2024年3月3日 命を与える霊 小田哲郎伝道師

(要約)弟子の多くがイエスのもとを離れました。イエスが永遠の命を得させる「天から降ったパン」だということを理解せず人間中心の考えを変えることができなかったからです。私たちもイエスにとどまるか離れるかの信仰を問われます。私たちの決意や努力ではなく、聖霊なる神が信仰を与え導びくのです。

(説教本文)ヨハネによる福音書6章60-71節

 昨日はこの礼拝堂で先週、天に召された教会員の葬儀礼拝が行われました。先週の礼拝には皆さんと共にそちらの席にお座りになって、共に礼拝し元気に声を交わしたのに、その夜に突然お亡くなりになりました。棺に収められた彼女は声をかければ起き出してきそうな平安なお顔でした。葬儀礼拝は亡くなった愛する家族を神さまのもとに送り出す礼拝であり、最後に共に守る礼拝であり、愛唱讃美歌や説教からその信仰者としての歩みを知る機会、また伝道の機会でもあります。
 愛唱讃美歌の一つ502の「いともかしこしイエスの恵み」には「罪に死にたる身をも活かす。主よりたまわる あめの糧に。飢えしこころも飽きたらいぬ」とあります。神からいただく天からのパンによって、飢え渇いた心も満たされるという事です。

 ヨハネによる福音書を読んでいると、この福音の物語が複数の層、あるいは複数の時代の声があるように思えます。これに関して、ある神学者は二つの舞台でこの物語が演じられているといいました。一つの舞台はイエス様ご自身の舞台、そしてもう一つの舞台はこの福音書を生み出したヨハネの信仰共同体つまり教会と信徒を舞台とするものです。このヨハネによる福音書は新約聖書にある4つの福音書の中でも、最も後の時代に書かれたと考えられます。そして、その時代というのは70年に神殿が崩壊し、ユダヤ教がイエスをキリストと告白するグループを異端とした90年代あたり1世紀の末に起こった皇帝ドミティアヌスによるキリスト教徒の大迫害の前後の頃と考えられます。
さらに物語のなかにはイスラエルの人たちが大切にしてきたモーセによって奴隷の地エジプトから導き出されてたという出エジプトの物語が劇中劇としてあり、さらにこれらの舞台は私たちの生きる現代に舞台を移して、今を生きる私たちをその福音の物語の中を生きるひとりの登場人物と舞台に立つように招いているのです。
 今日の聖書箇所では弟子たちの多くがイエスのもとを離れ去ったことが報告されています。これは他の福音書には出てこない証言です。「実にひどい話だ。だれがこんな話をきいていられようか。」と弟子たちの多くの者がつぶやいています。それに気がついたイエス様は「あなたがたはこのことに躓くのか。」と弟子たちに問いかけます。何が起こっているのでしょうか。この弟子たちのつぶやきが何なのか、何をひどいとかれらは言っているのか、少し前にもどって6章の始めから見てみましょう。
 6章の最初に描かれているのは、先月の説教にもあった5千人の供食と呼ばれる、山に登ったイエスの後を追って大勢の群衆が押し寄せ、その人たちに5つのパンと2匹の魚を感謝の祈りを唱えてから分け与えると、人々は満腹し、残ったパンくずで12の籠がいっぱいになったというイエスの行ったしるしです。
 このしるしを見て、群衆たちはイエス・キリストを救い主と信じ従う弟子となりました。でも、その時に到着していなかったイエスを探し求める群衆もさらに加わり、多くの人々が小舟でイエスを追ってカファルナウムに来ました。この群衆があの5千人の供食を見て、あるいは聞いて、腹を満たすパンを求めていることをイエス様は見抜きます「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と。
その群衆は「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行いますか?どのようなことをしてくれますか?」と言って「自分たちの先祖がモーセによってエジプトから導き出されて荒れ野を旅している時には、マンナというパンを食べました。天から降ってきたパンです。」モーセと同じようにイエス様がパンを天から降らせてくれることを期待します。確かに出エジプト記16章にはイスラエル人の全会衆、群衆たちがリーダーであるモーセとアロンに向かって不平を言うのです。つぶやくのです。「こんなんだったら、エジプトにいたほうがマシだった。あの時は肉のいっぱいはいった鍋があってパンも腹一杯食うことができた。今はエジプトを脱出できたものの荒れ野で飢えて死にそうだ。どうせ死ぬならエジプトで旨いものを腹一杯食べて死んだ方がよかったではないか」そんな声を聞いて主なる神はモーセに言います。「あなたたちのために天からパンを降らせよう」と。
