2023年2月12日 いやすキリスト 森永憲治牧師

(要約)主イエスはわたしたちが理解できないようなことを数々なされました。奇跡と呼ばれる出来事です。奇跡は神の愛の業です。わたしたちは奇跡によって神の愛を知るのです。愛のない奇跡には意味がないのです。

(説教本文)ルカによる福音書5章12節~26節

先回から私に当たる聖書箇所に奇跡が続いていますので、奇跡について考えたいと思います。

先回も申し上げましたが、奇跡は実は私達の周りでよく起こっていると思います。それが奇跡だと意識しないだけで、誰にでも「いやあ、よく分からないけれどなんとか切り抜けた。」「もうダメだと思ったら、思いがけないところから助けられた。」という想像もつかなかった方法で助かった、振り返って思い出すと不思議だった、ということはあると思うし、皆さんの周囲にもそういうことを聞いたことが少なからずあると思います。

以前説教で皆さんにもご紹介申し上げましたが、ヨハネ福音書の一番初めのカナの結婚式の奇跡ですね。結婚式でお祝いのお酒が足りなくなってしまったとき、イエス様が奇跡を以て上等のお酒を用意した話。あれなどまさに私自身に起きた奇跡でした。ですから私自身が聖書にある奇跡を経験しているので、理屈など関係ありません、聖書の奇跡は本当だし、奇跡は本当にあると言えるのです。

せっかくですので、ヨハネ福音書2章1~11節、カナでの婚礼の奇跡を見てみましょう。

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

この奇跡の話からはいくつかのメッセージを読み取れることがありますが、その中でも母マリアに注意したいと思います。新約聖書でイエス様をよく知り、後生に伝えた代表はその弟子の筆頭のペトロでしょう。しかしよく考えれば分かる通り、新約聖書に登場する人物の中でイエス様と過ごした時間が最も多いのは、母マリアです。この点新約聖書の著作の中で重要な人物はパウロですが、パウロは生前のイエス様にはあっていません。つまり母マリアこそ、母親であるのでイエス様の生まれた時からイエス様を知り、イエス様の伝道の公生涯をずっと共にし、十字架にかかった時もそれを見届けました。母マリアはイエス様をよく理解した人だったと言えると思います。

その母マリアがこのカナの婚礼で、お酒が足りなくなって困った時にこのピンチをくぐり抜けるべくとったことは至極簡単、イエス様にすべてを委ねるでした。5節「5しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」

ただこれだけ。そしてこのマリアの信仰態度こそ、私達クリスチャンは学ばなければならないと思います。それは、困ったことが起こった時にあたふたしない、イエス様にすべてを委ねれば、必ず解決して下さると心から確信し、何も疑わずお任せするのです。それはマリアこそがイエス様と常の共に生活していたからこそ、こうすればイエス様が必ず解決することを知っていたからです。この単純な信仰こそ、クリスチャンの信仰態度でしょうし、そしてこの信仰態度が奇跡を起こすと思います。

さてここでこのカナの婚礼の奇跡でもう一つ注意したい点があります。それはマリアがイエス様に一番はじめに相談したとき、イエス様は4節「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」と、暖かいとは言いがたい態度をお取りになるのです。私達の普通の考えでは、神様を信じてお願いすれば、神様は喜んで望みを叶えてくれる、なんて思うじゃないですか。そうじゃないんです、イエス様は「かんけーねーよ」と言って相手にしてくれないのです。そしてこのイエス様の冷たい返事を受けた後、マリアはそれをイエス様のいつもの通りとばかりに何も気にせず、召使いにあの人の言う通りにしなさい、と言うのです。そして奇跡起こったのです。

このイエス様の奇跡が起こる前の冷たい態度は、ここだけではありません、マルコ福音書7章24~30節をみてみましょう。

07:24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 07:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 07:26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 07:27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 07:28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 07:29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 07:30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

ある外国の女性、ギリシア人がイエス様に助けを求めてやってきました。そこでイエス様の答えは、27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と、その女性を犬呼ばわりしました。侮辱とも言える、これこそまさに冷たい態度としかいいようがないと思います。ところがこの外国の女性は、そのイエス様の冷たい態度に反発することなく、逆に受入れてしまうのです、受入れて、ユーモアで返します。28節「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そしてその時、奇跡は起こりました。

ここに聖書が私達に教える奇跡が起こる順序が書かれていると思います。そうです、私達が神様に困って助けてを求めても、その時は一見冷たく無視されてしまうのです。それは母マリアだろうが外国人の女性だろうが。でもその一見助けを求めても助けてくれないことをいつもの通りだとばかりに受入れる、またはユーモアで笑って受入れる、その時奇跡が起こるのです。

