2024年1月14日 イエスとの出会い 小田哲郎伝道師

(要約)イエス・キリストは私たちが出会おうとする前から、私たちに視線を注ぎ探し出してくれます。そして一人の信じる者が次に信じる人を招き、人と人との関係の中でイエスと出会うのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書1章26-51節

 今日の説教題は「イエスとの出会い」ヨハネによる福音書の最初の弟子たちとイエスの出会いの物語です。

 「おーいシモン兄さん、シモン兄さん、大変だよ、ビッグ・ニュース!ついにメシアが現れたんだよ!俺たち、会ったんだよ、ヨハネ先生が洗礼を授けたナザレ出身のイエスって人に。
ヨハネ先生はそのイエスを指さして『見なさい、世の罪を取り除く神の小羊』って言うんだよ。ちょっと意味がわからないんだけど、おとといエルサレムから祭司やレビ人が来てヨハネ先生に「あなたはメシアですか?それともエリヤですか?あの預言者なのですか?」って聞いたときに「そうではない、私の後から来る人がわたしよりもすごいんだ。」と答えていた。そして昨日現れたんだよ、神の子、メシアが。
 ヨハネ先生は「イスラエルにメシアが現れるために私は水で洗礼を授けている。でも洗礼を授けよと言った神様が言った、聖霊が降るのを見たら、その方は聖霊によって洗礼を授ける。神の子だ」と、このイエスのことを言うのさ。だからきっと俺たちが探し求めていたメシアなんだよ。シモン兄さんも、一緒にメシアに会いに行こう」と言ってアンデレは兄弟シモンをイエスの所に連れて行きました。
シモンに会うなりイエス様はシモンを見つめて「あなたをケファと呼ぶことにする」と言われました。

 (「ケファ」というのはアラム語で「岩」という意味ですが、ギリシア語にすると「ペトロ」という呼び方になります。わたしたちの良く知っているイエスの弟子の一人です。)

 しかし、このヨハネによる福音書に描かれたアンデレとシモン・ペトロの兄弟のイエス様との出会いは、わたしたちのよく知っている、漁師のシモン・ペトロとアンデレが湖で漁をしているところにイエス様が通りかかり「人間をとる漁師にしよう」と言われて網をすてて従ったという他の3つの福音書が描く物語とは、ちょっと違っています。アンデレが先にイエス様に出会い、そして兄弟シモンに伝えたというのです。

 この二人のあとに今度はアンデレとペトロと同じ町ガリラヤ湖の北にあるベトサイダ(漁師の家の意味)出身のフィリポにイエス様が出会います。イエス様はフィリポに「私に従いなさい」と言い、フィリポは弟子となりました。そしてイエス様ことをナタナエルに伝えます。フィリポとナタナエルがどんな関係だったかはわかりません。
 ナタナエルはヨハネによる福音書にしか出てこない、ちょっと謎の人物です。ここには、イエスさまとの会話のやり取りはありますが、ここの箇所以後、ヨハネ福音書の最後の21章に名前が記されるだけで、その他には登場することはありません。他の福音書の12弟子のリストにもありません。ナタナエルという名前の意味は、「神が与えたもう」です。そのため、ヨハネ福音書の第6章39節「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」という御言葉から考えて、神が与えてくださったすべての人を指すとも言われることもあります。また他の福音書には、フィリポとバルトロマイという名の弟子がセットで出てくるので、このバルトロマイの別名だとも言われます。真相はわかりません。

 イエス様に出会ったフィリポはナタナエルにこのイエスがメシアだと伝えたのです。「わたしたちは。モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」というのは旧約聖書に示されている奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出した預言者モーセの再来であり預言者たちが指し示すメシア、ローマ帝国の元で搾取に苦しむガリラヤの人々が待ち望んでいる解放をもたらす救世主のことです。

