2019年9月8日 今日は安息日ですよ 牧師 吉岡喜人

安息日に病人を癒すことの是非を主イエスはファリサイ派の人々、律法の専門家に問われました。律法の専門家たちが、神が律法を与えてくださった心を知っていたら・・・

(説教本文)ルカによる福音書14章1節~6節

 安息日に病人を癒したことは安息日に働いたことであり、律法に反する、ということでファリサイ派の人々と主イエスの間にしばしば論争が起こりました。ルカだけでなく、マタイもマルコもヨハネも、この問題を信仰上の重要な問題として福音書に記述しました。安息日問題については、これまで何度も読み、聞いていることでしょう。よく知っていると思うかもしれません。またこの話ですかと思うかもしれません。しかし、聖書は何度読んでも新しい発見があるものです。謙虚な気持ちで、今日は頭を白紙にして、この安息日問題について聖書から神の思いに近づきましょう。

 まず、今日の聖書をもういちど少しずつ読んでみます。

1節 主イエスはファリサイ派の議員から食事の招待を受けました。議員と言うのは非常に社会的地位の高い人です。今日のように民主的に選挙されたのではなく、先祖から受け継いだ身分です。基本的には大地主の貴族です。そのような人が辺境のガリラヤ出身で、社会的に最も低い階層の木工職人であった主イエスを食事に招待したというのです。通常ではありえないことです。食事に招待することは、招待する人を尊敬し、親しくなりたいという意思表示です。もしかするとこの人は、後に主イエスの遺体を十字架から降ろして墓に納めたアリマタヤのヨセフのようにも思えますが、ルカはただ、ファリサイ派の議員だったとだけ記しています。ファリサイ派は律法に忠実であろうとする熱心なユダヤ教徒ですから、主イエスをユダヤ教の先生、ラビとして招待したのだろうと想像がつきます。食事に招待して、イエス様から話を聞こうとしていたのでしょう。主イエスは議員から招待されるほど、ユダヤ中に知られていたことがわかります。議員と同じファリサイ派の人々が、食事に招待されていました。また、当時の習慣では、有名な人を招待して話を聞く場合、自分や自分の家族だけではなく、公開講座のように家を開放して、誰でも聞きに行ってよかったようですので、あのナザレのイエスが来るというので、多くの人が議員の家に集まっていました。

 その日は安息日でした。ちょっと気になることは、安息日に食事ができるかということです。食事はしてもよいのですが、食事を作ることは仕事ですから安息日にすることはできません。身分の高い人ですから、自分で食事の用意をすることはなく、召使たちにさせていたでしょう。律法は、安息日は自分が働かないだけではなく、使用人たちも休ませなさいと規定しているので、ちょっと気になります。

 それは後ほど触れるとして、主イエスは、話を聞きに集まった人々の中に水腫を患っている人がいることに気がつきました。水腫と言うのは、心臓や腎臓などの臓器の病気が原因で腹腔などに水がたまり、むくみが出る病気の通称です。医学の発達した現在では治療法がありますが、主イエスの時代は、どうすることもできない病気でした。おそらく仕事もできず、生活が困窮していたでしょう。主イエスに癒していただきたいという思いで、家族や友人が連れて来たのかも知れません。

 食事に招待されていたファリサイ派の人や律法学者に主イエスは尋ねました。「君たちは律法に詳しいが、安息日に病気を治すことは律法で許されているだろうか、それとも禁止しているだろうか?」だれも答えません。黙っています。わからないから黙っていたのではありません。安息日に働いてはならないと律法に書いてあることを知っています。しかし彼らは主イエスが他の場所で安息日に病を癒されたことを知っていました。そのことでファリサイ派と主イエスの間に論争が起こったことも知っていました。だから誰も言えなかった、言いたくなかったのでしょう。

 主イエスは、その人を癒して、家に帰らせました。それからファリサイ派の人や律法学者に向かっていいました。「君たち、安息日に自分のこどもか牛が井戸に落ちたとする。安息日だからといって助けないかい?助けるだろう。どうだい。」これに対しても、誰も答えることができませんでした。

 問題になった律法の安息日の規定は、律法の中心である十戒の中にあります。十戒は旧約聖書の数か所に書かれていますが、出エジプト記の20章を読んでみましょう。旧約聖書を開けられる方は開けてみて下さい。新共同訳聖書の126ページです。8節から読んでみましょう。「安息日を心に留め、・・・・・聖別されたからである。」

ここで言われていることを整理してみえると、

1.安息日を大切にし、いつも意識していなさい。

2.安息日を聖別しなさい。=「聖」と訳された言葉には、「他とは区別された」という意味があります。安息日を他とは区別された特別な日としなさい。ということになります。なぜ特別な日にすべきかという理由が後半に書かれています。創世記1章に書かれているように、神様は宇宙にある全てのものを6日でお造りになり、7日目はお休みになりました。神様は、ご自身が休んだこの日を祝福されて特別な日とされたからと説明されています。神様は6日の間働き、作ったすべてのものを良いものだと祝福されました。ご自身の働きを祝福されたのです。そして7日目に休んだ。それは、何も作らないこと、休むことは、作ること、働くことと同様、とても大切なことだと言われているのです。

