2022年5月22日 父のみもとへ行く 大村豊先生

(要約)主イエスは復活後40日目に天に昇られました。嘆き悲しむ弟子たちに主イエスは弁護者である聖霊を送ると約束されました。聖霊は、悲しみを喜びに変えてくださるのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書16章12-24節

 本日の新約聖書箇所を含むヨハネ福音書16章は、主イエスから弟子たちへの「訣別説教(14章~16章)」の終結部となります。主イエスは十字架への道を歩まれる直前、過越祭前の夕食の席で弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りとペトロの離反を予告された後、この訣別説教は語られました。先週5月15日の南三鷹教会説教では、吉岡先生がこの訣別説教の中盤「まことのぶどうの木」の箇所の説き明かしをしてくださいました。本日の新約聖書箇所は、それに続く展開となります。

 主イエスから別れの予告をされて悲しむ弟子たちに、主イエスはご自身の天への高挙の意味を教えて慰められます。ヨハネ福音書はイエス・キリストの生涯の意味を「受肉」として説いたので、主イエスが地上を去られることは、神さまと人とを結び合わせていた絆が解け、弟子たちは孤児のように放置されるのではないかと、悲しみに満たされてしまいました。しかし、このとき「弁護者」としての聖霊が与えられます。これは審判において人間を守り、赦しを与える神の力で、キリストが送ってくださる霊であると共に、「霊的キリスト」でもあります。聖霊が来ることにより、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」ことになります。

 本日の聖書箇所のはじめ、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と書かれています。これは、主イエスは多くの教示すべき事柄をもっておられましたが、弟子たちには十分に理解されなかったことを伝えています。聖霊の働きがキリスト教会の中で働く時に、はじめて主イエスの数々の教えは、弟子たちに正しく把握されるのです。主イエスの教えの正しい把握と伝達は、聖霊を受けたキリスト者を通して行われます。

 13節前半、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。ここでは、「その方、すなわち、真理の霊」とあるように、聖霊(プネウマ)の人格的性格が主張されます。キリスト教会における聖霊の働きは、復活・天へと上げられるキリストの人格的働きです。ここでの「真理」とは、理論的な教えであるよりも、人間に命を与え、苦難に勝利させるものです。それはキリストに栄光を与えます。

 13節後半、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。主イエスは、決して自分自身を語ることをされませんでした。自分を遣わされた方、父なる神を語られました。主イエスの教えは、主イエスを遣わされた方、神さまの教えです。ヨハネ福音書の記者は、このように、主イエスの教えと業が、徹底して、神さまの教えと業であることを主張しているのです。

 14節、「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。主イエスが行われた事をキリスト者たちに教えることによって、また、主イエスご自身の宣教を、キリスト者たちを通して為さしめることによって、聖霊は、キリストに栄光をお与えになります。聖霊の働きは、キリストの働きの継続であるので、聖霊はキリストを証言し、キリストに栄光を帰すことにおいて、キリストを遣わされた方を証言し、キリストにおいて示されている神の栄光を人々に明らかにされるのです。

 15節、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」。ここでは、父なる神の持っておられるすべてのものを主イエスは与えられており、そこから真理の霊は弟子たちに分け与えられることが語られています。主イエスが、「その方が私のものを受けて」と言われたのは、真理の霊が父なる神のものを主イエスから受けるためです。

 このように16章12~15節において、主イエスは弟子たちに「聖霊の働き」について説き明かされました。弟子たちは「今」すべてが分かるわけではありません。真理の霊は、弟子たち(教会)を導いて「真理をことごとく悟(らせる)」らせます。つまり、聖霊こそが、主イエスの地上の生涯において隠されていた栄光を弟子たちに啓示するのです。またここには、父と子の一体性と、聖霊と子の一体性も語られます。子は完全に服従するがゆえに、父が持っているものすべてが子のものであり、また聖霊が子に完全に服従するのです。これは、父・子・聖霊の独立と一致をあらわす三位一体論へとつながる箇所とも言えると思います。

 旧約聖書の創世記18章では、アブラハムがソドムの民を救うために、「主のみもとへ行く」姿が描かれています。神さまの目に悪いものとなったソドムの町と人々、ソドムの町を滅ぼそうとされる神さまに対して、何とか滅ぼされないようにと、アブラハムの必死の執り成しが行われます。ソドムの民を救うために、アブラハムは「主のみもとへ行く」のです。

 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」、このアブラハムの訴えに対して神さまは、「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」とお答えになります。引き続き45人、40人、30人、20人とアブラハムは交渉を続け、そして最後に10人の正しい者がいれば、「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と神さまはアブラハムに約束してくださいます。

