2024年3月10日 本当に大切なこと 小田哲郎伝道師

(要約)

 死んだはずの兄弟ラザロを蘇らせたイエス様に愛の応答としてナルドの香油という全財産を献げたマリア、その油を塗る行為はイエス様の十字架への準備でもありました。私たちは、何を主に献げることができるでしょうか。

(説教本文)ヨハネによる福音書12章1-8節

 受難節も第4主日となりました。イエス様の道も十字架へと近づいてきました。それは苦しみだけではなく人としての肉の体の死をも意味します。このところ私が経験しているのは突然の死であって、病院の病床やご自宅で最後を看取るという経験はしていません。一昨日、牧師の学びの場である牧会事例研究会で、世界祈祷日の東京集会でもメッセージをしてくれた関野牧師、コロナ禍のピーク時のアメリカの病院でチャプレンをして日本に帰ってからも大阪のキリスト教系ではない病院でチャプレンを務める彼から学びました。病院で危篤となって、いよいよ最後というときに日本では「残念ですが。。。」とか「ご愁傷さまです」とか「頑張りましたね」という言葉が語られますが、そんな暗い言葉ではなく、私たちは誕生した時にかけられた言葉、「生まれてきてくれてありがとう」「愛しているよ」という言葉を聞きたい。祝福の言葉で送り出したいと教わりました。意識は無くても耳元で言われていることばが、怒りや悲しみの言葉から感謝や愛情に変わるようにするのも牧師の務めであることを学びました。死を間近にしても、我が子の誕生の時のようなポジティブな明るい時、祝福の時にするのです。受難週の半ばに読まれる今日の聖書のシーンもそのような雰囲気をもっています。

 「ナルドの香油」「マリアの油注ぎ」あるいは「イエスの塗油」と呼ばれる本日の聖書箇所が好きという方も多いのではないかと思います。5つのパンと2匹の魚を5千人に分けてたべた話と並んで(もちろん十字架と復活も!)、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ4つの福音書全てに含まれている、それぞれの福音書が書かれた初期のいろいろな地域の教会にとっても、福音書に含めて世界にそして後世にも伝えるべき重要な伝承でした。マタイとマルコによる福音書にイエス様の言葉として「世界中どこでも、福音が述べ伝えられるところでは、この人(マリア)のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われているようにです。

 しかし、話の細部は福音書によって少しずつ違いがあります。例えばヨハネによる福音書の12章1節で、この出来事が起こったのは過越祭の6日前とされていますが、マタイとマルコによる福音書では過越祭の2日前となっています。場所はマタイもマルコもヨハネと同じベタニア村でのこととしていますが、その食事に招かれたのは重い皮膚病の人シモンの家であったと特定されています。一方でルカによる福音書は同じシモンの家としていますがファリサイ派のシモンがイエスを食事に招いたとあり、時期と場所は明確に書かれていませんが、ガリラヤ地方での宣教の途中であったと文章の前後の流れから読み取ることができます。
 誰が香油をイエスに注いだのかも異なっているのです。マタイとマルコは一人の女としか記しません。ルカは一人の罪深い女とします。マグダラのマリアだと見なされることも多いのですが、その根拠は聖書にはありません。そして私たちが今読んでいるヨハネによる福音書ではマリアはマリアでもマルタの姉妹でラザロとも兄弟関係になります。アリアとマルタの姉妹のことは皆さんよく覚えているでしょう。多くの女性信徒の方が、私はイエス様を家に招いてもてなしのために忙しく働きまわるマルタだ、いや私はじっとイエス様の足もとでお話を聞いているおとなしいマリアのタイプだわ、などと言ったりします。これはルカによる福音書に書かれている姿です。しかし、このヨハネによる福音書でもマルタはイエス様を招いた夕食の給仕をしています。
 そしてマタイとマルコではイエス様の頭に香油を注ぎ、ルカとヨハネでは足に香油を注いで髪の毛でぬぐった(正確にはルカのほうは涙でぬらして髪の毛でぬぐってから香油を塗った)とあります。
 福音書による違いはこのあたりにしておき、あとは各自読み比べてみてください。新共同訳聖書だと小見出しの「ベタニアで香油を注がれる」の横に括弧書きでマタイとマルコによる福音書の並行箇所が示されています。ルカによる福音書は異なる場面と理解されているのでしょうか、そこに含まれていませんが7章36-50節が相当する箇所になります。
 先ほど歌った讃美歌21の567は前の54年版讃美歌の391番にもありました。私もこちらの歌詞のほうが頭に残っているのですが「ナルドの壺ならねど ささげまつる わが愛」とあって、この文語調の「ならねど」の意味がよくわからなかったのですが、それよりもおかしいのは、ナルドの壺というのが、ナルド地方でつくられた壺だと思い込んでいました(ルルドの泉と勘違いしたのでしょうか)。壺というのはマタイやマルコに書かれているナルドの香油の入った石膏の壺のことで、ナルドというのは地名ではなく香油の原料になる植物ナルドスタキスの名前にゆらいするヘブライ語のネルドだということがようやく分かりました。日本名は甘松(かんしょう)というそうです。インド北部のヒマラヤが原産地で、旧約聖書の雅歌1章12節や4章の14節にも出てきますから、その当時からインドとの交易があったのでしょうか。古代ローマでは好まれた香料のようですが、現代人にはあまり良い香りではないのか、今はあま使われていないそうです。
 ともかく、この香油はとても高価なものでマリアが持ってきた1リトラ、リトラというのは重さの単位で約326gだそうですが(聖書の後ろの付録の度量衡および通貨にあります)、それが当時の貨幣価値で300デナリオン、1デナリオンが農園労働者の1日の賃金だというのですから1年分の収入、今の日本で言えば250万~300万円くらいの大変高価なものだったようです。その高価なナルドの香油をマリアはイエス様の足に塗り、自分の長い髪の毛でぬぐったのです。すると「家は香油の香りでいっぱいになった」とヨハネは記します。

