2024年2月11日 わかちあう喜び 吉岡喜人牧師

(要約)よく知られている5つのパンと2匹の魚の物語ですが、読む度に、異なるメッセージが聞こえてきます。主イエスは口にするパンを人々に分け与えましたが、主イエスが本当に与えたかったのは、命のパンでした。

(説教本文)ヨハネによる福音書6章1-15節

 今日の礼拝でわたしたちに示された5千人の給食と呼ばれる物語は、4つの福音書全てに書かれている物語です。皆さんも、何度もこの物語を聞いていると思いますが、わたしはこれまでに何回、何十回、もしかすると百回以上もこの物語を聞いていますし、何度話をしています。最近では、1月25日木曜日の祈祷会でも、マルコによる福音書に書かれた同じ物語の話をしました。聖書が奥深い書物であることはいうまでもありませんが、同じ物語を何度も読むなかで、異なる聞こえ方がします。特に、礼拝説教や聖書研究会、祈祷会などで語るための準備をすると、異なる聞こえ方に気づくことがよくあります。
 こどものころのわたしは、この物語を、主イエスの奇跡物語として聞かされていました。たった5つのパンと2匹の魚で5千人もの人が満腹して、しかも食べきれなかったパンの残りが12の籠一杯になったというのですから、実に不思議な出来事であり、奇跡です。どうしてそのようなことが起こるのだろう。いくら考えてもわかりません。説明ができません。イエス様が神様の子だから奇跡を起こすことができるということで納得していました。この納得はとても純粋で、信仰的です。主イエスが行われることは神の業であり、神の業はわたしたちの知識では説明ができないからです。
 
 パンと魚を食べた人々も、この不思議な出来事を見てイエス様が神の子ではないかと思いました。「思いました」と言ったのは、この奇跡を見ても、イエス様を神の子として信じない人が沢山いたからです。
 
 ヨハネによる福音書では、奇跡をしるしと呼びます。最初のしるしはカナの結婚式で水をぶどう酒に変えたしるし、最後のしるしは、復活です。
 
 今日の聖書個所の6章2節に「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」と書かれています。主イエスは、病気や障害で苦しんでいる人々に癒しの手を差し伸べられました。多くの人が癒されました。主イエスの評判が広がり、ガリラヤ中から多くの人が主イエスのところに来ました。病が治るというしるしを見た人々は、病気を癒していただこうと主イエスの後を追い、主イエスが行くところに先回りすることもありました。ある時は、主イエスのいる家の中に入れないので、屋根を破ってまでして病人を主イエスの元に連れてきました。
 
 この日もしるしを求めて多くの人々が主イエスのところに来ていました。人々の目的は、病を癒してもらう、障がいを取り除いてもらう、空腹を満たしてもらう、といったいわゆる現世利益を求めてのことでした。
 世界の多くの宗教は、ご利益を与えるとして人々の信仰を集めています。日本の神社仏閣のほとんどで、お守りやお札を売っています。香炉の煙を体にこすり付けることで、痛いところが治り、病気や怪我が治るという信仰もあります。また商売繁盛家内安全を掲げている神社仏閣が沢山あります。キリスト教は現世利益を求めないと思っていたのですが、なんとキリスト教でもあるのです。あるイタリアの街角に天使の像が置かれており、交通事故から守ってくれる天使という信仰を集めていて、交通安全を願って自動車の部品などが沢山ささげられていました。
 わたしたちはこのような現世利益には否定的です。現世利益を求めて神を信じ、賛美したり、献げ物をすることは、本来の信仰ではないからです。
 
 主イエスのなさったしるしを見た人々は、更なるしるしを期待して主イエスの元に集まっていました。彼らが期待するしるしは、現世利益的なしるしです。集まっていた人々に主イエスは神の国のことを話されました。神の民の生き方、神の民として生きることの喜びを話されました。やがて人々が空腹を覚えるころとなりました。主イエスも空腹を覚えられたでしょう。主イエスは弟子のフィリポに言いました。この人々にパンを食べさせたいが、どうしたらよいだろうか? フィリポは、即座に答えました。とても無理です。これら人々に食べさせるには、200デナリオンでも足りません。200デナリオンは今の日本の円に換算すると100万円から200万円ほどです。そのようなお金をイエス様や弟子たちが持っているはずがありません。すると弟子のアンデレが「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」というのです。主イエスと弟子たちの話を聞いていた少年が、持っていた自分の食料を差し出したのでしょう。アンデレは言葉を続けました。でも、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 常識的には、フィリポやアンデレの言うことに合理性があります。パンを買うにしても、少年のもっていた5つのパンと2匹の魚を分けるにしても、5千人もの人々に食べさせるのは無理でしょう。彼らの判断はいわば大人の判断です。一方、少年は、そのようなことは考えずに、ただ自分の持っていた物全てを主イエスに差し出したのです。それで5千人の人の腹を満たすことができるかどうかなどは考えずに、主イエスの求めに応えて、大切な自分の食糧を差し出したのです。
 
