2024年2月18日 「最初の誘惑」 小田哲郎伝道師

(要約)宣教活動の始めに荒れ野で悪魔の試みにあったイエスは、3つの誘惑に対して神の言葉(申命記)をもって対抗しました。私たちも誘惑にあうことがあります、霊の剣である神の言葉で抵抗しましょう。主の祈り「試みにあわせず悪より救い出し給え」と祈りつつ。

(説教本文)マタイによる福音書 4章1-11節

 先週の水曜日は灰の水曜日でした。今年は午前10時半からと午後7時からの二回この礼拝堂で灰の水曜日礼拝を行い、棕櫚の葉を灰にしたものを祝福し額に「悔い改めと赦し、救いの希望のしるし」としてつけました。この灰の水曜日から主の日日曜日を除く40日間、イースターの前日までを受難節(レント)として、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の苦難を覚えつつ過ごします。
 この40日間というのは、旧約聖書の出エジプトの出来事、イスラエルの民がモーセに率いられて奴隷として重労働をさせられていたエジプトから紅海の水を通って脱出し、その後約束された地にたどり着くまで40年間荒れ野を旅したという出来事にちなんでいます。
 本日、受難節第1主日の聖書箇所として与えられたのはマタイによる福音書4章の「荒れ野の誘惑」とも呼ばれる箇所です。イエスが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受け、水から上がった時に天が開け霊が鳩のように降ってきたと同時に神の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえましたが、その霊によって、神の霊に導かれてイエスは荒野へと行かれたのです。

 4章1節には「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と私たちの読んでいる新共同訳聖書では書いてありますが、新しい聖書協会共同訳聖書や新改訳2017、そしてかつて使っていた口語訳聖書では「誘惑を受ける」ではなく「試みを受けるため」「試みられるため」と訳しています。主の祈りの中で「試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈っている「試み」と同じギリシャ語が使われているです。月刊誌の『信徒の友』にいまギリシア語で主の祈りを読むシリーズが連載されていますが、そこで私の神学校のギリシア語の先生でもあった菅原先生がこれを日本語にするとき「誘惑」と訳すか「試み」と訳すかでずいぶん印象がかわると書いています。その通りだと思いました。
 私はこのマタイだけでなくルカ、短くマルコに収録されている「荒れ野の誘惑」という物語のタイトルで連想するのがマーティン・スコセッシ監督の「最後の誘惑」という映画です。英語のタイトルはThe Last Temptation of Christ。スコセッシ監督と言えばその「最後の誘惑」から26年後に遠藤周作の「沈黙」を映画化した監督で自身カトリックの司祭を志したこともあるクリスチャンです。「最後の誘惑」のほうは原作の小説もカトリックから禁書になり各国で保守的クリスチャンによる上映反対運動が起こるほど問題作で、人間イエスが描かれマグダラのマリアと結婚して家庭を作るというシーンが十字架上のイエスが空想として描かれています。「誘惑」というと人間のうちにある欲望をいうように思います。試みや試練は外から与えられるもので、そういう意味ではスコセッシ監督の「沈黙」のほうで江戸時代に長崎のキリシタンたちが迫害され、踏み絵を踏まされて棄教、信仰を捨てることを強要されるような試練を描いています。信仰を試みられることを誘惑という同じ聖書の書かれた言葉のギリシア語では言うようです。英語の聖書でもTemptation誘惑という訳とTestやTrialという試練、試みの両方が使われています。
聖書の他の箇所、ヤコブの手紙でも誘惑は人間の内側の欲望に引かれて陥るものとしています。
「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙 1 章 13~15)

 しかし、霊に導かれて荒れ野に行ったことは、神からの試練であったとも考えられます。イエスが宣教に出るにあたっての神から与えられる試練、テストと考えられないでしょうか?そして、ここで「誘惑する者」(あるいは別の訳で「試みる者」とされる)、悪魔との戦いがあります。イエスは3つの誘惑に3戦全勝するのですが、プロ野球のオープン戦のようでもあります。本格シーズンが始まり、これから弟子を率いてガリラヤ宣教の後エルサレムに上っていくのですが、マタイ16章ではファリサイ派とサドカイ派の人々が来てイエスを試そうとします。一緒に戦うはずの弟子たちは誘惑に弱く地位争いをし、ゲッセマネの園でもイエスが苦しみもだえながら祈っている間に眠りに落ちてしまい「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」とイエスに怒られます。十字架上での最終決戦で悪に勝利するまでには、この福音書には誘惑に陥る十二人の弟子たちをはじめとするイエスに信じ従う人間と、「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言うようなイエスを本当に神の子であるかを試みようとするイエスを信じない敵対する勢力が次々と現れます。