「きのう出会ったナザレ村出身のヨセフの子イエスが、そのメシアなんだよ」とフィリポが一生懸命説明するのですが、ナタナエルはその言葉を信用せず、「ナザレ村から何か良いものが出るだろか。メシアがナザレ村なんかの出身であるはずがないよ」と、言い放ちます。ヨハネによる福音書21章2節にはナタナエルがカナの出身だと書かれています。次週の聖書箇所がカナで行われた結婚パーティーでイエス様が水をワインに変えた最初のしるしの物語ですが、そのカナの場所は同じガリラヤ地方のナザレからガリラヤ湖に降っていく途中にある比較的近くの村ですから、敵対はしていなくても張り合っていたのかもしれません。カナに比べるとナザレは何もないさびれた村だったのでしょう。

 フィリポのようにわたしたちも言葉で信仰を、聖書にこう書いてあるよと、イエス・キリストを家族や友人に伝えようとしてもなかなか響かない、信じてもらえないことがあります。フィリポはそこで「じゃあ、わかってくれなくてもいいよ。別にいいよ」とは言わずに「来て、見なさい。とにかく来てくれ、そして見てくれ」と、諦めずに、熱心にナタナエルをイエス様のもとに連れて行きます。ナタナエルはイエス様に出会えました。
 そして、イエス様はナタナエルを見てこう言います、「見なさい。この人はまことのイスラエル人、神の民イスラエル人だ。正直で裏がない」。そう言われてナタナエルは「どうしてまだ会ったばかりの私のことがわかるんですか?」と驚いたのです。それ以上に、ナザレの出身というだけで「たいしたことないだろう」と見下す気持ちが僅かにでもあった自分のことをイエス様は、嫌味ではなく「まことの神の民イスラエル人、この人には偽りがない」と評価してくされっていることに驚いたのではないでしょうか。
 イエス様は「フィリポがあなたを呼ぶ前に、いちじくの木の下にいるのを見ましたよ」
「いちじくの木の下にいるのを見た」と言われただけなのですが、そこにはあなたが私を知る前に私はあなたを知っていた。ただ見ただけでなく、「まことのイスラエル人として救い主メシアを求め祈っていたあなたを、いちじくの木の下で祈っていたあなたを、私は見つけ出した」とイエス様がおっしゃっていると受け取ったのではないでしょうか?
ですからナタナエルは「ラビ、私の先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王、イスラエルを救うメシアです」と告白したのです。
 
 ヨハネによる福音書にはこのようにアンデレが兄弟シモンを連れて行き、フィリポはナタナエルを連れて行きイエスに出会い従った様子が描かれています。他の福音書との違う、ヨハネが強調する点はそこにあります。私たちもイエス・キリストの「私に従いなさい」という呼びかけに応えてクリスチャンになると言いますが、またそのことを召命と言いますが直接神の声、キリストの声を聞く人は多くはありません。神の声を耳で聞く経験をする人がいることを否定はしませんが、心の耳で聞くという人、聖書を読んでいる時に自分に語りかけられたと感じる人がほとんどでしょう。また、誰かクリスチャンの家族や友人を通して信仰を持つに至ったという方も多いでしょう。ナザレのイエス、福音書を書いたヨハネの表現で言えば、言が肉となって私たちの間に宿られた方、この方がメシア救い主キリストだと、アンデレやフィリポのように証しすることで、教会はこの2千年間イエス・キリストに従う弟子、クリスチャンを生み出し続けてきました。証しは言葉による証しだけではありません。愛の業の奉仕が、神の愛イエス・キリストを証しすることも多いのです。私たちは人との関係の中でイエス・キリストに出会います。今も能登半島地震の中で苦しんでいる人たちは、直接の言葉による宣教ではなく、教会の愛の奉仕の中でイエス・キリストに出会うかもしれません。その苦しみの中にある人々を、救いを求めている一人一人をイエス様から見つけ出してくれることを信じています。

 今、私はアンデレ、シモン・ペテロ、フィリポ、ナタナエルの4人の名前しか挙げませんでしたが、今日読んだ聖書の箇所にはもう一人の弟子がいます。1章35節には「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。」37節「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」そして40節に「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうち一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。」じでは、もう一人は誰?聖書には何も書かれていないので、わかりませんが、古代からこの名前が書かれていない弟子が「イエスの愛する弟子」として知られる弟子で、この福音書を書いた著者であるとか、著者でなくともその名の権威のもとに書かれたと考えられてきました。また、聖書には名前が記されていないということは、そのほか大勢の弟子、この福音書を最初に読んだ初期のキリスト者の共同体、教会につらなるクリスチャン、そして私たちを含む弟子をも含んでいるとも読めます。そのように読みたいと思います。

