2024年3月24日 裏切りと赦し 小田哲郎伝道師

(要約)イエスが逮捕された後、「あなたもイエスの弟子」でしょうと問われ3度否定したペトロ。そんな弱さを受け入れて赦すイエスは、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」として自ら進んで十字架の道を歩まれるのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書18章15-18,25-27節

教会の暦もレントと呼ばれる受難節の第六週となりました。今週は受難週として覚えます。クリスマスの前のアドベントの約4週間と比べると、このイースターまでの40日間のレントの期間は大変長い道のりに思えますが、来週はいよいよ主イエス・キリストの復活祭イースターです。イースターの前の週の日曜日を世界中の教会で棕櫚の主日 Palm Sundayと呼んでいますが、これはイエスさまが十字架にかかり3日目に復活した日から数えて1週間前にエルサレムに入城されたとき、群衆がナツメヤシの枝をとってきて歓迎したことからそう呼ばれます。
ヨハネによる福音書12章12節にこうあります。
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」

さきほど讃美歌21―307ダビデの子、ホサナと歌いましたが、その場面です。「ホサナ」というのはイエスさまの時代に人々が話していたアラム語で「どうか私たちを救い給え」という意味です。ここで人々が叫んでいるのは詩編の118編25,26節の引用「どうか主よ、わたしたちに救いを。/どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。/わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」という箇所です。しかし、このイエスのエルサレム入城の時の歓迎ムードはこの後一変します。

聖書日課で与えられた聖書箇所はヨハネによる福音書18章全部でしたが、この礼拝ではその一部に絞ってみ言葉に聞きたいと思います。今年は、最後の晩餐を記念する洗足の木曜日の聖餐式を含む夕礼拝だけでなく、イエス様が十字架に架けられた金曜日の受難日にも息を引き取られた午後3時に受難日の礼拝を行います。そこでは、ヨハネによる福音書の18章と19章から受難の物語を読んでいきますので、今日の礼拝ではペトロの否認、ペトロが3度イエス様を知らないと言った場面をヨハネによる福音書はどう描いているか、また私たちに何を語りかけるかを聞きたいと思います。

18章15節からお読みいただきましたが、背景を知るために18章の最初に戻りたいと思います。1節に「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」とあります。他の福音書では過越の食事、最後の晩餐の後、イエスは弟子たちとオリーブ山に向かったとあり、ゲッセマネと呼ばれるところでイエスが祈ったことが記されています。このヨハネによる福音書にあるキドロンの谷というのはエルサレムの町、シオンの丘にあるのですが、そことオリーブ山の間にある谷がキドロンの谷です。そして園と書かれているのはゲッセマネの園のことです。しかし、ヨハネによる福音書ではイエスが「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈った場面は描かれず、いきなり12弟子の一人で裏切り者のユダが、武器やたいまつ、ともし火をもってイエスを捕らえに来た兵士や祭司長たちファリサイ派の遣わした下役(しもべ)たちをこの園に案内してきます。

12-14節には、彼らに捕らえられたイエスは縛られて、アンナスのところに連れて行かれたとあります。この年の大祭司カイアファのしゅうとだとあります。祭司長たちや大祭司と言う言葉がでてきますが、旧約聖書から読んでいる人はエルサレム神殿で小羊を屠って献げたりする宗教的な役割、今の時代でいえばカトリックのローマ教皇のような宗派のトップのような印象を受けるかもしれませんが、イエスの時代はそうではなく、もっと政治的だったようです。新共同訳聖書の後ろの付録に用語解説があって祭司長という項目があります。そこには、
祭司長(さいしちょう)祭司の頭。元来、祭司の最高の職位である大祭司はただ一人で、終身の世襲制であったが、イエスの時代には権力者の意思で、生きているうちに退位させられることもある。新約で祭司長たちとあるのはこのためであろう。つまり、現職の大祭司のほか、かつての大祭司の職にあったものを含む。
とあります。その上の最高法院という項目を見ると
最高法院(さいこうほういん) ユダヤ人の自治機関。イエスの時代には、大祭司を議長とする71人の議員で構成され、行政と司法の権限を持つ会議であった。ユダヤ教の律法に関する最高法廷として、死刑を含む判決を下す権限をもっていたが、最終的には総督の裁断を仰がなければならなかった。
とあるように、大祭司は行政・議会・司法のトップでもあったのです。最終的にローマ帝国のこの地方の支配者である総督の裁断を仰ぐ必要があったので、最高法院のあとポンテオ・ピラトの所に行き十字架につけるように要求したのです。
さて、このアンナスはローマ帝国のシリア総督キリニウスによって大祭司に任命されたようです。その後別の総督に解任されたのですが、娘婿のカイアファが大祭司に任命された後も実権を握っていたようです。ですのでアンナスのことも「大祭司」と呼び、正式な最高法院で裁かれる前に陰の権力者「大祭司様」アンナスのところにイエスを縛って連れて行ったと福音書記者ヨハネは描くのです。(ちなみに他の福音書では最高法院が開催されるカイアファの屋敷に連れて行かれたことになっています。)

