスとわたしたちの強い結びつきは、今日の聖句の中で「つながって」という言葉で表されています。「つながって」は、1節、4節では4回、5節でも2回、6節、7節でも使われています。繰り返し用いることで「つながる」ということがいかに大切かを表しています。
 
 そして、「実を結ぶ」が2節で3回、4節で2回、5節、8節と、やはり繰り返し語られています。
 
 農民が作物を育てる目的は、当然のことながら実などを食料として収穫するためです。ぶどうを育てる農民は、秋に豊かなぶどうの実を結ぶようにと、汗水たらしてぶどうの木の手入れをします。枝が伸び、花が咲き、やがて実をつけ始めます。そこで農民は、枝を選びます。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」 農民は、よい実を結ぶ枝を選んで残し、あまり実を結びそうもない枝には鋏を入れて切り落とします。切り落とした枝を集めて畑の外に出し、燃やしてしまいます。秋になると、選ばれた枝には豊かなぶどうが房となって実を結び、農民を喜ばせるのです。
 
 身近にあるぶどうのたとえ話です。主イエスの話を聞いていた人々は、うなずきながら話を聞いていたでしょう。
 
 農民にたとえられているのは、天の父、神様です。農民がぶどうの手入れをするというたとえは、終末における神の裁き、最後の審判と呼ばれることです。主イエスは、終末の時が近づいている、終末の裁きに備えなさい、となんどもお話になっています。マタイによる福音書では、最後の審判を「羊飼いが羊と山羊を分ける」というたとえで話され(マタイ25:32)、話の終わりで「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のためによういしてある永遠の火に入れ。」(マタイ25:41)と厳しい言葉で語っていますが、今日のヨハネによる福音書の主イエスの言葉「集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と通じていますね。最後の審判は多くの画家や彫刻家が主題にしています。中でもバチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの絵が有名ですが、ちょっと恐ろしい絵です。
 
 中世の教会は、地獄の恐ろしさを教えることで人々の目を天国に向けようとしました。しかし主イエスは、地獄の火で焼かれる最後の審判の恐ろしい面を強調した話をしたのではなく、むしろ反対に、最後の審判に耐えられるようにと話を聞いている人たちを励ましたのです。最後の審判に耐える、それはぶどうの木にしっかりとつながっていることにほかなりません。主イエスというぶどうの幹にしっかりとつながり、幹から神の霊という栄養をたっぷりいただくのです。そうすれば、その枝は豊かな実を結ぶことになるのです。
 
 主イエスにしっかりとつながっている枝になる、それは木の幹と枝が一体として木であるように、主イエスとわたしたちがしっかりとつながる教会になるということです。言うまでもないことかも知れませんが、教会とは建物のことではなく、主イエスを信じる人の集まりです。ただ集まるのではなく、主イエスを救い主として信じる者が、主イエスと一体になる、それが教会です。主の体の教会です。
 
 ところで15章3節にはてな?と思う言葉があります。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。」話の流れからちょっとそれた唐突な感じがしませんか。
 清くなっているという意味は、すでに剪定が済んでいて、あなたがたは豊かな実を結ぶようにと選ばれた枝ですよ、という意味です。
 
 ぶどうの木と枝のたとえの最後に、主イエスは「愛にとどまりなさい」と言っておられます。主イエスという幹にわたしたち枝がしっかりとつながっている、主イエスと一体となっていることは、具体的には互いに愛によって結ばれるということです。わたしたちが主イエスを愛する前に、主イエスがわたしたちを愛してくださっているのです。そしてわたしたちを愛してくださる主イエスは、わたしたちの内にいてくださっているのです。主イエスの父である神が主イエスを愛したように、わたしもあなた方を愛する、だからあなた方もわたしを愛し、愛にとどまりなさい、と言われるのです。
 
 主イエスがわたしたちの内にいてくださることは、わたしたちにとって大きな喜びですが、わたしたちが主イエスの愛にとどまることは、天において大きな喜びなのです。ぶどう畑の農夫が豊に結んだぶどうの実を喜ぶように、天の神はわたしたちが愛にとどまることを喜んでくださるのです。それは、喜び以上に、神の栄光だとさえ言ってくださるのです。8節「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子になるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
 
 今日は、主イエスが語られた、主イエスというぶどうの木に枝がしっかりつながって豊かに実を結ぶように、わたしたちが愛によって主イエスにつながる、主イエスの愛にとどまる。そのことによって、地にも天にも喜びがある、すなわち私たちにとって大きな喜びというだけでなく、神にとっても大きな喜びであり、神の栄光であることを、聖書を通して主イエスから聞かせていただきました。主イエスの話を聞いたわたしたちは、ぶどうの木の手入れにおいて選ばれた枝です。選んでくださった主イエスの父、天の神様に感謝しましょう。