2022年8月28日 新しい生き方 大村豊先生

(要約)人間としてどのような生き方をするか?誤りを犯しやすい人間が、正しい道を選択するには、主イエス・キリストに従うことです。それは新しい生き方なのです。

(説教本文)エフェソの信徒への手紙4章17-32節

 私は中学から大学までの10年間、キリスト教学校である関西学院で学びました。アメリカンフットボール部ではなかったですが、クラスメートには何人も部員がいました。2018年5月のことですからもう4年以上も前になりますが、関西学院大学と日本大学のアメリカンフットボール部タックル事件を、みなさんは覚えておられますか。南三鷹教会からも近くにある味の素スタジアムで、2018年5月6日(日)に行われた関西学院大学と日本大学のアメリカンフットボール部交流戦が、当時、テレビや新聞などのマスコミで大きく取り上げられることになるとは、思いもしませんでした。

 この試合で大きな問題として取り上げられた点は、試合中に反則行為とされている危険なタックルが、日大選手から関学大選手に対してなぜ行われたのかということと、そのタックルが誰の指示で行われたのかということでした。アメリカンフットボールでは、攻撃しているチームの選手(クォーターバック)がボールを投げ終わった後、その選手へのタックルは認められません。問題となった行為は、一旦プレーが止まってから2~3秒後、ボールを投げ終わった関学大の選手が完全に力を抜いた状態の時に、背後から強烈なタックルを受けたのです。この時の映像は、各テレビ局のニュースでも繰り返し流されていました。この行為が反則とされているのは、大変危険であることがわかっているからです。事故を起こさないためには、危険な行為である「反則をしない」ということも当然となります。「ルールを守らせ、反則をさせない」ことが、選手を指導する監督・コーチからすれば、自分たちのチームの選手だけでなく、相手チームの選手も含めて、生徒・学生を守ることになります。スポーツの指導者であるならば、これは最低限で、絶対的な、基本原則なのではないでしょうか。

 当時の日本大学の内田監督と井上コーチは、謝罪のための記者会見の中で、反則タックルをした宮川選手に対して「反則の指示はしていないと思う」と言い、「自分たちの指示を誤解して、選手の判断で反則をしたのではないか」という発言がなされました。しかし、監督・コーチの会見より前に開かれた、反則行為をした宮川選手の単独記者会見では、彼は「監督とコーチから反則行為をするよう指示があった」とはっきりと述べています。自分が犯した反則行為を真摯に反省し謝罪しつつ、反則行為をするに至ったチーム内の状況も詳しく語ったのです。しかも彼は、自分から実名公表と撮影(顔を映すこと)を希望したといいます。そうしなければ本当の謝罪にならないからだと。日本大学の内田監督・井上コーチ、そして宮川選手は、それぞれ謝罪のための記者会見を開きました。会見を見ていた多くの人は、「よく覚えていない」「言ってはいないと思う」などと下を向きながら弁解的な発言が多かった内田監督・井上コーチと、常に前を向いてすべての質問にしっかり自分の言葉で答えて謝罪した宮川選手、どちらが真実を語り心からの謝罪を述べていたのか、よくわかったのではないでしょうか。

 人間は生きている中で間違いを犯し、他人を傷つけてしまうことがあります。そのとき必要なのは、まず真摯に反省・謝罪し、そのあとどのように改めるべきかをよく考えて迅速に行動すること。それが、間違いを犯してきたこれまでの「古い生き方」を捨て、真理に基づくこれからの「新しい生き方」へとつながっていくはずです。神さまは、わたしたち人間にそのように生きなさいと、求めておられます。

 エフェソの信徒への手紙1章1節の書き出しは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」となっています。この書簡には、パウロが異邦人伝道を行なった教会の信徒たちへ、神さまへの賛美と感謝、執り成しの祈り、キリスト者としての生活規範など、さまざま思いや教えが綴られています。使徒言行録18・19章には、福音書記者ルカによって、エフェソにおけるパウロの2年以上にわたる伝道活動が記されています。エフェソは現在のトルコ西部にあった古代の港湾都市で、多くの人と物資が行き交ったこの地での宣教は、異邦人伝道の重要な役割を担っていました。

 本日の新約聖書箇所、エフェソの信徒への手紙4章17~32節では、パウロがエフェソの信徒たちへ、キリスト者として「古い生き方」を捨てて「新しい生き方」を得るためにはどうすればよいか、丁寧かつ熱意をもって語りかけています。