 私たちはその物語全体を読む中で、誘惑に陥る自分の姿を見つけます。私たちの中にある欲望、食欲、性欲、権力欲、物欲、禁欲、そそのかす悪魔のささやきに負けてしまう私たちがいます。また私たちを取り巻くイエス・キリストを、神を信じないこの現実の世界からの試み、試練は今もなお続いていることに気づかされます。そういう意味では、私たちの現代社会もイエスが試みを受けたあの「荒れ野」といえるのかもしれません。

 イエスの時代の荒れ野に戻りましょう。四十日四十夜の断食でイエスはただ修行をしていたのではありません。断食は祈りのためです。執り成しの祈りのためです。モーセも荒野でホレブ山にのぼり四十日四十夜パンも食べず水も飲まずに祈りました。神に逆らう民のため、主なる神が怒り滅ぼそうとされるのをなだめるための執り成しの祈りです。契約の板、十戒の書かれた板を授けられて山を下りたらまた主なる神に背いて金の子牛の像などつくっていて、2枚の石版を投げつけ、再び神の怒りをおさめるためにモーセは四十日四十夜の断食を行いました。イエスもこれまで神に反逆してきたイスラエルの民の執り成しのため、さらに言えばすべての人間の執り成しを祈っていたに違いないのです。

 イエスは神の子であると同時に私たちとまったく同じ肉体をもった人間としてこの地に生まれましたから、断食すれば腹が減ります。そこに誘惑する者、悪魔が現れて言うのです。「もし神の子なら」と試みようとします。「石ころをパンに変えるなんてなんてことないだろう?」そうでしょう。先週の主日礼拝説教で聞いたようにイエスは5つのパンで五千人を満腹にすることだってできるのです。しかし、あれは力を見せつけるような魔術の披露ではありませんでした。人々を憐れみ共に生きるための分かち合いであったはずです。そしてイエスはモーセの時代に荒れ野でマンナというパンを神が天から降らせたことにふれて、自分が天からの命のパンであることを弟子たちに告げました。

 悪魔に対してイエスは旧約聖書の言葉、それも荒れ野での40年の旅を思い起こす申命記の言葉をもちいて「人はパンのみで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)と悪魔に反論します。この申命記の言葉の前の節には「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち神の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申8:2)そのあと「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」(申8:4)とあります。荒れ野の40年間、苦労はあったが日々の必要な糧はマンナが与えられ、着る物も旅を続ける足も守られたではないか。主なる神を信頼するための、信仰のための訓練だったのだ、というのです。それを忘れてはならないと。
 
 腹を満たすパンの問題は経済の問題とも言えます。家庭のレベルでも、国内の格差の問題にしても、地球規模の貧困問題についても、ある意味生きるために大切なことです。しかし、だからこそ、私たちの心を神から引き離す誘惑になります。誘惑する者の声が聞こえてきます「神様に祝福されているのに、どうしてこんな苦しみが与えられるのだ?お金に困るのだ?生きるのがつらいのだ?本当は神に愛されていないのではないか?」という悪魔のささやきが聞こえてきます。本当にお金ということで今では「簡単に高収入」というSNSで流れる闇バイト情報に奨学金を返すために、普通の若者が引っかかったり、ホストクラブにはまってしまって危ない風俗産業でのバイトに若い女性が引き込まれたりします。悪魔、いや暴力団や陥れようと声をかけてくる人間も悪魔らしい姿はせずに、優しいふりしてとても親切に近寄ってきて誘惑するのです。
 
 悪魔も一回の負けで引き下がるような柔なやつではありません。今度は聖なる都エルサレムの神殿の屋根の上にイエスを連れて行きます。この舞台は先ほどの誰も見ていない荒れ野と違って、大祭司がおり、律法学者や神殿に礼拝に集まる多くのイスラエルの民がいます。この人たちも神の子・メシア救世主を待望していたのですから、そこで悪魔の言うように飛び降りた時に天使が来て守ってくれたら、すべてのひとがイエスは神の子メシアだと信じて、問題ないどころか、裏切るような弟子も必要ないし、十字架の苦しみも受けずにすむかもしれないしイエスにとってもいいじゃないですか?別に悪魔の手下になれと言っているわけではないのですから。
 これを聞いてそうだな、と思った人はちょっと気をつけてくださいね。詐欺やカルト宗教に。ちょっと本当らしい言葉を巧みに使って別の方向へ誘導したり、壺さえ買えば幸せになれるというようなお守りや安易に手に入れたらすべてが解決するような言葉に乗っからないように。イエスは神の国をこの地に完成させるためにはぜんぜん信仰的に強くないけど多くの弟子を必要としていたし、一緒に苦難を負うことも必須でした。
 