イエス様はモーセのようにパンを降らせてみせてくれたら信じるという群衆に向かって「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。天の父がパンを与えたのだ。」と言います。加えてイエス様は「私の父が天からまことのパンを与える」と言い「この神のパンは、天から降ってきて世に命を与える」ただ腹を満たすのではなく命を与えるまことのパンである」とつげ、更に「私が命のパンである」と、ご自分のことを「天から降ってきた命のパン」だと言われたので、ユダヤ人たちはイエス様のことでつぶやき始めたのです。(6章41節)
「わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」とイエス様は弟子たちに言いました(51節)。これを聞いた弟子たちが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と言ったわけです。イエスを追いかけてカファルナウムまで来た多くの群衆、弟子たちは、5つのパンの奇跡を見て、聞いて、自分たちが待ち望んでいたモーセの再来のような救い主メシア、あるいはモーセのような預言者がついに現れたと思いました。それはあくまでモーセのような人間であり、そして私たちのこの抑圧された社会を貧しく生きざるを得ない経済状況を変えてくれる、具体的な私たちの側のこの世でのニーズに応えてくれる人、そんな救い主を待ち望んでいるのに、このイエスときたら自分を天からくだってきた神の子だと言い、自分がパンで、自分を食べれば永遠の命が得られる。マンナを食べた先祖は死んだが、このパンを食べれば永遠に生きるなんて言うのですから、そんな言葉はとても受け入れられない、となってしまうのです。
 私たちだって、この日本で、教会の外で、一般の会社や公立の学校で「イエス・キリストは神の子です。私はイエス・キリストを信じる者で永遠の命を生きると信じています」と証しするなら、「何を非科学的なことを言っているの?」「宗教ヤバくね?」という反応が返ってくることを恐れたりしないでしょうか?もちろん当時のここで弟子たちと言われている人たちはイスラエルの神を信じている人たちですから「宗教ヤバくね?」とはなりませんが、しかし、あの発言は神のことを思ってではなく、非常に人間的な考え、人間中心の考えです。そこに対してイエス様は「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言うのです。ここで霊と肉という対比がでてきますが、霊は神の霊であり、私たちが生きるようになるのは、神の霊が吹き込まれるからです。イエス様の言葉も聖霊によって聞かなければならない。神から与えられる言葉として受け止める以外に、命のパンとしてのイエス様の言葉を受け止めることはできません。「肉」ともいえる私たちの現実から発するニーズや人間中心の考えは何の役にも立たないのです。いや、具体的な事柄、肉の命のに関わる腹を満たすことや現実世界の課題を解決することには役に立つかもしれませんが、永遠の命にかかわる事柄には、私たちの考えや努力、科学技術の進歩は役に立たないのです。
 また61節で、イエス様は「あなたがたはこのことに躓くのか」というのですが、このことというのは前の51節の「わたしが与えるパンとは、世をいかすための私の肉のことである」以降にイエス様が話した内容「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命を得、わたしたその人を終わりの日に復活させる。」という、私たちが読めば、これは今日も礼拝の中で行われる聖餐式のことであると理解できるのですが、そして、ヨハネの教会で行われていた聖餐式の式文の言葉になっていたと思われます。しかし、ユダヤ教には聖餐式はありませんからこの言葉が意味するところは敵対するユダヤ人にはわからなかったでしょう。文字通りに理解してしまえばモーセの律法では禁じられている血を飲む行為です。レビ記17章10-14節には、「血を食べる者があるならば・・民の中から彼を必ず断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。・・・あなたがたはだれも血を食べてはならない」と記されていました。ユダヤ人は血を徹底的に抜くことなしには、どんな肉を食べることはありません。ですからイエスのことばを聞いた人は、嫌悪感を覚えたに違いありません。また後の時代には人肉食のような恐ろしい儀式をクリスチャンは行っているという噂が流れて、迫害にいたることもあったのです。ですから、そのことが躓きとなって、迫害によってイエスをキリスト救い主とする信仰を捨ててヨハネの教会を離れる人たちも多かったことがうかがい知れます。また、この言葉は同時に、血と肉によって象徴される贖い、つまりイエスが十字架につけられたときに、イエスのもとから逃げていった弟子たちが多くいたことも指し示しているのです。