 少年の行いにわたしたちは信仰を問われます。ヘブライ人への手紙11章に信仰についてこう書かれています。
 「信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確認することです。」
 主イエス求めに対して否定的な対応をした弟子たちは、望んでいる、まだ見えてこないことを確信することも確認することもしませんでした。一方の少年は、主イエスを信じていたのです。
 わたしたちは、人生の歩みの中で経験したことから多くの知識を持っています。知識は役に立ちます。しかし、その知識があるゆえに、そんなはずはない、そのようなことができるはずがないと否定してしまい、真実が見えなくなり、それ以上の行動ができなくなることがあります。わたし自身、自分の人生を振り返った時、なんども無理だからと言ってなにもしなかったことを思い出します。
 
 主イエスは、少年から5つのパンと2匹の魚を受け取りました。そして、神様に感謝の祈りをして、人々に分け与えたのです。パンを分け与えられた人々は、主イエスと弟子たち、また主イエスと少年との会話を聞いていたでしょう。分け与えられたパンを食べ、満たされました。そして、満ち足りた思いで家路についたことでしょう。
 他の福音書には書かれていませんが、ヨハネによる福音書は、6章22節以下に、5千人にパンと魚を分か与えた次の日のことが書かれています。多くの人々が主イエスを追い求めていました。主イエスは彼らが腹を満たすパンを求めて自分を追い求めていることが分かっていました。しかし、主イエスが本当に人々に与えたいのは、永遠の命につながるパンなのです。永遠の命につながるパン、それは主イエスご自身のこと、十字架によってわたしたちに永遠の命を与えてくださることであり、主イエスを救い主として信じる者に、永遠の命が与えられることです。
 
 ユダヤ人が主イエスに言いました。あなたを救い主として信じるためのしるしを見せてください。そうすれば信じます。人々は、出エジプトの出来事を示して主イエスに問いました。モーセは人々の腹を満たすためにマナを降らせました。マナはモーセが神から遣わされた預言者のしるしです。わたしたちは、あなたが救い主であるしるしを見せていただきたいのです。
 彼らはこれまで何度もしるしを見ています。それなのに、主イエスを信じていないのです。そしてもっと見せろというのです。彼らにはしるしが見えていないのです。5つのパンと2匹の魚を食べて皆が満腹したというしるしも、ただ腹が満たされたと思うだけで、主イエスが神の子救い主であることのしるしと見ることできないのです。それは、かれらに律法という知識があったからでしょう。
 
 主イエスは彼らに言われました。今、神はマナ以上のパンを降らせてくださった。そのパンを食べることによりあなたがたは永遠の命を得る。人々がそのようなパンがあるなら是非食べたいと主イエスに願うと、主イエスは、私が天からのパンである。私を食べなさい。私を食べるものは永遠の命を得る、と言われたのです。
 
 5つのパンと2匹の魚の物語は奇跡物語です。しかし奇跡物語としてだけで理解するのでは、聖書の読み方としてあまりにももったいないと思います。たった5つのパン、たった2匹の魚、5千人もの人、200デナリオンといった数字にとらわれるのではなく、この物語を通して主イエスが伝えようとした深い意味を知ることが大切です。そのことがわたしたちに生きる力を与え、わたしたちを正しい道に導くからです。
 
 わたしたちは、コロナ禍において、実際のパンと杯を口にする聖餐をすることができなくなり、霊的な聖餐をしていました。コロナ感染が下火になり、ようやく実際のパンと杯を口にする聖餐に与り、口に入れたパンを噛みしめた時、私は大きな喜びに包まれ、目頭が熱くなりました。本当は、毎回この感動を覚えるほどの信仰を持たなくてはと思いますが、聖餐にこれほどの感動を覚えたのは初めてでした。あの時の感動は生涯忘れないでしょう。分かち合って食べる少しの主イエスの体、分かちあって飲む少しの主イエスの血潮が、わたしたちに命と生きる力を与えてくれます。そして主イエスはわたしたちを地上の歩みへと送り出してくださるのです。