2024年1月28日 真理と自由 吉岡喜人牧師

(要約)主イエスはご自身の十字架による死を人々に語り、救いの道を示されました。しかし、主イエスを救い主として信じないファリサイ派などの人々には、主イエスの言葉が理解できませんでした。信仰をもって主イエスの言葉を聞くことによって、救いの道に導かれるのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書8章21-36節

 1月23日、突然のことでしたが、神様はわたしたちの愛する飯島成昭さんを天にお召しになりました。一昨日、葬儀を行って飯島成昭さんを神様の元に送り出しました。神様が命を与えてこの世に送り出し、わたしたちと共に地上の世界を歩んで来た人が天に召されることは悲しく、辛いことです。しかし、一人が天に召されると言うことは、天の国に一人が加えられて永遠の命を与えられることです。神様が直接支配される天の国には、死も、悲しみも、嘆きも、労苦もありません。地上の歩みにおける労苦が全て報いられ、解放されます。ですから、天に召されると言うことは、悲しみであると共に喜びでもあるのです。
 神様がいつわたしたちをお召しになるのか、それは誰にも分らないことです。いつ神様がお召しになってもよいように、良い準備をしてこの世を歩みましょう。イエス・キリストはわたしたちが地上で歩むときも、天国に向かうときも、わたしたちと共に歩んでくださいます。それゆえ、わたしたちキリスト者は、地上の歩みに困難が多くても、平安のうちに歩むことができます。葬儀の中で神様が導いてくださった飯島成昭さんの生涯を振り返りました。飯島成昭さんの歩んで来た道には多くのご苦労がありましたが、キリストに導かれ、キリストに従い、神の民としてしっかりと歩んでいた飯島成昭さんには、神の国が見えていたと思います。はるかに神の国を仰ぎ見て、神の国に望みをおいて歩まれた飯島成昭さんの人生が豊かな人生であったことを神様に感謝します。また、わたしたちも飯島成昭さんのように人生を歩み続けたいと願うものです。
 
 さて、今日の聖書個所は、主イエスがご自身の死と救いについて人々に語られたところです。4つの福音書はすべて、十字架と復活に向かう主イエスの言葉と行いを書き記した書物ですが、今日の聖書個所8章21節で主イエスははっきりと「わたしは去って行く。」と語っておられます。そこには主イエスの話を聞こうとして多くの人がいましたが、その中にファリサイ派の人たちもいました。ユダヤ教の一派であるファリサイ派は、とてもまじめで熱心な信仰者のグループでした。彼らは復活を信じ、救いを求めていました。救いに与るために、律法で定められたことを一生懸命に守って生活をしていました。彼らは、自分たちは律法に従って神との約束を守っているのだから、必ず救われると思っていました。自分たちには罪や穢れがなく、完全な人間であると自負していました。それゆえ、主イエスを救い主として見ることができず、主イエスの言葉の意味をくみ取ることが出来ませんでした。
 主イエスは言われました。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行くところにあなたたちは来ることができない。」
 主イエスが「わたしを捜す」と言われたのは、イエスとは誰なのか、どのような人なのか、イエスという人物像を捜し求めるということです。主イエスがメシア・救い主であることを捜し出す人もいますが、捜し出すことができない人もいます。罪が捜し出すことを困難にしているからです。罪が目を曇らせ、主イエスを救い主として見ることができないのです。
 「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 罪はだれにもあります。それ故、そのままではだれも救われません。救われるには、まず自分の罪を認めなくてはなりません。自分は罪人であることを認め、罪を隠さずに告白して救いを求めるときに、罪は赦され、救いに与ることができるのです。ファリサイ派の人々は救いを求めていましたが、律法に従って生きていることを自負していたので、自分たちに罪はなく、自分たちの救いは確実だと思っていたのです。しかしそれは、大きな思い違いでした。主イエスは言われました。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」主イエスは神の国に向かっておられます。わたしたちを神の国に迎え入れるために、先に神の国に行きます。しかし、主イエスを救い主と信じなければ、主イエスと共に神の国に行くことが出来ないことは明らかです。
 
 罪の自覚のないファリサイ派の人たちは、主イエスの言葉を理解できませんでした。
 「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか。」
 ファリサイ派はなぜ、自殺を持ち出したのでしょうか。彼らは、人は自殺をすると陰府に落ち、そこから出ることができないと考えていました。一方、自分たちは律法に従っているのだから、陰府に行くことはないと思っていました。イエスの行く所は陰府、自分たちの行く所は天国、そのように考えての言葉だったのです。
 
 自分は去って行く、あなたがたはわたしを捜す、しかしあなたがたはわたしの所に来ることができない、という主イエスは、別の機会にも語られています。今日の聖書個所の少し前、7章33節には、
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいるところに、あなたたちは来ることができない。」
 このときもファリサイ派の人々や祭司長たちは主イエスの言葉を理解できませんでした。彼らは言いました。
「いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」
 彼らは主イエスを神の子、救い主と見ることができず、賢い先生と思っていたようです。自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」また「わたしのいるところにあなたたちは来ることが出来ない」という主イエスの言葉を、この世的な場所としてギリシア人たちのところに教えに行くと思ったのです。

 さて、もう一度主イエスがファリサイ派の人たちに言った「自分の罪のうちに死ぬことになる。」という言葉を深めておきましょう。
 まず、主イエスは「罪によって死ぬことになる」とは言っていないことです。でもそうでしょうか。たとえばローマの信徒への手紙には、「罪によって死が入り込んだ」(ローマ5:12)と書かれています。エデンの園のことを思い出してみましょう。エデンの園に住んでいた人に、死はありませんでした。しかし、神を裏切るという罪を犯したことによりエデンの園を追われ、人は死ぬようになった、これが、聖書が語っていることです。しかし、神の思いは、人が死ぬことではありません。人が死を越えることができるようにと主イエスをお遣わしくださったのです。主イエスの十字架の死により、わたしたちの罪が赦され、死からも解放されたのです。それでもわたしたちの罪は無くなるのではありません。主イエスの十字架によって罪が赦されるのです。罪あるまま、主イエスの十字架の贖いによって神の国に迎えていただき、永遠の命を与えていただく、死ぬことのない者となるのです。しかし、主イエスの十字架の死による罪の赦しを信じない者にとっては、主イエスの死は意味のない単なる死です。その人たちは罪を贖ってもらえず「罪のうちに死ぬことになる」のです。

 飯島成昭さんは信仰の人でした。ひたすら主イエスの後を追い、主イエスに信頼を置く人でした。飯島成昭さんが、救い主イエス・キリストの十字架の贖いにより罪を赦され、罪の奴隷から解放され、主イエスの執り成しによって天の国に迎えられ、永遠の命を与えられることを信じます。そして、わたしたち一人一人も罪を赦されて天国に迎え入れられて永遠の命をいただけることを信じ、信仰者としての道をしっかりと歩み続けましょう。