 この匿名の弟子はアンデレと共に洗礼者ヨハネの弟子としてガリラヤの地で救い主を待ちわびていました。彼らは洗礼者ヨハネが歩いているイエス様を見つめて、目を留めて「見よ、神の小羊だ。この世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を聞いて、イエス様のほうに歩み寄り後ろについて歩いたのです。彼らは「探し求めていた救い主に会えた」という思いはあったかもしれませんが、まだイエス様に声もかけていません。しかし、イエス様のほうから彼らに振り返られました。そして「何を求めているのか」と尋ねられます。イエス様の方からです。「来なさい、そうすれば見る」イエス様に言われるがままついて行き、どこに泊まっているか見ます。見ただけではなく、その日はイエス様の所に泊まり、イエス様と共に過ごして交わりイエス様の教えを聞いたことでしょう。
この5節の間にも「見る」と訳せる動詞が何回も出てきます。この先もにです。そこには出会いの中での、イエスの視線を感じます。言葉のやりとりだけではわからないことが、この視線、イエスのまなざしを通して理解できることもあるのです。「見る」というのは理解することでもあるのです。
そしていつもイエスから従う弟子への視線が先にあります。ナタナエルに対してもそうです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とイエス様はおっしゃいます。
私たちも救い主を探し求めているのですが、私たちが出会おうとする前に、イエス様が見ていてくださり探し出してくださるのです。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあるようにです。(ヨハネによる福音書15章16節)
 
 最後の節に来てまた「見る」という動詞がいくつも出てきます。「それよりも大きなことを、あなたは見ることになる」とイエスはナタナエルに言われます。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」今度は私たちが見るのです。あなたがた、とナタナエルだけでなく弟子たちに語っているのは、私たちにもです。しかし、この光景はどういうことでしょう。すでに気づいている人もいるかもしれませんが、創世記28章12節に描かれたヤコブの夢の光景です。父イサクが長男である兄エサウの与えるはずの祝福をだまして奪い取ったヤコブですが、旅の途中で石を枕に寝ていると天から地上に向かって伸びるはしごがあって天使が上ったり下ったりする夢を見て、その中で神が現れ「地上のすべての人があなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」とおっしゃいました。それでヤコブは目が覚めてから「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」「これはまさしく神の家、天の門だ」といってその場所を神の家という意味のベテルと名付けたとあります。神の家は、モーセが神の民を率いてエジプトを脱出した後には幕屋テントとして、そしてダビデ・ソロモン王によってエルサレム神殿として神が私たちと共にいるしるしとなりました。
 天のはしごを天使が昇ったり降ったりするのをビジュアル的に見るかどうかは別として、福音書を書いたヨハネはこの神の家、神が共にいるということを見る。そして神の約束は「全ての人が祝福に入るまで決して見捨てない」ということを言っているのです。
このヨハネによる福音書の1章はこの福音書のプロローグですが、14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあるように、イエス・キリストが来た今、神は神殿でも幕屋でもなく人として私たちの間に宿られました。
 今日読んだ箇所の中だけでもイエスは、「神の小羊」「ラビ 先生」「メシア 油注がれた者」「神の子」「イスラエルの王」と様々な言葉で呼ばれます。イエスに出会った弟子たちから。それはイエス・キリストへの信仰の告白ともいえます。これからイエスが「この世の罪を取り除く神の小羊」として十字架にかけられ、復活し天にあげられるまでの期間、ヨハネによる福音書を中心に読み進んでまいります。私たちに「来て、見なさい」と招く声は、私たちをイエス・キリストを信じて従う弟子、そしてイエス・キリストを証しして他の友を兄弟を招く者へとならせてくれるでしょう。この福音書の最後に執筆の目的が書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

「苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる」恵み深い主なる神が、私たちに神の子メシア、イエス・キリストを送ってくださったことを覚えたいと思います。苦しみ悲しみの中にも主イエス・キリストが共にいてくださる、私たちの内にとどまって親しく交わってくださることを祈り願いましょう。