2024年2月4日 「今も働くキリスト」 小田哲郎伝道師

(要約)長い間病気で寝たきりになり、苦しみの中にあった人に目を留め、手助けする家族もなく救いの希望すら失っている彼にイエス・キリストは「起き上がりなさい」と、新しい命に生きるように押し出します。信じる前にこの救いは与えられました。苦難に満ちたこの世界でキリストは今も働きます。

(説教本文)ヨハネによる福音書5章1-11節

 私たちは今年に入ってヨハネによる福音書から続けて御言葉を聞いています。
ヨハネによる福音書を読んでいると、他のマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書とは違うなあと思うところがいろいろあると思いませんか?まず第1章1節の出だしからしてそうですね。
今日一緒に聞いた5章に限っても色々と気づかされることがあります。

 1節には「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。」とありますが、その前の場面ではカファルナウムというガリラヤ湖畔の町にイエスはいます。あのガリラヤ地方のカナで行われていた結婚式で水をぶどう酒に変えた後、過越祭りのためにエルサレムに上り「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と、怒って神殿から商人を追い出し、またサマリアを通ってガリラヤに戻られたことになっています。神殿でのユダヤ教の祭りがある度にガリラヤからエルサレムに上っくるイエス様に対して、ファリサイ派や祭司長をはじめユダヤ人からの憎しみは増幅して行く様子が描かれています。ガリラヤから出発してエルサレムでの十字架の死に向けて一本の道を旅していく他の福音書の物語とは異なっています。

 祭りのためにやってきたイエスはエルサレムの神殿に入る前に、神殿の北側にある羊の門の近くにある「ベトザタ(口語訳聖書ではベテスダ)」と呼ばれている人工の池に行きました。ヘブル語でベトザタとはオリーブの木の家という意味で、その辺り一帯の地名だったようです。ベテスダと読める古代の聖書の写本もあって、その意味が「憐れみの家」ということで、その意味を大切にして伝えた聖書もありました。その貯水池はエルサレムの町で生活する人のための水を貯めていたのかもしれませんが、神殿に入る前に身を清める人のためでもあるでしょう。その四角い池は回廊、4つの屋根付きの廊下と池の中央で左右に分ける5つめの回廊がありました。この聖書に記載の通りの5つの回廊のある池の遺跡があります。

 その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など病気や障害を抱える、困難を抱えて生きている大勢の人が横たわっています。神殿に来た人たちに施しを求めていたのでしょうか。家族の誰かが自分では動けない人を朝ここに連れてきて、また夕方になると連れて帰ったのかもしれません。また、自分で杖をつきながらここに来て日中横になって過ごしている人や、身よりも帰る家もなくここでずっと過ごしている人もいたのかもしれません。どれくらい大勢が横たわっていたのかわかりませんが、大勢という言葉が「群衆」と訳されるときもあるくらいですから本当に大勢いたのでしょう。被災地のけが人があふれかえる病院や戦地の野戦病院のような状況を想像するでしょうか?あるいはホームレスの人たちが集まる年末の公園のテント村を想像するでしょうか?とにかく病気や障害をもって横たわっている人の群れの中から一人にイエス様は目を留め、声をかけられます。
聖書の中の病気や障害の癒やしの記事の多くは、その当事者や親が必死でイエスに触れようとしたり懇願して癒やしを求めるのですが、ここではそうではありません。イエス様から声をかけます。

 このイエス様が声をかけた人は38年間もの長い間病気で苦しんでいる人でした。そんなにも長い間苦しんでいることを、イエス様は知ってこの人に声をかけたのです。38年というのはとても長い時間です。当時の寿命から言えば40歳くらいで孫がいるくらいですからほぼ一生の間闘病生活をしていたのでしょう。子どもの頃は親が世話をしてくれたかもしれません、しかし今では誰も面倒を見てくれる人もいないようです。もう治る希望も持てずに、ただただそこにいるだけの毎日なのかもしれません。
そんな彼にイエス様は声をかけます。「良くなりたいか。病気が治って健康になりたいか」と。
当然「良くなりたいと」答えるだろうと思うと、彼はイエス様の問いにYes/Noでは答えず、言い訳がましいことを言うのです。「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに他の人が先に降りていくのです。」

 ちょっと何を言っているのか不明ですね。そのこともあってか補足説明がつけられている聖書があるのでこのヨハネによる福音書の最後212ページの下の段に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」という節があります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いがときどき池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」ということです。元々書かれた福音書にこの節があったかどうかは別としても、このベトザタの池は時々水が湧き上がってくるのでしょうか、それを天使が池に降りてきたしるしとして、その時に真っ先に入った人の病気や障害は癒やされると信じられていたので、この回廊で寝ながら水の面を見て動く瞬間には、我先にと飛び込んだり、家族や友人が連れて池に入ったりしたのでしょう。真っ先に水に入ったその一人だけが癒やされるということで、壮絶な競争が繰り広げられていたのでしょう。


 しかし、この38年も病気で苦しんでいる男は、もう自分を池に入れてくれる親も、家族も、友人もいないのでしょう。治ることはもう考えられない、諦めの境地、希望も持てずにいたのだと思います。そんな異教的な迷信であろうと、救いに期待することをやめ、その競争に加われないこと、家族や友人の関係性もないことにやっかみや妬みの思いさえ持っていた彼にイエス様は「起き上がりなさい」と命令します。そして「床を担いで歩きなさい」と続けると、彼は病気が治り良くなって、マットなのか担架のようなものなのかを持って歩き出したのです。
 そこでこの男もイエス様も群衆の雑踏に姿が見えなくなります。他の福音書の病気の癒やしの後にある「罪は赦された」というイエス様の宣言や「あなたの信仰が救った」という言葉はこのヨハネによる福音書には出てきません。当時のユダヤ教的には病気や障害は罪が原因だと考えましたが、ヨハネによる福音書ではイエスはそれは違うと言います。9章の盲人の癒やしの物語で弟子たちがこの人が生まれつき目が見えないのは本人が罪を犯したからですか?両親が罪を犯したからですか?」と弟子が聞いたのに対しイエス様は「本人が罪を犯したからでも両親のせいでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言って目が見えるようにしたのです。

