2024年3月17日 主イエスの栄光 吉岡喜人牧師

(要約)十字架の死を前に、主イエスは「自分の命を愛する者はそれを失うが、自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と言われました。人の命を大切にしてくださる主イエスの言葉として、違和感を感じませんか?

(説教本文)ヨハネによる福音書12章20-36節

2月14日灰の水曜日から始まった約6週間の受難節は、残り2週間となりました。来週はいよいよ主イエスの十字架の時、受難週になります。心してこの時を過ごしましょう。受難節の中の主日では、主にヨハネによる福音書によって主イエスの足取りをたどって来ました。主イエスの足取りとは、十字架に至る道を歩んでおられる主イエスの足取りです。先週はラザロの復活の後の出来事として、ラザロの姉妹であるマリアが主イエスの足に香油を塗って主イエスの葬りの準備をした出来事を記した聖書が読まれ、その説き証が語られました。今日の聖書の言葉によってさらに一歩主イエスの十字架への道のりを辿りますが、受難週を前にして、わたしたちの心が十字架への備えとなるようにと祈りつつ、聖句の説き明かしを進めたいと思います。

 まず今日与えられた聖書の最後にある主イエスの言葉に耳を傾けましょう。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない、光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
 主イエスの言葉を聞いた弟子たちですが、主イエスに十字架の時が迫っていることを知りません。すぐに暗闇が来る、十字架によって自分は死に、暗闇の時が来る。暗闇の中で道に迷って滅びの道に入らないように、光である自分を信じて、光のあるうちに、道を見つけて歩きなさい、光の子となりなさいと主イエスは弟子たちに語ってくださっています。
弟子たちへの言葉、光の子となりなさい、光の中を歩みなさい。それは私たちへの言葉です。わたしたちは自分で光ることが出来ません。そのままでは暗闇の中を歩まなくてはなりません。暗闇で道に迷い、滅びの道を辿ることになりかねません。わたしたちは、主イエスの光の中を歩むのです。主イエスの光は真理の光であり、救いの道、永遠の命に至る道を照らして導いてくださる光です。

 永遠の命がどのようにして与えられるのかということについて主イエスは、自分の命を愛する者は永遠の命を得ることはできない。自分の命を憎む者が永遠の命をあたえられるのだ、と言われました。どうして自分の命を愛する者には永遠の命が与えられないのでしょうか。どうして自分の命を憎む者に永遠の命が与えられるのでしょうか。主イエスは命を大切にされる方ではありませんか。なぜ主イエスは矛盾とも思えることを言われるのでしょうか。
 
 神様が世界を創造された時、神様はわたしたちをご自分にかたどって創造されたと聖書は語っています。また、人間に神の息、すなわち霊を吹き込んだとも語っています。人間は、肉体的には他の被造物を同じ生物的な命をもっていますが、さらに他の被造物にはない霊的な命をもっています。肉体的な命に加えて、霊的な命を与えられていることが、人間と他の被造物の決定的な違いです。ですから、人間として生きると言うことは、肉体的な命を生きることと同時に、霊的な命を生きることなのです。人間として生きるということは、肉体と霊との両方の命を生きることです。
ところが、とかく人間は肉体としての命を重んじる傾向が強く、霊的な命を粗末にしてしまいがちなのです。肉体的な命に執着して貪欲になり、より肉体的な満足を得ようとします。強い者が弱い者から奪うようになります。人の命を奪っても肉体的な欲望を満足させようとさえします。人間は愛の対極にある憎しみという感情を持つようになりました。憎しみで人を殺すことさえしてしまうのが、わたしたち人間です。わたしたちがそのような醜い存在であることは、肉体的に、精神的に、社会的に力や立場の強い者が弱いものから奪い取る略奪や搾取、戦争を仕掛けて土地を奪い取ることなどが繰り返されている歴史が証明しています。今も世界各地で侵略戦争、民族や異なる考えを持つ者への迫害、人身売買、巨大資本による弱者からの搾取などが行われ続けています。これらのことを行う者は、霊的な命が損なわれています。人間としての感性が失われ、そのことに気付くことすらできなくなっています。主イエスが言われる「自分の命を愛する者」とは、このような人々、肉体的な命にこだわる者のことです。人間を人間とする霊的な命を大切にせずに、肉体的な命ばかりを大切にする者のことです。主イエスは言われます「自分の命を愛する者は、それを失う。」  肉体的命にこだわる者は、霊的な命を失うことになるのです。霊的な命を失った者はもはや人間ではなく、人間の姿をした人形になってしまいます。
 