さて、ここはイエスが連行されてきたアンナスの屋敷です。イエスについてきたのは二人の弟子でした。これもヨハネ独自の記述です。シモン・ペトロの他にもう一人の弟子がイエスに従ったことが書かれていますが、名前は明かされません。ただ、この匿名の弟子が大祭司様アンナスと知り合いだったのでイエスと一緒に中庭に入ったとあります。なぜ、アンナスの知り合いだったのでしょう?イエスの遺体を引き取ることを申し出たアリマタヤのヨセフと同じく最高法院の議員のような有力者でイエスのシンパだったのか、それとも他の弟子たちのようにガリラヤの漁師で魚でも収めていたなのか、諸説ありますが、何もここでは明かされていません。

一方で、ペトロは中に入れず門の外で立っていたのです。それで、この匿名の弟子が門番をしている女中に話をつけてペトロを中に入れたのでした。そこでこの女中は
「あなたも、あのイエスという人の弟子の一人ではないか」とペトロをイエスの弟子と認識したのです。
「あなた、イエスの弟子でしょう」と言われて、ペトロは即座に「違う」と否定します。最初の否定です。それでも大祭司様の屋敷から逃げ出さずに、中庭で部下や使用人が暖をとるために炭火をおこしているところに一緒にいたのです。
少しとんで25節はこの続きです。今度は、この一緒に火にあたっている連中が「あんたあのイエスという男と一緒にいたイエスの弟子の一人だろう」というと、ペトロは「違う」と二回目の否認をします。
そしてもう一人の他の福音書には出てこない人物、ゲッセマネの園でペトロに片耳を切り落とされたマルコスという男の身内の者が登場します。マルコスという名前も他の福音書には出てこず、ペトロに剣で片耳を切り落とされたのは大祭司の名も無い手下です。このマルコスの身内の男が「いやいや、ゲッセマネの園でイエスと一緒にいるのを私に見られたではないか」と言うと、三度目に「違う」とペトロは否定しました。
その時、鶏が鳴いたのです。

福音書記者ヨハネはペトロが鶏の声を聞いてイエスの言葉を思い出して声をあげて泣いたとも、イエスが振り向いてペトロを見つめたとも、他の福音書のような感情あふれるドラマティックな記述をしません。ただ、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と淡々と事実を書きます。
ヨハネにおいても13章で「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とイエスが予言しています。その前にペトロはイエスに「あなたのためなら命を捨てます」とまで言っているのです。
しかし、命を捨てるのはイエスのほうです。ペトロではありません。
ペトロはあの時は本当に命を捨てる気持ちがあったのかもしれません。剣でマルコスの片耳を落としたときも命をかけてイエスを守る気だったのかもしれません。
しかし、ペトロはイエスが言ったように三度もイエスの弟子ではないと否定しました。

彼は、イエスを裏切ったのでしょうか?裏切り者と呼ばれるユダは、確かに大祭司の手下を手引きしてイエスが逮捕されるのを手伝いしました。しかし、それも神の計画の中にあったのではないでしょうか。「裏切る」と訳されている言葉の元の意味は「引き渡す」ということです。イエスに敵意を持つ者に引き渡す、逮捕し処刑するものの手に引き渡す。それがユダの行ったことです。そしてピラトも死刑宣告をし祭司長たちにイエスを引き渡しました。
イエスはただ裏切られて引き渡されたのでしょうか?受け身であったのでしょうか?
最初に言ったようにヨハネによる福音書にはゲッセマネでの苦悩の祈りはなく、18章11節でイエスは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言っています。イエスはまた、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ともおっしゃっています。そのことが天から、この地に派遣されたイエスの使命だと、ご自身が理解していたのです。そして、そのことは旧約聖書の預言者が神の計画として預言していることでもあります。本日の賛美交読ではイザヤ書53章を読みました。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに 平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