 では、神殿の境内でイエス様がこの男に出会って、この時もイエス様から見つけ出して出会ったのですが、「あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけない」と言ったことはどう理解すればよいのでしょうか?罪によって38年間も病気が治らなかったのではなく、水が動くときに真っ先に水に飛び込めばどんな病でも治るという異教的な迷信を信じ、我先にと他人を押しのけなければ生き残れない世界に身を置いていたこと、そして救いを信じず希望を失っていた状態に戻ってはいけないと言うのです。そのような罪の奴隷になって、まるで生きる屍のようになっていた彼に、「起きろ」と命じるのです。この言葉はイエスが「復活した」と言うのと同じ言葉です。「生きる者となれ」というのです。競って外から飛び込んで、池の水に触れることで生きるのではなく、イエス・キリストの内から流れる尽きることのない命の水が彼を活かすのです。彼は新しい命を生きる者となったのです。イエス様は祭りの為にエルサレム神殿に来たのですが、そこにいる信仰的な生き方をしている人、自分で自分のことを律法を守る正しい人間だと思い、神殿で規定の捧げ物をする宗教的生活をきちっと守っている人を救うのでなく、その神殿の境内の外で苦しみの中で、信仰的には迷信を信じてしまったりする弱さを持っている、またもう俺なんか誰も助けてくれないんだと諦め、妬み、救いへの望みすら失いかけている人にイエス様は目を留め、憐れみ、声をかけ、「起きよ、あなたは復活する」と新しい命へと押し出してくれるのです。このイエス様のまなざしは、この池の回廊に大勢いる、神殿にも入ることができない人々に注がれます。神殿に礼拝に来た人たちからも見て見ぬふりをされている、この男と同じような大勢の人たちを絶望の淵から救おうとするイエス様の憐れみの心はすなわち、神さまの御心そのものです。そして私たちが信じるよりも先に、神の恵みが与えられるのです。イエス・キリストは私たちにも命の水を与え、救ってくださいました。そして言われます。「あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけない」

 しかし、このイエス・キリストの救いの業を神の恵みとせず正しくないものとしようとする人々が登場します。

 5章9節後半に「その日は安息日であった。」とナレーションが入ります。つまりは働くことが律法違反だとされていることです。
そして先ほどのマットを担いでベトザタの池から神殿のほうに歩いてきた男をファリサイ派、神殿に来たユダヤ人たちが取り囲みます。「今日は安息日だ。床を担ぐことも禁止だ」
「いやいや、これは私がやったのではなくて、私をいやした方が『床を担いで歩きなさい』と言ったら歩けるようになってこうやって床を担いでいるのです」
「じゃあ、そう言ったのはいったい誰なんだ」
「さあ。私には声しか聞こえてなくて、そう言ってその人は立ち去ってしまったんで、誰だかわからないんです」
「じゃあ仕方ない、行け」
取り囲んでいたユダヤ人たちから解放されたこの男は神殿の境内に入りイエス様に声をかけられたのです。そして自分を癒やしたのがイエス様だと知った男はユダヤ人たちのところに行ってそのことを知らせます。これが自分をいやしてくれたイエスを裏切っての律法違反者として密告するのか、それともこの男は自分を救ってくれたのはイエス様だと証しをしたのか福音記者の書きぶりは微妙です。皆さんはどちらだと思いますか?自分だったらどうするでしょう?「あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけない」

 いずれにしても、この安息日の規定を破ったことによってユダヤ人たちはイエスを迫害し始めます。さらに、イエス様が「わたしの父は今もなお働いている。だから私も働くのだ。」とこの世界の創造主である神を自分の父と呼び、自分は神の子であるとして神と等しいものだと言ったことで、ユダヤ人たちは神を冒涜する者としてイエスを殺そうとねらいはじめます。もう十字架が視界に入ってきています。

 38年もずっと寝たきりだったんだから安息日を避けてこの人を癒やせばよかったのではないか、この衝突をさけられたのではないかと思うかもしれません。確かにモーセの律法を破らずにすんだでしょう。確かに神様は6日間でこの世界を創造し、7日目に休まれました。そこに安息日の意味があります。モーセに与えられた十戒では奴隷的な労働から解放されたということでもあります。
しかし、最初の天地創造の古い時代からイエス・キリストによって新しい天地創造、神の国が始まったことを、このヨハネによる福音書は創世記の書き出しに似たプロローグにすることで示しています。もう新しい天地創造が始まっているのです。父なる神は休んではいません。安息日であろうと働いているのです。古い命から新しい命へと救いだすために、これだけ多くの人たちが苦しみ苦難からの解放を長年待ち望んでいたのですから。
そして今現在も、災害があり紛争があり、弱肉強食社会の中で格差も広がるこの苦しみの多い世界で、キリストは救いのために今も働いているのです。

私たちの教会員の中にも長く病気で寝たきりの生活をしている人がいます。障害をもっている人がいます。家族が障害や病気で苦しんでいる人もいます。
教会が本当の意味での憐れみの家ベテスダとなるよう私たちもキリストに従うものとして今も働くキリストと共に働きたいと思います。

今日はまた聖餐式があります。イエス・キリストの内から流れる尽きることのない命の水をいただきましょう。