これは私達も学びたいと思います。神様の奇跡をなぜ信じられないかというと、願っても一見それが実現しないからです。しかしこの奇跡が起きる様子を見ると、聖書の奇跡は、まず願っても願いは叶わない、叶わないどころか侮辱を受けるような正反対のことが起きる、しかしそこでああ叶わないと諦めないのです、その一見思い通りにならない現実を、笑って受けいる時、その時思いもよらない形で奇跡が起こる。この聖書の語る奇跡のおこるプロセス、皆さんも思い出すと身に覚えありませんか?そうです、私達はイエス様の奇跡を信じましょう。困難な目の前の現実を、それに対していちいち思い悩むのではなく、一見困難な現実にあっても、実は神様が共にいてくださっているという確信を持ちたいと思います。神様がいる世界こそ、幸せな天国なのです。困難の中でもいつも幸せを感じ、楽しい事、面白いことで頭をいっぱいにし、ユーモアで心をいっぱいにして、祈り続けて過ごしましょう。

さて、本日の聖書箇所では、二つの奇跡が描かれています。一つは5章12~16節の皮膚病を癒やされる奇跡、もう一つは17~26節の、中風を癒やしてもらおうと、その友達が屋根に上って瓦をはがしてイエス様の前に吊り下ろした奇跡です。この二つの奇跡からもいろいろなメッセージが受け取れると思いますが、その一つは5章20節「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」です。

ここで使われている罪のその原語はギリシア語「ハマルティア」が使われていて、ヘブル語の「ハター」に相当します。これはもともと宗教的意味ではなく、単なる失敗、的はずれの意味、いいかえれば目標達成に失敗する、または失敗しているのにうまくいっていると勘違いしている、間違ったことをしているのに正しいことをしていると思い上がっている、などの意味です。そしてこの罪の奴隷状態が私達人間であり、その罪からイエス様が解放して下さる、というのが聖書のメッセージです。

本日の聖書箇所のいやされた人は、その病気がどんな罪を犯したからその病気になったのか、それは書いていないし、むしろすべての人はこうした勘違いの罪人だというのが聖書のメッセージなのですからそれは重要ではなく、すべての人が持っている不幸をそういう病で表していると思います。

そして罪が的はずれという意味であるならば、その的はずれとは、神様から離れて勘違いして生きている状態であり、勘違いを正しいと思い込んでどんどん不幸になっていく人間のことでしょう。

病気になったら、皆さんもちろんまず病院に行って、医者のいうことに従って下さい。しかしそうした中で病気も含めて人間の不幸からの解放は、この罪許されること、すなわち、神様の御心から離れて勘違いして生きているという罪の中にどっぷりはまった状態、その不幸な状態から解放され、神様と共に神様の御心に従って生きることができたとき、幸せに生きることができる、それが奇跡ではないでしょうか。

カナの婚礼でのマリア、小犬の例えで笑い飛ばした女性、そこには、例え目の前の状態が思い通りにならず神様から冷たく扱われているようにみえても、その一見思い通りにならない現実の本質には神様の愛が満ちているのです。その思い通りにならない現実に隠れてしまって目に見えなくなっているがその奥に神様の愛が確かにあると確信してそれにすべてを委ねるのが信仰であり、その時、奇跡が起こりました。これが、イエス様がよくおっしゃっている「あなたの信仰があなたを救った」ではないでしょうか。

ここで奇跡を別の面から見てみましょう。マタイ7章21~23節

07:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 07:22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 07:23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

ここに、仮にイエス様の名前を使って奇跡を起こせたとしても、必ずしもその人は神様の御心にあっている人とは限らないことが分かります。私達はどうしても奇跡というと、何かものすごいことであり、神様の不思議な力が現れる、めったにない価値あるものだ、奇跡を起こす人は神様に選ばれた敬意を表すべき人だ、と思いがちです。しかし聖書はそれをきっぱりと否定します。

では何が大事なのか。例えば皆さんよくご存じのコリント13章でパウロは言いました、

1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

このようにパウロは、奇跡を起こしたとしても愛がなければ一切意味がないといいます。そしていいます、13章13節、

13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

そうです、私達は奇跡をすごいことと思いがちですが、愛こそが一番大事なんだというのが聖書のメッセージです。どんなに困難な時であっても、神様が共にいて下さると確信し、いつも喜んで、感謝して、笑って日々すごす、つまり不平不満に心を向けず常に神様の愛に包まれているのが事実だと信じ、その事実だけに心を向けて幸せに信仰生活を送ること、これが本当の奇跡なのです。