 高価な香油の香り、マリアの愛の香りが家に満ちているのです。高価な香油はマリアの家族が金持ちだったから嗜好品として持っていたのではないでしょう。財産として母親から受け継いだのかもしれません。おそらく持っている財産の中でも、最も高価な香油をイエス様に献げたのでしょう。持てるもの全てを、最も良いものをイエス様に献げたのです。それはイエス様がくださった命への応答でもあります。
 
 今、イエス様と同じ食卓についている兄弟のラザロは病気で死んでから4日の後にイエス様によって生き返らされた、あのラザロなのです。マルタが「4日もたっていますから、もうにおいます」と言ったのですが、死の腐敗のにおいはなく、生き返ったラザロはイエス様と一緒の食卓について、生の香りがします。愛する兄弟ラザロの回復を祝っての晩餐だったのかもしれないと想像することができます。今、この家には愛の香りが充満しています。
 香りは旧約聖書の中では祝福の意味もあります。神さまからの祝福に応答して、神殿で礼拝し感謝の献げ物をして祭壇で屠った肉をすべて焼いて香りを天に昇らせるのです。ですから、この家の中も普段客人を招くときに使う僅かな香油ではなく、全て注いで礼拝するのです。全てを使うなんて常軌を逸していますが、これがマリアのできる最大のイエス様への礼拝です。愛の香り、祝福がこの家を満たしている、そんな明るいシーンであるでしょう。

 しかし、この箇所の前後には不穏なにおいがします。11章の53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とあり、57節「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」そして、直後の12章9節以降には、「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうとはかった。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」とあります。
 ヨハネによる福音書に書かれたイエス様がおこなった7つのしるしの最後のしるしである、ラザロの蘇りが、大祭司、祭司長やファリサイ派たちがイエス様を捕らえて殺すという企ての最後の引き金になりました。しかし、大祭司カイアファがイエス様の死について預言したのは、神さまのご計画を告げたのだと記されています。イエス様の逮捕と十字架の死はヨハネにおいては受動的な出来事ではなく、神さまのそしてイエス様ご自身の能動的な苦難と死に向かう動きなのです。だからこそ、イエス様はマリアが高価な香油を無駄に使っていると抗議する弟子のイスカリオテのユダに向かって「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言います。すでにイエス様はご自分から死に向かって歩んでいて、逮捕されて死ぬことを覚悟で翌日にはエルサレムに入るのです。その死の準備のためにマリアはイエス様に油を塗るのです。この塗油の行為は、葬りの準備ということと同時に「油を注がれた者」という意味のヘブライ語メシア、ギリシア語に訳すとキリスト救い主であることを言い表します。元来油注ぎというのは、王に祭司や預言者が塗油をして王位につけるために行っていたのです。昨年5月のイギリス国王チャールズの戴冠式でも、戴冠式というので冠を乗せるのが重要と思われるのですが実は聖別した油を塗油することが、それ以上に重要な儀式なのです。ヨハネによる福音書の場合にはマリアはイエス様の足に油を注ぐのですから、主イエスが弟子の足を洗った洗足の出来事についても指し示し、低きに降った謙虚なメシアを指し示している、象徴的に現しているのです。このキリストの謙虚をギリシア語で無という意味のケノーシスと言いますが、このあとに歌う賛美歌21の513番には楽譜の右上に英語でSacrifice(犠牲)とありその横に括弧のなかにKENOSISと書かれています。