 主イエスは言われます。「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」肉体的な命に固執せず、霊的な命に生きようとする者が、永遠の命を得るのです。人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。(マタイによる福音書4章4節)

 主イエスが永遠の命の話をされたのは、ギリシア人の訪問を受けた時のことでした。この時代、ローマ帝国の各地にユダヤ人が住んでいました。ユダヤ人は主の民である意識が高く、世界のどこに住んでもヤハウェの神を信じ、律法を守っていました。このユダヤ人たちの信仰や律法に従う生活様式を見て、ユダヤ教に好感を持つギリシア人たちからユダヤ教に改宗した者がいました。熱心なギリシア人ユダヤ教徒の中には過越祭のためにエルサレムに巡礼に来る者もいました。彼らはエルサレムに来て主イエスの評判を聞いたのでしょう、主イエスに会ってみたいと主イエスを訪ねてきました。ギリシア人であることで遠慮があったのでしょうか、弟子のフィリポに取次ぎを頼みました。
ギリシア人が主イエスを訪ねて来たと聞いた主イエスの言葉は少し不思議です。「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われたのです。ギリシア人が訪ねて来たことと主イエスが「栄光を受ける時が来た」と言われたこととの関連は、謎です。しかし、ギリシア人が主イエスを訪ねて来たということは、ユダヤ人を越えて世界の人々に福音が伝わったということです。それは、使徒言行録の冒頭に記されている主イエスの言葉、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)その時が来た、時が満ちたということだったのではないでしょうか。

 わたしたちキリスト者は、霊的な命を大切にします。この世で生きて行くために肉体的な命は大切ですが、肉体的命はいつかは終わります。しかし、霊的な命は残ります。霊的な命は残りますが、永遠とは限りません。永遠の命をいただくためには、主イエスの執り成しがなければなりません。主イエスに執り成していただくためには、主イエスを救い主として信じなければなりません。
主イエスは言われました。「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この言葉の後に、「自分を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を愛する者は、それを保って永遠の命に至る。」と言われたのです。一粒の麦が地に落ちて死ぬ、とは、もちろん主イエスの十字架の死のことです。自分は、多くの人の命を救うために、自分の命を捨てることを言われたのです。そして、そのこと、主イエスが十字架によって死ぬことは、栄光を受けることなのだと言われるのです。
死ぬことが栄光を受けることとは、この世的な価値観からは生まれてこないでしょう。この世的な価値観は、先ほどの言葉でいえば、肉体的な命を満足させるためと言うことです。しかし、主イエスは、肉体的な命に固執することがありませんでした。ご自分の肉体的な命と引き換えに、わたしたち全ての人間が永遠の命を得られるようにしてくださったのです。そのことによって神の栄光が現れると主イエスは言われたのです。主イエスの十字架は、この世的な価値観、肉体的な命にとっては滅びですが、霊的な命にとっては神の栄光が現れることなのです。

 来週は受難週、まもなく主イエスは一粒の麦として十字架の死を迎えます。その死によってわたしたち全ての者に豊かな実としての命を与えられます。永遠の命の道に迷わずに進み行くことができるように、闇に飲み込まれることが無いように、主イエスの光の中を、光の子として歩みましょう。