2023年1月22日 宣教の開始 森永憲治牧師

(要約)キリスト者の望みは永遠の命と救いです。地上の生活における救いの一つは自由です。主イエスはわたしたちを解放し、自由にしてくださるのです。

(説教本文)ルカ4章16~30節

まず、イエス様は本日の箇所でそれは預言の実現とあります。それはイザヤ61章1節です。

61:01主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

イエス様の救いとは何か?その意味の中の大きなものの一つは、「自由」です。福音とは何かと言えば、もちろん永遠の命を得ることです。神様の前で自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架と復活を信じればそれは得られます。ではこの世での生活で具体的にどういうことかというと、その一つが自由、それが「捕らわれ人には自由を。つながれている人には解放を」です。

イエス様は何故地元では奇跡を起こさないと言われたのでしょうか。そしてそれは、二つの話しを話しながらそうおっしゃるのです。では具体的に見てみましょう。
まずは23節のカファルナウムを地図を見て確認しましょう。このカファルナウムというのはイエス様がたくさんの奇跡を行なった、イエス様の重要な活動の場所です。

そして、マルコ福音書の記事を見てみましょう。そこでは地元の人が地元であるがゆえにつまずいた、とあります。

06:01イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 06:02安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 06:03この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 06:04イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 06:05そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

本日のルカ福音書の箇所には、イエス様を褒めたとありますが、このようにマルコ福音書などを見ると、イエス様をメシアとは信じなかった、自分達の知っているだけの過去の知識という色メガネを通してしかイエス様をみることができなかったようです。

さて、二つの話しのうちの一つ目、4章25~26節のエリアの話です。大体紀元前900年前くらいの時です。列王記上16章30~17章24節。

16:30オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。 16:31彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。 16:32サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。 16:33アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。 16:34彼の治世に、ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉のとおり、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失った。 17:01ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」 17:02主の言葉がエリヤに臨んだ。 17:03「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。 17:04その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 17:05エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。 17:06数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。 17:07しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。 17:08また主の言葉がエリヤに臨んだ。 17:09「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 17:10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。 17:11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。 17:12彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」 17:13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。 17:14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」 17:15やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。 17:16主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。 17:17その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 17:18彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 17:19エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 17:20彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 17:21彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 17:22主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 17:23エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。 17:24女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

エリヤの時代、イスラエルの人々は偶像崇拝に走りました。「16:33アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」とあるように、その偶像崇拝は徹底的であり、つまり真の神様に徹底的に反抗したのです。神はエリヤを通して旱魃を預言し、3年も雨が降りませんでした。人々は災いを預言したエリヤを呪い、エリヤはシドン地方に生き、そこで一人のやもめに仕えました。このやもめは異邦人だったにもかかわらずエリアを通してその神様を信じたところ、そこで尽きることのない食べ物を与えられ、また、死んだ息子を生き返らせるという、奇跡を以て助けられました。自分の民に受け入れられない預言者が異国に行き、異邦人のために神様は奇跡を以てお救いになったのです。

二つ目は4章27節に出てくるアラムの王の軍司令官ナアマンが癒やされる奇跡です。ナアマンは神に救いを求め預言者エリシャを通して皮膚病を清められました(列王記下1-19)。
列王記下5章1~14節。

05:01アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。 05:02アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。 05:03少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」 05:04ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、 05:05アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。 05:06彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」 05:07イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」 05:08神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 05:09ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。 05:10エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」 05:11ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。 05:12イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。 05:13しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 05:14ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

この二つの話に共通しているのは、本当の神様を信じるはずのイスラエルは、エリア、エリシャを信じませんでした。そして奇跡が起こったのは、イスラエルの人では無い、しかし真の神様の言うことに耳を傾けた人に神様は奇跡を起こし、救いがきたのです。

イエス様の地元の人は、イエス様のカファルナウムでの活躍を地元でも起こすだろうと期待していたのでしょう。しかしイエス様の奇跡は決して何かのパフォーマンスではなく、人を救うことの奇跡なのです。

本日の聖書箇所にはいろいろなメッセージがあると思います。それは、地元の人たちは何故イエス様を受入れないのかというと、自分達の思い込みによってメシアではないと決めつけたこと、それは、今の私達も同じで、イエス様のメッセージを自分達の思い込みで決めつけてはいけないということです。イエス様は奇跡を以て私達を救って下さるのに、奇跡など起きないなどと決めつけて聖書をインテリ・教養の書物としか見ないなどです。クリスチャンだからといってもそのような信仰でしかない人には神様は何もなさらず、クリスチャンでなくとも真の神様を求める人には奇跡を以てお救いになるでしょう。

奇跡を起こして救う。まさに捕らわれた状態から解放され、自由を神様は下さるのです。