 しかし、イエス様は最初から、自分と共に歩み始める弟子たちの中には、霊によって与えられる命の言葉、天から降って永遠の命を与えるパンとしてのイエス、十字架上での血と肉による贖いによって永遠の命が与えられ、終わりの日に復活するということを信じない弟子たちがいることを知っていたし、それが誰かも知っていました。そのことは6章最後の71節に書かれている12人の弟子のひとりイスカリオテのシモンの子ユダがイエスを引き渡そうとしていたことに表されています。
 弟子の多くのが離れ去った時、イエスと共に歩くのを止めてしまった時、12人の弟子にイエス様は問いかけます。「あなたがたも離れていきたいか」。この問いかけは、ヨハネの教会で、この福音書を聞く信徒ひとりひとりに真剣に問いかけられた言葉でもあるはずです。「この迫害の中であなたは信じ続けるのか?それともキリスト者であることを捨て教会から離れて行こうとするのか?」
 そう問われると一番弟子ともいえるシモン・ペトロは弟子を代表して「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じまた知っています。」と信仰を告白します。このペトロのイエスは神の聖者ですという信仰告白は他の福音書で「生ける神の子メシア」と告白しているものと同じす。しかし、「あなたの他にだれのところにいきましょうか」というこの力強い信仰告白にもかかわらず、イエス様が逮捕された時にペトロがイエスなんて知らないと言って逃げたことを私たちは知っています。イエス様もその事はイスカリオテのユダがご自分を引き渡そうとしていることと同様に知っていて、それは十字架に架けられるという父なる神の計画のためであることも受け入れているのでした。
 「こういうわけで「父からのお許しがなければ、だれも私のもとにくることはできない」と言ったのだ」という65節イエス様の言葉は、信仰は弱くて躓いてしまう私たちは決してイエス様のもとに行くことが困難だという拒絶の言葉ではありません。人間の自発的な努力によって近づけるとか、殉教にも負けない強い信仰を持つことによってとかではなく、聖霊によらなければ信仰をもつことができないということです。別の言い方をすれば、神様の側からの招き、信仰さえも悔い改めて神さまに立ち帰ることさえも神様から与えられる恵み、ギフトなのだというのです。
 「あなたも離れていきたいか」というのは、すでに招きに応えて歩み出した私たちへの問いでもあります。聖霊によって「イエスと共に歩むこと」を望み日本の社会で少数者のクリスチャンとしての生き方をするのか、それとも肉に従って永遠の命を得させる神の言葉よりもこの世の価値観に従って生きるのか、という問いでもあります。そのことを問われると自信ないなあと思われる方も多いのではないでしょうか?でも、昨日、天のみもとに送った方をはじめ信仰の先輩たちは、この地上での人生の最後までイエス様と共に歩み、今も永遠の命に生きているということを、私たちに見せてくれています。一人ひとりが神さまと向き合うだけでなく、そうして励ましてくれる先達がいるおかげで教会は2000年以上イエスと共に歩く歩みを止めないのです。このヨハネの福音書の物語のイエスの舞台とヨハネの教会の舞台と、そして私たちの舞台はつながっているのです。
 最後に聖餐主日の今日だから付け加えておきたいことがあります。
「実にひどい話だ」とイエスのもとを離れる弟子たちに言わしめた、キリストの血を飲みキリストの肉・体を食べる聖餐式が礼拝の後半で執り行われます。本当は5つのパンを感謝の祈りを捧げて5千人と分かち合ったように、実際は女性も子どもも含めればその倍の1万人はいたでしょうが、多くの人とここにいるすべての人と感謝して分かち合うということをしたいと思うのですが、それがユーカリスト(感謝)とも呼ばれる聖餐の意義だとは思いますが、やはりこのキリストの血と肉を霊的な意味で受け入れ、永遠の命を与えるパンであると信じなければ、肉の思いでみれば腹を満たすこともない小さなウエハースとブドウジュースでしかありません。まだ洗礼を受けていない方にはこれに与ることをご遠慮いただいています。しかし、このキリストの肉を食べて、血を飲んでイエスキリストを自分の心の内に受け入れたい。イエスキリストの招きに応えてイエス・キリストの愛の中に生きたい、イエス・キリストと共に人生を歩みたい。そしてこの神の家族の一人に加わりたいと願われる方は是非牧師にその気持ちをお伝えいただければと思います。主イエス・キリストの復活を祝うイースターの主の食卓・聖餐にはひとりでも多くの方が共に食卓につけることを祈り願っています。