2024年1月7日 主はわたしの砦 吉岡喜人牧師

(要約)わたしたちの人生の道は、山、谷、川など通行困難な道ばかりです。しかし、神は道のところどころに安全な場所用意してくださり、わたしたちの人生の歩みを守ってくださいます。神を信頼して歩みましょう。

(説教本文)ナホム書1章7節 2024年教会聖句

 1月1日の夕方、わたしは年末にしようと思っていた台所の換気扇の手入れをするために、脚立に乗っていました。突然テレビからピロンピロンというあの音が聞こえてきました。緊急地震速報の音です。急いで脚立から降りて揺れに備えようとしました。慌てずに脚立から降りようとしたつもりでしたが、やはり慌てていたのでしょう、足が思うように動きませんでした。揺れが来ません。テレビを見ると地震は能登半島とのこと、どうりで揺れが来ないと思ったところ、再びピロンピロンと音が鳴り、はじめは出ていなかった津波警報が出され、アナウンサーが「津波が来ます。すぐに避難してください。」と叫び続けていました。
 
 地震発生から日が経つに連れて被害状況がわかり始めましたが、思っていたよりもはるかに大きな被害が出ていました。地震の揺れによる家屋の倒壊に加え、予測より低かったとは言え、津波の被害も出ていましたし、火災が発生し、多くの家が焼失しました。倒壊した家の下敷きになるなどして命を落とされた方も多くいますし、行方不明の方も多くいます。
 
 能登半島はこれまでもしばしば大きな地震が発生していますが、2007年の地震では、この地区にある輪島教会、羽咋教会、七尾教会などがことごとく被害を受けましたが、今回も大きな被害を受けています。信徒にも住宅が全壊した方がいます。さらに、被災地の救援に向かおうとしていた海上保安庁の航空機と着陸した旅客機が羽田空港で衝突するという事故が起こってしまいました。旅客機の全員が助かったのは不幸中の幸いでしたが、海上保安庁の4人の方が亡くなるという悲劇になりました。
 被災した方々のことを覚え、祈り、できる限りの支援をしたいと思います。
 
 わたしたちの人生の中では、思わぬことが起こります。計画していたこと、考えていたことと異なることが起きます。わたしたちが歩む人生と言う道には、まっすぐで平らな道もありますが、山や谷や川があり、ジャングルのような道なき道、石ころだらけ、あるいはぬかるんで歩きにくい道もあります。通行止めになっていて、来た道を引き返すこともあります。高速道路のようによく整備されて走りやすく、目的地に直行できる道ばかりではありません。人生の道には近道はなく、むしろ遠回りしなければならないことがよくあるのです。その一つ一つを越えて、旅を続けるのがわたしたちの人生です。
 
 ここにおられる人生の先輩方は、このような道を歩んでこられたわけですが、とくに戦争を経験して来られた方は、考えていたこととは異なる人生になった方も多いのではないでしょうか。あるいは、人生を計画することすらできなかった方も多いのではないでしょうか。及ばずながら、わたしも75年の道を歩んで来て、そのことを少し実感しています。

 NHKの朝ドラ、ブギウギでは、特攻隊の若い兵士たちを前に淡谷のり子さんをモデルにした茨田りつ子さんが別れのブルースを歌う場面がありました。戦争に駆り出され、最前線で戦う兵士は若者です。ウクライナの戦争でも、ウクライナ、ロシア双方で若い人たちが兵士として戦い、命を落としています。兵士たちは戦争が終わったら何をしようかと思い描きながらその日を生きていると言います。希望が、夢があるからその日を生きることができるのだと。しかし、銃弾や爆弾がその人の夢や希望を一瞬にして破壊するのです。

 わたしたち人間が地球の上で生きている以上、生きること、人生の道のりは厳しいものです。日々の食べ物が十分になく、常に飢え、栄養が足りない人々がアジア、アフリカを中心に大勢います。地球温暖化による海面の上昇、また異常気象によって引き起こされる洪水などによって住む場所を奪われる人たちもいます。人身売買、強制労働、強制売春などがいまだに行われている地域が存在します。そのような人生からなんとか抜け出そうにも抜け出しようがない人たちを救い出すために、小田伝道師はタイで働いていました。

 聖書には人生に苦しんでいる人が沢山描かれています。苦しみや悩みなどなにもなくて幸せいっぱいの人は、一人も描かれていないと言ってもよいのではないかと思います。聖書が描く人物は、現実のわたしたちの姿です。悩みや苦しみにあえぎながら、それでもなんとか生きようとしているわたしたちです。
 聖書の中に、詩編という歌集があります。その多くは、苦しみや悩みを神様に訴える歌であり詩です。いくつか読んでみましょう。

「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います。『彼に神の救いなどあるものか』と。」(詩3:2)

「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。」(詩5:2-3)

「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難のとき隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に攻め立てられて、その策略に陥ろうとしているのに。」(詩10:1‐2)

このような叫び声を神様は聞いてくださっているのでしょうか。・・・聞いておられます。しっかり聞いてくださっています。神様は声なき声でわたしたちに語りかけ、見えない手を差しのべてくださいます。もし、叫びを聞いてくださっていなければ、聖書は空しい書物にすぎず、存在価値を失い、消えて行ったでしょう。しかし、叫びを聞いてくださっていたから、聖書は数千年を経て、今もわたしたちに間にあるのです。苦しみの中で叫ぶ声を神様が聞き届けてくださった、その証の書物が聖書であり、今も私たちの耳に神の声を届けているのです。

 南三鷹教会では、毎年、特定の聖句を選んで、教会聖句としています。聖書の言葉はどれも素晴らしく、わたしたちが悲しんでいるときの慰めとなり、力を落としているときの生きる力をなります。その中で、今年は特にこの聖句に親しんで一年を送りましょう、という主旨で教会聖句を選んでいます。今年は、預言者ナホムを通して語られた神の言葉です。

「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」

 砦と訳された言葉の元の意味は、「安全な場所」です。危険があった時に逃げ込む安全な場所です。逃げ込む安全な場所があれば、安心して行動することができます。人生という道のあちらこちらに神様が安全な場所となって私たちを守ってくださいます。苦しいとき、悲しいとき、悩むときには神様に向かって叫び声を挙げてください。神様は、その声を聞いて、あなたを安心できるように守ってくださいます。

 主に身を寄せるは、神様を信頼することです。信頼とは、信じて頼ることです。人は一人では生きていません。生きていけません。人は助け合って初めて生きることができます。しかし、人生の中で、孤独を感じることがあります。人を頼れないことがあります。しかし、どのような時でも、神様は頼る者をそのままにはされません。神を頼る者を必ず助けてくださいます。助けがどのような形で来るのか、それはわかりません。しかし、神は頼る人を助けてくださる、そのことを信じましょう。信じて頼ること、それが信頼です。

「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。」

今年の教会聖句に語られている神の愛と恵みの言葉に励まされて、人生と言う道を一歩ずつ歩み続けましょう。