 4章17節の最初の言葉は、新共同訳では「そこで、わたしは主によって強く勧めます」となっています。原典を直訳すると「そこで、わたしは主において、わたしは語り、証言する」です。「こうしたらどうですか」という呼びかけの言葉に訳されていますが、実際には、パウロは「主の言葉を語り、証言する」と、エフェソの信徒へ向けてだけでなく、パウロ自身も含めたキリスト教会全体に必要な強い決意の言葉を述べたのだと思います。続いてパウロが告げた言葉は、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」です。ほとんどの信徒が異邦人であるエフェソの教会へ向けて、この言葉を書き送ったのです。異邦人と、エフェソの教会の信徒たちを区別して、異邦人であるエフェソの教会の信徒たちに「あなたがたはもう異邦人ではない」、「あなたがたはキリスト者である」とパウロは告げています。彼らが「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだ」からです。

 17節後半から19節には、「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」と、大変厳しい言葉が並べられています。これはすべてエフェソの人々、異邦人に向けた、異邦人を批判するだけの言葉なのでしょうか。ここで問われているのは、人間と神さまとの関係です。ここでの「異邦人」は、唯一絶対の神さまを知らない人々、神さまから離れてしまっている人間の姿を指しています。神さまから離れてしまっている人間の生活の様子を、パウロはこのような厳しい言葉で指摘したのです。すべてのエフェソの人々が、このような生活をしていたわけではないでしょう。しかし、神さまから離れて生き続けるということは、いつもこのような危険性をもっているのです。

 20節から21節、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」。ここで言われていることは、ただキリストについて教理を学習したり、イエス・キリストに関する情報を入手したりすることではなく、キリストが語られる御声を聞き、キリストその方を学び取るという、直接的で人格的な学びなのです。真理が主イエスの内にあるように、キリストから直接聞いてキリストその方を学ぶのが、キリスト者です。

 「新しい人を身に着ける」とはどういうことでしょう。それはキリストを着るということです。生けるキリストとの交わりを与えられた者に起こされることは、キリストを着ることだからです。ローマ書13章14節においても、パウロはキリスト者としての生き方を説く際に、「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と語っています。新約聖書において、「キリストを着る」とは、洗礼を受けることとみなされます。しかし、本箇所はエフェソのすでに信徒となった人たちへの言葉であるので、ここでは、洗礼において身にまとったキリストを、もう一度、身にまとうということです。そして、そのためにするべきこととは、礼拝です。礼拝において、キリストに聞き、キリストに学ぶ。ここで語られていることは、「神を礼拝せよ」「キリストを礼拝しなさい」ということです。このように主を礼拝することは、わたしたちの生活を正しい方向へと変革させます。さらに、滅びに向かっていた人が救われ、信じない人が信じるようになり、古い人が新しくされる。しかし、ただ新しくなるのではありません。新しくされるのは、「神にかたどって造られた人」です。

 ここで思い起こされているのは、創世記1章27節、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」の御言葉です。救われて主を礼拝しながら生きるところで、わたしたちは本来の人間性を回復させられるのです。

 本日の新約聖書箇所は『日毎の糧2022』の聖書日課により、旧約聖書箇所はミカ書6章1節から8節が選ばれています。この箇所は、新共同訳では「主の告発」という題が付けられており、これは預言者ミカによる、南ユダ王国の支配者階級の不正に対する告発です。ミカはイザヤと同じ時代、紀元前8世紀に活躍した預言者で、ユダの田舎町出身であったミカは、故郷の農民や牧畜民との強い連帯感のもとに、エルサレムを中心とするユダの支配階級の横暴を厳しく批判しました。彼らは部族連合に基づく神の法を軽視し、不法によって得た富を用いて祭儀を盛大に行うことによって神の好意を得ようとしました。しかしミカは、神の法の擁護者として、神のまことの言葉を宣べ伝える者として、彼らを告発したのです。

 不正を行う者たちに対して、預言者ミカは「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と厳しく断罪します。神さまがわたしたちに何を求めておられるのか、わたしたちはいつでも知っているのです。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」、これも神さまを正しく礼拝せよとの御言葉です。ここでも神さまを礼拝することの大切さが記されています。

 預言者ミカが告発した不正を行っている者たちのような、「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければ」ならないと、パウロは教えています。そのためには、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語らなければなりません。なぜなら、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と、パウロはその理由を述べています。これは、コリントの信徒への手紙一12章27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べられたパウロの教会論と同じであり、キリスト教会全体の一致と、一人一人の確固たる信仰が求められているのです。

 キリスト者とは、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだ」人たちです。その信仰の輪の中へ、まだ洗礼を受けていない人たち、信仰を告白していない人たちが加われるよう、神さまはいつでも導いてくださいます。主イエス・キリストは多くの苦しみを受けた後、十字架上で亡くなられ、復活することでわたしたち人間のすべての罪を贖ってくださいました。そのキリストの福音と恵みを、一人でも多くの人たちに宣べ伝えて、神さまを心から信頼し、主イエス・キリストを信じ、「新しい生き方」を得て、共に豊かな礼拝を捧げてまいりたいと思います。