2023年2月5日 信仰の成長 吉岡喜人牧師

(要約)「『種を蒔く人』のたとえ」は主イエスのたとえ話の中でもよく知られたたとえ話でしょう。このたとえをどのように受け取るか、それは時代、状況、受け取る人によって、様々に受け取ることができます。

(説教本文)ルカによる福音書8章4‐15節

早いもので、もう2月ですね。先週は春一番を思わせる強い南風が吹きました。立春を過ぎていないので、季語としては春一番と呼べないのだそうですが、季節が春に向かっていることは確かです。今はまだ冬のピークですが、ピークになったということは峠を越して降り坂にさしかかったということですから、はるか先に春が見えてきたということですね。「冬来たりなば、春遠からじ」ということですね。
 
 今日の聖書個所は、「種まきのたとえ」としてよく知られた主イエスのたとえ話ですが、主イエスは、「冬来たりなば、春遠からじ」ということを語ったのだというのです。どういうことかをお話ししましょう。
 
 主イエスと弟子たちは、農夫が畑に種を蒔くように、神の言葉を人々に語りました。人々の心に種が根付き、芽を出し、成長し、多くの実を結ぶように願いながら、種を蒔きました。人々が神の言葉によって生き、救いの道に向かうように、多くの努力と犠牲を払って福音の種を蒔きまました。しかし、福音の種まきには多くの困難、障害があります。福音の種はなかなか人々の心に届きません。蒔いた種が踏みつけられるように、福音の種が蹴散らされ、種まきが妨害され、鳥が蒔いた種を食べてしまうように、福音の種が失われてしまうことがなんどもありました。やっと福音を受け入れて信仰の道を歩み始めた人がいても、水気のない土地に蒔かれた種が枯れてしまうように、信仰が育たないこともありました。また、種が根付き、芽を出し、成長したと喜んでいたのに、茨が生えて来て、芽の成長を妨害するように、世の力や誘惑などが信仰の成長を妨害しもしました。このように、信仰の種まきは多くの困難や障害がありますが、それに耐えて、あきらめずに希望をもって種まきを続けるならば、必ず多くの実を結ぶ時が来る。多くの人々に福音が届き、主イエスに従う者となって救われる。福音を語る者、福音の種を蒔く者は、そのことを信じ、希望をもって福音の種を蒔き続けよう。これが主イエスがたとえで語りたかったことのようです。
 たとえ話を聞き終わった弟子たちは、自分たちが苦労して福音の種を蒔いていることに大きな意義を覚え、希望を持ち、大いに励まされ、力を与えられて、さらに信仰の種まきという困難な業に取り組んだでしょう。
 
 福音の種まきは、いつの時代でも、どのような土地でも、大変に苦労の多いことです。わたしたちもその例にもれないのではないでしょうか。例えば、家族への福音の種まきがいかに困難なことか、多くの方が経験されていることでしょう。この中には、日曜学校の教師として奉仕してくださっている方も多くいらっしゃいますが、大変な伝道の努力をしても、なかなかこどもたちを洗礼にまで導くことができません。福音伝道の困難を思いながら、あきらめることなく、福音の種を蒔き続けているのです。主イエスの種まきのたとえは、現代の日本にいるわたしたちにとっても大きな励ましです。
 
 しかし、このような聖書の解釈が正しいのか疑問に思う方もいるでしょう。なぜなら、このたとえ話の説明が聖書に書かれているからです。そこにはいまわたしが話したこととは、別の説明が書かれています。また、この悦明に基づいた説教を聞いて来たでしょうし、日曜学校の先生方は、こどもたちに話をしてきたでしょう。
 ここに書かれている「種を蒔く人」のたとえの説明では、福音の種を蒔かれるわたしたちの心が、よい土地、畑であることを求めています。神の言葉を聞くわたしたちの心がよい土地でなければ、信仰は育たない、育ってもこの世の力や誘惑に負けてしまう、だからあなたがたは良い土地になり、蒔かれた福音の種すなわち信仰を成長させ、豊かな実を結ばせるようになりなさい、救われなさい、と種を蒔く人のたとえを説明しています。このたとえの説明がわたしたちが親しんできた説明、解釈ですね
 