その私たちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。このことが成し遂げされるためでした。これがイエスの言われる受けるべき杯、十字架の死です。

大祭司様の屋敷の中庭にいるペトロに戻りましょう。
ペトロはイエスの弟子であることを否認しつつも、イエスの尋問が行われているそばに居続けようとしたともいえます。先ほどの大祭司様の知り合いの弟子以外はペトロのほかイエスについて危険を冒してここまで来た弟子はいませんでした。それもイエスが逮捕されるときに、「わたしを探しているのなら、この人々、つまり弟子たち、は去らせなさい」とおっしゃったのですから弟子たちが逃げたのも当然かもしれません。
もちろんペトロは鶏の鳴き声を聞いたときに、イエス様が「わたしのことを三度知らないというだろう」とおっしゃった言葉を思い出し、イエス様のためなら自分の命を捨てると言った自分の言葉を恥じ、弱さを認めたにちがいありません。

ペトロが屋敷の中庭でこのようなやりとりをしている間、アンナスはイエスに弟子たちのことや教えについて尋ねていました。これは、どうやらイエスを偽預言者として裁こうと疑いをかけているようです。ユダヤ教の教えのなかでは偽預言者のしるしは、公然とではなくこそこそとそそのかしたり、間違った教えに導いてイスラエルの神から人々を離れさせるというものでした。それで弟子たちについて、教えについて尋問しているのです。しかし、イエスは「公然と会堂や神殿の中で教えた。ひそかに話したことは何もない」と言い、何か悪いことをしたのであれば証明しなさい、と堂々としているのです。
イエス様の堂々とした姿、主体的に十字架へと向かわれる姿と対比されて、ペトロの弱さ、状況に流されて自分の意思を行えない弱さが際立ちます。それは私たちの弱さでもありますが、弱さがより浮き彫りにされるのです。

しかし、どうして聖書はこのようなペトロの弱さをわざわざ書き残すのでしょうか?イエス様が神の計画に従って私たちを罪の奴隷から死の恐怖から解放し救い出すために、私たちの罪を背負って十字架にかけられ、そして復活したということを福音として伝えればよかったのではないでしょうか?その事を信じる者は永遠の命に入ると宣言すれば良かったのではないでしょうか?

福音書記者ヨハネは、ペトロが三度イエス様の弟子であることを否定し、ペトロの涙もイエスの姿も記しませんでした。しかし、このヨハネは福音書の最後21章15節以下に復活したイエス様がガリラヤ湖畔でペトロたちに現れたとき、裸同然だったペトロは恥ずかしくて漁をしていた舟から水に飛び込んだ様子を描きます。そしてイエスがペトロに「私を愛しているか」と3度聞き、「私の羊を飼いなさい」と告げる場面を加えています。これは明らかにあの大祭司の屋敷の中庭で3度イエスの弟子であることを否定したことに対応しています。これはあの時のペトロの弱さをすべて受け入れ、赦したということだと私は受け取ります。
イエスの弟子ではないと否定してしまう私たちの信仰の弱い所も、3度だけでなく何度でも、何度でも赦してくださるのです。「私を愛しているか」と問いかけながら。
これは、一度の失敗でも多くを失うこの世の人生においても、何度でもやり直せる、何度でも敗者復活戦があることを私たちに告げてくれます。

そしてイエス様が良い羊飼いとして羊のために命を捨てたように、今度はペトロが羊を飼い、良い羊飼いとして生きることを求められているし、どのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示しています。ペトロは今度こそ命を捨てますと強がるのではなく、自分の弱さを認め、今度は自分をイエス様に引き渡しました。そのことによってその後、良い羊飼い、教会を建てあげていく者へとペトロは変えられたのです。

私たちの弱さをよくご存じの神さまは、そのためにご自分のもとからイエス様をこの世に遣わし、十字架への道を歩まれたのです。私たちの病を、悩みを、弱さを共に担うために、十字架にかけられたのです。そして赦された私たちは、どう生きるのか、イエス様は十字架の上から問いかけます私たちにも問います「私を愛しているか」「私を愛しているか」「私を愛しているか」と。