3.安息日には仕事をしないで休みなさい。自分が休むだけではなく、家族や使用人、馬やロバなどの家畜も休ませなさい。ユダヤ人ではないことを理由に外国人を安息日に働かせてはいけない。外国人も休ませなさい。

 これが律法に書かれていることです。

 休むことが働くことと同じように大切である。これは、数千年前においては、画期的なことでした。近代社会になる前は、ほとんどどこの国でも、人は働きづめでした。社会の仕組みが働くことを前提にしていたので、休んでいては生活できませんでした。やがて働くことは美徳であり、休むことは不徳だという価値観が生まれました。我武者羅に働く人が高く評価されました。一方で「働かざる者、食うべからず。」と言われました。この価値観は日本など東アジアで顕著だったようですが、ヨーロッパでも農民などは一年中ほとんど休みなく働きました。近代になっても、産業革命のころ、労働者は1日12時間、休日なしで働くということが当たり前に行われました。このように働くと(働かされると)、様々な問題が生じます。人の健康が損なわれます。肉体的健康だけでなく、精神的な健康がそこなわれます。さらに教会に行くこともできない人々は、霊的な健康も損なわれました。霊的な健康が損なわれると、倫理的な問題につながります。肉体的、精神的、霊的な疲れを癒すために酒に依存する人が増え、社会問題になりました。崩壊する家庭が続出しました。こどもたちは学校に行かせてもらえず、集団で悪事を働いたり、たばこを吸ったりしていました。見かねた教会がこどもたちを集めて土曜日に学校を行ったのが日曜学校の始まりです。

 産業革命の流れは日本にも押し寄せ、政府は西洋に追いつけ追い越せとハッパをかけました。『蟹工船』、『ああ野麦峠』などの小説に当時の労働者の悲惨な姿が描かれていますが、社会全体としては、それは当然のことという雰囲気でした。勤勉な日本人、働く美徳、その中で日本は我武者羅に働いて、いや働かせて、世界の一流国になろうとしました。

もう一度、律法の安息日の規定を読んでみましょう。「六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」あの時代、人間には考えつきもしなかった内容です。この掟が神様から与えられたということがよくわかります。

神様は働き者です。世界を作るために一生懸命に働かれました。人間にも一生懸命働くことを奨励されています。自分が働いた様に、あなたがたも一生懸命働きなさいと。同時に神様は休息もされました。そして、あなたがたも休みなさいと言っておられるのです。

グループで仕事をしているとき、リーダーの大切な役割は、仕事を順調に進めることもありますが、「はい、ここで休息しましょう。」と声をかけることです。グループの人々が、健康でいられるように気を配ること、それには休息をしっかりとってもらうことがとても大切です。

三鷹市にある16の認可幼稚園で三鷹市私立幼稚園協会を構成していますが、6月に園長の研修会が行われました。テーマは「幼稚園の労務管理」でした。なぜこのテーマで園長研修会をしたかと言うと、一般に幼稚園は労働環境という点でブラックな園が多いからです。幼稚園だけでありませんが、教師という職業は聖職であるから、時間や給与に関係なく喜んで働く職業だと言われてきました。労務管理などという言葉はどこ吹く風で、労働基準法をよく知らず、あるいは知っていても無視している幼稚園が多いのです。近年、政府の旗振りで「働き方改革」が叫ばれ、労働関連法令が改訂されました。この際、園長たちも労働環境の改善を図るように勉強しようということで研修会を開いたのです。働き方改革が叫ばれるようになった一つの原因は、過労死が続出したことです。過労死に至らないまでも、肉体的に、精神的に病になった人は多くいます。そのようなことが起こらないようにと、労働法の改正点の一つが、休息の充実です。例えば労働基準法では、年次有給休暇が規定されていますが、年次有給休暇を使うか否かは本人次第で、使わなくても問題はありませんでした。わたしもサラリーマン時代は、ほとんど使いませんでした。今回の労働法の改正では、有給休暇を一定日数以上とらないと、管理者が罰せられるようになりました。先ほどグループ・リーダーが「一休みしよう」と声をかけて休息を取らせるように、管理者は休息をとらせなさい、ということになったのです。少し、律法の規定に近づいたのではないでしょうか。

律法の目的。それは、人を生かすためです。エデンの園で神を裏切った人間が、それでも生きて行けるようにと神の人間に対する愛から律法が与えられたのです。安息の掟は、神様がわたしたちを生かすための愛の掟なのです。良く働きなさい。そして休みなさい。

このことが理解できていれば、ファリサイ派の人々も律法の専門家も主イエスの問いに答えることができたのではないでしょうか。

神様は「今日は安息日ですよ。働いたのと同じように、休みなさい。休むことはあなたがたを生かします。わたしも休んだのですから、あなたも休み、あなたと共に働く人も、休ませてくださいね。」とやさしく声をかけておられるのです。