 アブラハムは、町に住むすべての人びと、災害時・被災時にはもっとも弱い立場になる女性や子ども、老人たちをも見据えていたと思います。さらに「正しい者と悪い者と一緒に」との引き合いの言葉の中には、「悪い者」の命も一緒に救おうとする姿勢が見られます。神さまがソドムの町を滅ぼすと決められた中で、アブラハムは大胆に、粘り強く、執り成しを、交渉を行っていきました。滅ぼさないための必要条件などまったくなかったところに、「10人の正しい者がいれば」、という義をつくりあげたのです。

 新約聖書では、十字架刑に処せられたイエス・キリストお1人によって、すべての人びとに義が与えられました。主イエスは、十字架につけられ、多くの痛みと苦しみを受けられた後に、亡くなられました。そして復活され、天に挙げられることで、わたしたちすべての人間の罪を贖ってくださったのです。

 ヨハネ福音書16章16~24節、新共同訳聖書のこの段落題は「悲しみが喜びに変わる」と付けられています。16節、主イエスは「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言われます。そして「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と続けられます。弟子たちは戸惑い、16章10節の「わたしが父のもとに行き」という言葉と重ね合わせて、「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」とブツブツ言い始めたのです。「しばらくすると」と主イエスは言われますが、具体的にはどれほどの時間のことなのでしょうか。どれだけの時間が経つと弟子たちは主イエスを見なくなり、またどれだけの時間の後に再び主イエスを見るようになるのでしょうか。

 16章20節「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。20節のはじめ、新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されていますが、原典(アーメン アーメン レゴー ヒューミーン)」を直訳すると、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」です。「アーメン」は祈りや賛美歌の最後に唱える言葉として定着していますが、単語の意味としては「まことに」や「たしかに」です。ここは「アーメン」が2回繰り返して強調されていますので、単に「言う」のではなく、「まことに、たしかに、わたしはあなたがたに宣言する」という厳かな言葉で、主イエスは弟子たちに言われたのでしょう。この厳かな宣言は、主イエスが重大なことを言おうとされていることを示唆しています。

 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。それが主イエスの回答でした。弟子たちは、主イエスの逮捕、裁判、処刑、死、埋葬へと続く一連の出来事の中で、「泣いて悲嘆にくれる」ことになるでしょう。「だが、世は喜ぶ」、それはなぜでしょう。主イエスは「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ1・11)」のであり、もともと「暗闇(この世)は光(イエス)を理解しなかった(ヨハネ1・5)」からです。

 しかし、弟子たちはなぜ「泣いて悲嘆に暮れ」なければならないのか、どうして「その悲しみは喜びに変わる」のか、わかりませんでした。主イエスはここで妊婦をたとえに出されます。子どもが生まれると、母親になった女性は、その喜びのために「もはやその苦痛を思い出さない」。「一人の人間が世に生まれた」という事実の重みは、圧倒的です。弟子たちの「悲しみが喜びに変わる」のもそれに似ています。主イエスが闇の力に勝利し、復活されるからです。そして復活された主イエスは、再び弟子たちと共におられることになります。昇天された後も、主イエスは霊において弟子たちと「世の終りまで」共にいてくださいます。主イエスが共にいてくださるという事実が、喜びの源泉であり、その理由です。そして、主イエスは常に共にいてくださるので、「その喜びをあなたがた(弟子たち、そして主イエスを信じるすべての人)から奪い去る者はいない」のです。

 主イエスの約束が成就する「その日」とはいつのことでしょうか。主イエスが復活されて弟子たちの前に現れる「その日」なのか。主イエスが昇天され、真理の霊であり、弁護者である聖霊が降臨する「その日」なのか。それとも、この世に終わりが訪れ、すべてが白日のもとにさらされる「その日」なのか。それは復活の日であり、聖霊降臨の日であり、終末の日でもあります。なぜなら、主の復活においても、聖霊の降臨においても、終末はすでに到来しており、終末の日も、復活と聖霊降臨で始まった新しい世界の完成だからです。新しい世界とは、主イエスが常に共にいてくださるその事実です。主イエスが常に共にいてくださること、この事実こそが「取り去られることのない」喜びの源泉であり根拠です。そして、そこにこそ主イエスを信じる者の一切がかかっています。

 だから、すでに始まっているこの新しい世界では、弟子たちは主イエスの名によってすべてを行い、主イエスの名によって願うようになります。山上の説教で主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。だから、主イエスはここでも、「願いなさい。そうすれば与えられ」ると語られます。神さまは主イエスを通して細やかな気配りをしてくださっているのです。しかし、一切は主イエスが共にいてくださるという事実にかかっています。この事実に目覚め、そして繰り返し新たに目覚めるときに、弟子たちと同じように、わたしたちも「喜びに満たされる」ことになるのです。

 今週木曜日の5月26日には、復活された主イエスが天に上げられたことを記念する昇天日を、6月5日には聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えようとしています。主イエスがわたしたちの罪を贖ってくださった恵みと喜びを、わたしたちが多くの方々へ伝えることができるように。そして主イエスが常に共にいてくださること、この喜びで満たされていることに心から感謝して、新しい週を歩んで参りましょう。