2024年2月25日 目を開いていただく 吉岡喜人牧師

(要約)目の見えなかった人が見えるようになりました。その事実を受け入れるか否かをわたしたちは問われます。神の業を否定すると、真実・真理が見えなくなり、救いの道から外れてしまいます。

(説教本文)ヨハネによる福音書9章13-41節
新宿区大久保駅の近くに日本基督教団シロアム教会があります。中途失明された大村善永牧師が視覚に障がいがある方々のためにと1948年に創立した教会です。今日の聖書個所の舞台はシロアム教会の名前に由来するシロアムの池での出来事に端を発します。

ある安息日、礼拝するために主イエスは弟子たちとともにエルサレム神殿に向かっていました。神殿に通じる道には多くの貧しい人々が座っており、通りすがりの人々に物乞いをしていました。彼らは人々から金銭や食べ物をもらって、かろうじて生きながらえている人々でした。そのような人々のなかで、一人の目が見えない人に主イエスの目が留まりました。主イエスの目が留まったことに気付いた弟子の一人が主イエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからでしょうか。本人でしょうかね。それとも両親でしょうか。」ユダヤ教では、病気になったり、障がいを持つのは、本人、親あるいは数世代前の祖先が犯した罪が原因であるとされていました。病や障がいのために罪人の汚名を着せられた人々、特に重い皮膚病で村から追い出された人、視覚に障がいを持った人たちなどが生きて行くことは大変に困難なことでした。この目の見えない人も生きるために必死に物乞いをしていたのでしょう。この弟子は深く思うことなく主イエスの考えを尋ねてみたのでしょう。弟子は悪気があって言ったのではないでしょうが、弟子の言葉を聞いて、目の見えないこの人はどう感じ、どう思ったでしょうか。これまでに同じ言葉を何度聞かされてきたでしょうか。弟子の言葉は決して彼の耳に心地よいものではなかったはずです。しかし、律法に書かれていることなのですから、この弟子の言うとおりだと思い、あきらめつつ、聞き流そうとしていたのでないでしょう。そこに意外な言葉が聞こえて来たのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」これまで多くの人たちから「お前かお前の親が罪を犯したからお前の目が見えないのだ」と言われ続けてきたこの人の耳に、初めて「罪を犯したからではない」という言葉が強烈に飛び込んできました。このようなことを言う人はいったい誰なのだろう。

さらに聞き耳を立てていると「神の業がこの人に現れるためである。」と言っているではありませんか。「神の業がわたしに現れる」とは、どういうことなのか。何が起こるのだろうかと思っていると、その人は自分に近づき、なんと自分の瞼に泥を塗るではありませんか。そして「さあ、シロアムの家に行って洗いなさい」と言ったのです。わけのわからないままシロアムの池に連れて行ってもらい、目を洗うと、なんと目に光が入って来たではありませんか。目が開け、見えるようになったのです。「見えた、見える」生まれつき目が見えなかった人です。目に映るものはすべて初めて見るものです。驚きと喜びに溢れて家に戻り、家族や近所の人々に自分の身に起こったことを話しました。イエスという方がわたしの瞼に泥を塗り、シロアムの池で洗うようにと言われたので、そのようにしたら見えるようになったのです。

人々は彼をファリサイ派の人々のところに連れて行きました。律法に熱心なファリサイ派に出来事の説明をしてもらおうとでも思ったのでしょうか。目が見えるようになったこの人は、ファリサイ派の人々にも、どのようにして見えるようになったのかを話しました。話を聞いたファリサイ派の人々は、彼の目を開いた人について言いました。今日は安息日だ、安息日を守らない者が神のもとから来た者であるはずがない。別の人々は、そうかも知れないが、罪のある者が奇跡を起こせるだろうかと言うのです。見えなかった人の目が見えるようになったという事実を巡って彼らの中に混乱が生じたのです。そこで、彼らは本人に尋ねました。「お前はあの人をどう思うのか。」彼は自分に奇跡を起こしたイエスという人が神からの人であることは分かっていました。しかし、この人は神からの人ですと言えば、村八分に合うので、「あの人は預言者だと思う」と言わざるを得ませんでした。