フィリピの信徒への手紙2章6節からのキリスト賛歌と呼ばれる古くからの信仰告白をそのケノーシスと呼ぶのです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

讃美歌21 513番の作詞をしたフランシス・ハヴァーガルは、ドイツのある牧師の書斎で「この人を見よ」という題が付けられた絵に出会いました。絵のの下には、その絵を描いた画家のことばが書かれてありました。「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしたか」その画家のことばをもとに、私たちがイエス様の十字架の愛にどのように応えるかという歌詞の賛美歌を作りました。それが513番の「主はいのちを」の讃美歌です。
 イエスの死と復活を先取りするかのように、兄弟のラザロが死からよみがえらせたことからイエスこそ救い主メシア、キリストであると信じたマリアはその財産の全てともいえる香油を献げて神の愛に応えました。この讃美歌では「惜しまず命を捨てた主イエスに、私はどう応えようと」歌うのです。
 
 しかし、そんなマリアの純粋な神の愛への応答に水を差す輩がいます。イスカリオテのユダの言葉が愛の香りが充満した部屋に冷たく響きます「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか。」今、お金を必要としている貧しい人々がいるというのに、なんと無駄なことをするのか。救い主は貧しい人々を貧しさや苦しみから解放するために来たのではないか?それに協力するのが当然だろう。
確かに、マリアのしていることは非常識なことでしょう。そんな高価な香油を全部足に塗ってしまうのですから。
ユダの言葉に同意してしまう自分がいます。今でも、万博に予算を大幅に超える巨額の税金を投入するなら、能登半島地震の震災復興に使ったほうが良いとか、この新型戦闘機1機や迎撃ミサイル1発で何人の難病の子どもの命が救えるのか、と思います。いや、そもそも兵器などなければウクライナやガザでこんなに命が奪われることはないのに、と思います。しかし、納税者である国民が税金の使い道にもの申すのと違って、イスカリオテのユダは自分の財産でもないものについて、隣人への奉仕のために強要しようとするものですし、福音書記者のヨハネは貧しい人を心にかけて、憐れみの心をもってということではなく、イスカリオテのユダは自分の不正を隠すためにこう言ったと解説するのです。
 貧しい人々に施しをすることは善い行いとして薦められていました。この受難節に入る灰の水曜日の礼拝においても、祈りと断食と施しの善い行いは隠れたところでしなさいと教えられました。そうすれば隠れたことを見ておられる神が報いてくださると。人前で見せびらかすようするものではないし、パウロがいうように全財産を貧しい人のために使いすくそうとも愛がなければ無意味なのです。
イエス様は、マリアがしているのは良い行いだからそのままにさせなさい、とその非常識な香油の使い方を自分の葬りへの献身としての奉仕、愛として受け取りました。貧しい人々はいつも一緒にいるが、イエス様はもうすぐ十字架にかけられ、そして天にあげられる、元いた天に戻っていくのです。

 明日は東日本大震災から13年目の日です。まだ、原発事故による人々への影響は計り知れず、この先何十年も廃炉作業は続きますから、苦難の日々は過ぎ去った過去のことではありません。突然家族を失った人たちの悲しみを癒やすのにどれだけの時が必要かわかりません。また、今も能登半島では多くの人々が避難生活の中で不自由な生活を強いられています。しかし、そんな中でも私たちは神さまに礼拝を献げます。この世界が神さまの祝福に満ちていることを感謝し賛美します。

 イエス様の復活の前触れとして死んだはずの兄弟ラザロを蘇らせたイエス様に愛の応答としてナルドの香油という全財産を献げたマリア、その油を塗る行為はイエス様の十字架への準備でもありました。そして、十字架の死を通して死に勝利し、私たちを永遠の命へと救いだしてくれる救い主メシアであるとの信仰告白とのなったのです。もはや、死は単なる恐怖ではなくなりました。永遠の命への入り口です。
 マリアは誰よりも先にイエス様の死と復活によって示された愛への応答として、全てともいえるナルドの香油を献げました。私たちは、何を主に献げることができるでしょうか。