 悪魔も聖書の言葉を使います。聖書の言葉をよく知っているのでしょう。しかし、それを別の目的に使います。ここで悪魔が使っているのは詩編91編11-12節の
「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。/彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」です。この詩編91編全体は神への信頼の歌。信仰の歌です。どんなに苦しいとき、困難の中にあっても主が守ってくださるということを信じるのですが、それが行き過ぎてお守りのように用いられることもあったと言います。
ある意味、この悪魔は信仰の歌の一部を用いて神を信頼するのではなく、信じずに試みるのです。
ですからイエスは再び申命記の言葉「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの主を試みてはならない。」(申命記6:16)と切り返します。
マサというのはホレブ山(シナイ山)の近くで飲み水がなかった時にモーセが杖で岩を打って水を出した場所で「試み」という意味があります。
神に試みられることはあっても、神を試みてはならないのです。詩編91編にあるように試みるのではなく神に信頼するのです。

この神を試す言葉は、侮辱となって十字架上のイエスに浴びせられます。
マタイによる福音書27章 41-44節
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
これに比べれば悪魔の言った聖書の言葉はもっと紳士的ではないかとさえ思えてきます。さすがに誘惑する者です。しかし、悪魔はイエスの言葉に負けてしまいました。

もう、最後の誘惑です。「もし神の子なら」、というような言い方はしません。3度目には悪魔は本性を現します。「もし俺に跪いて拝むなら」と言って高い山の上につれていき、そこから見渡せる世界の国々の富も支配もすべてくれてやると。高い山は神と出会う場です。モーセもシナイ山で神から十戒を刻んだ石版を受けました。そして高い山でイエスは光り輝く栄光の姿になり神の栄光を現します。しかし、その高い山で悪魔は天の神の栄光ではなくこの地上の栄光を我が物にできるぞとそそのかそうとします。そもそも悪魔が支配しているわけではないこの地の栄光をなんとでもできるのでしょうか?

でもそうかもしれません、この地の現状、パレスチナで起こっていること、ウクライナで起こっていること、そのことで武器産業が儲かっていること。日本の政治家とカネの問題をみると、未だに悪魔が力をもっているとしか思えない状況です。
悪魔なんて言うと、漫画チックでそんなこと信じているの?と笑う人もいるかもしれませんが、この世界を動かしている悪の力を甘く見てはいけないと思います。

イギリスの作家CSルイス、ナルニア国物語で有名なCSルイスは「悪魔の手紙」という本の中で現代社会は、悪魔の力に夢中になる人々と、時代遅れのくだらない考えだと馬鹿にする人々との二つに分けられる。しかし、そのどちらも現実を正しく把握していないと主張します。闇の力が働いていることはミャンマーの国軍が自国民に銃を向けたり、イスラエルの権力がガザ地区で大虐殺を行い、それらを誰も止めることができないのは、誰か悪人がいるということではなく、普通の人まで巻き込んでこれらを行う悪の力があることを示しているではないか?

イエスはこの悪魔の最後の誘惑に対し「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」という申命記6章13節の言葉をもちいて悪魔を撃退しました。

 イエスは3回とも悪魔に聖書の御言葉、神の言葉によって勝つことができました。誘惑をはねのけることができました。
イエスが救い主キリストだと述べ伝えたパウロも、イエスの十字架と復活で悪と死にすでに勝利したことを確信しつつも、まだ教会、クリスチャンに対する攻撃があることを経験していましたからエフェソの教会に送った手紙の最後に同様のことを言っています。
「最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ、悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。つまり、立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい。これらすべてと共に、信仰の盾を手に取りなさい。それによって、悪しき者の放つ燃える矢をすべて消すことができます。また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

この荒れ野の誘惑の物語は、神の言葉によってイエスが悪魔に対抗したように、私たち信仰者も悪の力がまだ残っているこの世で様々な試練を受けるときの戦い方を教えていると共に、これから宣教をすすめるイエスが目指す神の国の建設には悪の力の支配をどんどん小さくして神の支配を広げる平和を作り出す働きが不可欠で、それを担うイエス・キリストの弟子が必要であることを語っているのです。
自分の弱さからくる誘惑だけでなく、この世の中でキリストによって新しくなった者として神を信頼して生きていくという試練、信仰の試みを自覚しながらレントの期間を過ごしましょう。私たちが弱いことを荒れ野で誘惑にあわれた、断食の中で私たちのために執り成しの祈りをされた主イエス・キリストはご存じです。ですから主イエスは私たちに必要な祈りを教えてくださいました。私たちは主の祈りの「試みにあわせず悪より救い出したまえ」と日々祈りつつすごしたいと思います。