 どちらの説明が正しいのでしょうか。
 どちらの説明が正しいということではありません。主イエスの語った言葉は、聞く時代、聞く人によって様々に受け取ることができるのです。
 
 ある年の夏、幼稚園の教師向けの研修会の開会礼拝で、わたしはこのたとえに基づく説教をしたことがあります。参加者が幼稚園の教師であることから、このたとえの中の茨が伸びて押しかぶさってしまう、というところについて、あなたがたは保育者としてこどもの成長を妨げる茨になってはいませんか、こどもが成長して豊かに実を結ぶには、大人が邪魔をせず、自由に伸びさせること、と話しました。同様の話を幼稚園児の保護者にもしたことがあります。このようなことも、このたとえ話から受け取ることができます。
 
 今日の最初の説明、福音の種まきは困難と障害の連続だが、それでも蒔き続けよう、かならず豊かな実を結ぶ日が来る、というたとえの受け取りは、弟子たちをはじめ、福音宣教に携わるものを励まし、力を与えます。
 
 では、聖書に書かれた説明は、どのような時に、どのような人々に向けての説明だったのでしょうか。
 それは、迫害の嵐の中にいた初代教会の人々に語られた言葉でした。初代教会の人々は、福音信仰に固くたち、必死に信仰を守り、信仰に生きようとしていました。しかし、迫害ははなはだしく、信仰を揺るがしかねませんでした。そのような人々への励ましとして、このたとえが教会の中で語られ、解釈されたのです。福音の種をしっかり受け取り、成長させよう、自分たちがよい畑になろう、世の力や誘惑に負けないようにしよう、と互いに励まし合ったのです。彼らは、文字通り必死に福音信仰を守り、育てました。今、わたしたちが福音信仰に与れるのは、この時代の一人一人が、自分の心の畑をよい畑にするという強い信仰によって福音の種、信仰の種を育てたからです。
 
 その後のキリスト教の歴史の中でも、自分の中によい畑を持つことが困難な信仰の道を歩む人々にとって大きな励ましになってきました。例えば、中世の宗教改革の時代に生きた人々が挙げられます。福音信仰が曲げられていた時代に、正しく福音信仰を受け取ろうとした宗教改革者たちは、まず自分の中の畑をよい畑にしました。自分の畑で信仰がしっかり成長しなければ、とても宗教改革というとてつもない困難な事業に取り組むことはできなかったでしょう。彼らは自分たちの畑をよい畑にして困難に立ち向かうと同時に、最初の解釈、すなわち困難の中でも福音の種を蒔き続ければ、必ず豊かな実を結ぶことになることを信じて福音信仰を人々に伝えました。遠藤周作が描いた「沈黙」の中に登場する信徒たち、宣教師たちも同じではないでしょうか。
 
 福音信仰の種を受け止め、根付かせ、芽を出させて信仰を成長させるよい畑を持つ。やがて豊かな実りをもたらす。わたしたちはこのことに望みを置いて、日々困難なこの世の生活をしています。この初代教会のたとえの解釈は、今日を生きるわたしたちにとっても有効かつ必要な解釈ではないでしょうか。
 
 では、どのようすれば、わたしたちの心をよい畑にすることができるのでしょうか。はっきりしていることは、人間の努力ではできないということです。わたしたちの心をよい畑にするのは、信仰です。信仰によって畑がよい畑になり、良い畑によってさらに信仰が成長するのです。このよい循環によって、やがて私たちの畑は豊かな実を結ぶことになるでしょう。
 その日が来ることを信じ、希望をもって、今日も明日も信仰の種を蒔き続けましょう。信仰によって自分たちの畑をよい畑にして、神の言葉がしっかりを根付き、芽を出し、成長ますように、主なる神に祈り求めましょう。