2022年10月9日 苦難の共同体 吉岡喜人牧師

(要約)教会は時に福音信仰の道を曲げたり、神に敵対することがありました。今でも福音信仰から外れた教会があります。意図的な場合も、熱心さ故にそのことに気づいていないこともあります。

(説教本文)コロサイの信徒への手紙1章21節~29節

 今日はコロサイという町に建てられた教会に宛てたパウロの手紙から、わたしたちの信仰の形を問う神の言葉を聞きましょう。
 
 手紙の宛先のコロサイという町があった地域ですが、現在のトルコ、新約聖書の時代にはローマ帝国のアジア州と呼ばれている地域にありました。この町の名前は使徒言行録には出てきませんが、聖書の巻末にある地図の「9 パウロのローマ手の旅」に出ていますので、あとでご参照ください。エフェソから東に160キロほどのところにあった町です。コロサイの教会はパウロが直接伝道して設立した教会ではありませんが、パウロがエフェソに3年間ほどいた間に、弟子のだれかをコロサイに遣わして伝道し、教会が設立されたのだろうと考えられています。
 この教会に困った問題が起こっている、どうしたらよいのでしょうか、とアドバイスを求める手紙がパウロのもとに届いたようです。
 
 新約聖書のパウロの手紙には、困った問題が起きている教会に宛てたものがいくつもあります。コリントの信徒への手紙もそうですし、先週の主日礼拝に与えられたガラテヤの信徒への手紙もそうでした。ガラテヤの信徒への手紙では「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)というパウロの嘆きの言葉から始まっていました。その点、今日のコロサイの信徒への手紙では、「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者に対して抱いている愛について、聞いたからです。」(1:3-4)と喜びの言葉から始まっています。そして「どうか、霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる良い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。・・・」(1:9以下)と信仰の成長を願った励ましの言葉を贈っています。
 ですが、今日与えられた1章21節には「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」と書いてあります。ということは、コロサイの教会には大きな問題があったがなんとか解決した。しかし、この機会をとらえてキリスト教の本質的に大切なこと、キリスト者の生き方について語っておこうということで、パウロはこの手紙を書いたのではないかと思います。
 
 では、コロサイの教会で起こった大きな問題、手紙で「神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」とパウロが言っている問題とはどのような問題だったのでしょうか。神に敵対していた、神様を敵に回していたとは、なにがあったのでしょうか。
 それは、キリストの福音信仰が曲げられていたということです。キリストの教えでないことを、キリストの教えのように言う者がいたのです。その人は教会の中でも指導的な立場の人で、影響力があり、多くの人はその人が語ることなら正しいことだろうと思い、それが曲げられた福音信仰だとは気づかずに、教会の中に広がっていたのです。
 
 具体的にどのようなことだったのでしょうか。
 まず2章8節を読んでみましょう。「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」
 「世を支配する霊」とは人間に悪を働く霊のことです。人間が生活をする中では、いろいろと災難が降りかかってきます。それは人に悪を働く霊、悪霊の仕業だというのです。その悪霊から自分たちを守るためには、キリストの力だけでは足りない、もっと他の力を求めなくてはならない、というのです。さらに他の力を求めるには、それなりの貢ぎ物が必要だと言ったりもします。
 このことは、聖書の時代だけでなく、どの時代にもあることです。今、政治問題となって日本の社会を騒がせている旧統一教会問題がまさにそのひとつです。旧統一教会はキリスト教を名乗っていますが、救われるためには信仰だけではだめだ、行いが必要だとして、高額な壺を買わせたり、花売りをさせました。また、確かな救いに与るには、教祖様にできるだけ多額の献金をすることだと教え、有り金をほとんど献金した人がたくさんいます。このことで生活苦に陥った人の家族から、安倍元首相銃撃事件を起こす人が出てしまったのです。キリストの教えにもないことを、むしろ、キリストの教えに背くことを信徒に強要しているのです。
 わたしたちキリスト者は、旧統一教会問題を対岸の火事と思ってはいけません。わたしたちもうっかりすると同様の過ちを犯す可能性があるのです。ですから、今日の聖書の言葉は、とても身近で重要な言葉なのです。イエス・キリストの救いに不足はなく、イエス・キリスト以外に救いはないのです。
 