目の見えなかった人が見えるようになったという事実に直面しているにも関わらす、イエスが奇跡をおこなったとは認めたくないファリサイ派の人々は混乱していました。そこで目の見えない人の両親を呼び出して尋ねました。「お前たちの息子は、本当に生まれつき目が見えなかったのか?」ほんとうは見えていたのではないかと、見えるようになった事実を否定しようとしたのです。しかし、両親はきっぱりと証言しました。「生まれつき見えませんでした。」「ではどうしてお前たちの息子は見えるようになったのか」「それはわたしたちには分かりません。本人にお聞きになればよいでしょう。」両親は主イエスが見えるようにしてくださったと言いたかったのです、しかし、いまそれを言うと村八分にされてしまう。そこで上手に証言したのです。
いらだったファイ派の人々は、もう一度本人を呼び出して、尋問しました。「わたしたちはあの者が罪人であること知っている。神の前で正直に答えなさい。あの者はどうやってお前の目を開けたのか」自分たちに都合のよい答えをしないと、お前が噓をついたとして、お前の罪を問うぞと脅したのです。彼は答えました。「そのことはもう先ほどお話ししました。確かなことは、見えなかったわたしが、今は見えるということです。」なぜこの事実を受け止めないのですか、と彼は言いたかったでしょう。主イエスが救い主・メシアであると公言すれば村八分になります。場合によっては命を失う危険があります。そのような中で、この人は実に巧みに、ファリサイ派に言質をとられないようにしながら、主イエスが奇跡を起こしたことを証言したのです。
彼はさらに言いました。「神様は、罪人の言うことはお聞きにならないでしょう。神様をあがめ、御心を行う人の言うことをお聞きになることをわたしは知っています。」神様は罪人の言うことを聞かないとは、ファリサイ派の人々が言っていたことです。ファリサイ派の言葉を逆手に利用して、自分の目を開けてくれたのは主イエスであり、神の子であることを証したのです。

ファリサイ派の人々は自己矛盾を起こしている自分たちにいらだち、見えるようになった人に悪態をついて、神殿の外に追い出しました。神殿の外で主イエスは彼に合いました。「あなたは人の子を信じるか」「主よ、その方はどんな人ですか。その人を信じたいのですが。」彼は見えるようになって初めて主イエスに会っているので、自分の目の前にいる人が主イエスだと気づいていなかったのです。「あなたと話をしている人が、その人だ。」目の前にいる人が自分の目を開いてくださった主イエスであることがわかったその人は、すぐに「主よ、信じます。」と言って主イエスの前にひざまずきました。主イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見えない者は見えないようになる。」

かなり長い物語で、多くのことが書かれていましたので、少し整理してみましょう。
まず生まれつき目の見えない人に主イエスは「この人の目が見えないのは、罪のためではなく、神の業がこの人に現れるためである。」と言われたことです。律法の概念をひっくり返す主イエスの言葉に弟子たちも、目の見えない本人もたいそう驚いたことでしょう。主イエスは、この人の目を見えるようにすることで神の業を表しました。しかし、見えなかった人の目が見えるようになったという事実があるにも関わらす、ファリサイ派の人々はそれをなんとかして否定しようとしました。事実を否定できなかった彼らは、事実を隠そうとしました。そのため、真実・真理を見ることが出来なくなっていました。主イエスが神から遣わされて来た人、神の子であり、救い主であるという真実が見えなくなり、救いの道から迷い出してしまったのです。一方、目を開いてもらった人やその両親は、またこの事実をそのまま受け入れた人々は、真実を見ることができました。主イエスを信じ、救いの道に導かれたのです。

生まれつき目の見えない人の目が見えるようになるという神の業は、いつでも起きることではありません。しかし、わたしたちは多くの神の業の中で生きているのではいでしょうか。気付いていないだけなのではないでしょうか。わたしたちは地球と言う環境の中で生きていますが、地球を卵にたとえると、わたしたちは薄皮の中だけで生活しています。これも神の業ではないでしょうか。ですから日常的に起きている小さなことも全ては神の業と見ることができます。見えるか見えないかではなく、見るか見ないかです。そのことをわたしたちは神様から問われているのです。主イエスは言われました。事実が見えているのにそれを認めず、真実を見ようとしないのであれば、罪である。」

最後に裁きについて、主イエスの言葉を聞きましょう。主イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」裁くということは、分けるということです。信じる者と信じない者を分けるために、主イエスはこの世に来られたと言われるのです。主イエスはいきなり裁くことはしません。わたしたちが信じことが出来るようにいろいろなことをしてくださいました。たくさんのしるしを見せてくださいました。それらを神の業として受け止めるかどうか、信じるかどうかを主イエスは見ておられます。それから救われるものとそうでない者を裁かれるのです。神の業を神の業として受け止め、信じることによって、わたしたちは救いに与ることができるのです。