 つぎにコロサイの教会に影を落としていたのはグノーシス主義です。グノーシスとは聞きなれない言葉ですね。新約聖書の時代、地中海一帯の思想や哲学をリードしていたのはギリシャでした。その中にグノーシス主義という思想がありました。グノーシス主義によると、神に近づくことができるのは高度な知識と豊かな理解力を持った数少ない選ばれた人です。ということは、普通の人は神に近づけない、救われないということになります。この思想が教会にも流れ込んでいたのです。高度な知識と豊かな理解力がなければ救われないと、イエス・キリストは教えたでしょうか。全く反対ではないでしょうか。救いに必要なことは、イエス・キリストを救い主とする信仰だけです。
 このこともまたわたしたちには注意が必要です。というのは、何か難しいことを言うことが宗教的に優れていると勘違いすることがあるからです。キリスト教でも、普通の人には理解困難な難しいことを語ることが重要視されることがなくはありません。そのような説教を求める信徒、好んで語る牧師は要注意です。いつの間にかグノーシス主義に陥っているかも知れません。
 
 コロサイの教会には、さらにもう一つ問題がありました。それは律法主義です。律法主義は主イエスも随分と闘われましたが、なかなか手ごわい相手でした。主イエスを十字架につけたのは、律法主義だったと言っても過言ではないでしょう。2章16節を読んでみましょう。「だからあなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。」祭りとは過越祭など必ず守るべきとされていた礼拝のことです。新月とは毎月初日、すなわち新月の日を新しい月の始まりの日として大切にし、礼拝をする習慣がありました。日本では元旦の初詣を大切にする人が沢山いますし、キリスト教の教会でも新年礼拝をする教会はたくさんあります。これらの日に礼拝したいという思いは悪いことではありませんが、初詣にいかなくてはならない、新年礼拝に出るべきだとなるといかがなものでしょう。
 安息日は十戒の一つですが、ユダヤ教が最も重んじられていた律法の掟でした。律法の遵守に人一倍熱心だったファリサイ派は、安息日に病人や障がい者を癒した主イエスを厳しく批判しました。
 律法には礼拝に関すること細やかなことが書かれています。ファリサイ派の人々など熱心なユダヤ教の信徒は律法に縛られていた、あるいは振り回されていたのですが、自分たちでは気づきませんでした。主イエスの教えを素直に受け入れた人々は律法の束縛から解放されましたが、ファリサイ派の人たちは主イエスを非難し、律法の束縛から解放されることはありませんでした。コロサイの教会に律法主義を持ち込んだのは、コロサイに住んでいたユダヤ人たちであることは言うまでもありません。
 律法主義もまたわたしたちが陥りやすい問題の一つです。教会であれ一般社会であれ、慣習やルールに従って行動することは必要なことですが、なぜそのような慣習やルールがあるのかを理解せず、あるいは無視して、なんであれ慣習やルールを守ることが大切で必要なこととすることはわたしたちにも起こりがちです。しかも守らせようとする人たちは、自分たちが一生懸命努力して慣習やルールを守っているため、律法主義に陥っていることに気づかないことが多いのです。
 
 今日は、コロサイの信徒への手紙から、わたしたちが陥りやすい問題について御言葉を聞きました。
1.自分たちを悩まし苦しめる悪から救われるには、イエス・キリストの信仰だけでは不十分で、この世的な霊の力を必要とすること、2.グノーシス主義的に神に近づくためには、知識や理解力が必要と考えること、そして、3.慣習やルールありきの律法主義に陥ること。これらがコロサイの教会が陥っていた福音信仰に敵対する大きな問題であり、また私たちのすぐそばにもあることに気づかされました。
 
 主イエス・キリストこそ唯一なる救い主であることを確認し、この世的な思いや理解に惑わされず、まっすぐに福音信仰の道を歩みましょう。